まさかここで出会う事になろうとは思いもしませんでした
うっかり悲鳴を上げて全力疾走したためか、酷く疲れているというのだけは確かだった。
走り回ったおかげで先程まで肌寒さに凍えがちだった身体は今はむしろ熱いくらいで。だがしかし喉が皮膚に張り付くような感じが酷く不快だった。
やっとの事で逃げ込んだ室内で水差しを発見し、中に水が入っているのを確認するとイリスは躊躇う事なく飲み干す。熱で火照った身体が少々冷えた気がしたが、これくらいならば大丈夫だろう。
「……さっきのあれ、喋れないのかな……」
こちらが悲鳴を上げて逃げ出したところまではいい。向こうが追いかけてきたのもまだ想定の範囲内だ。
だがしかし、声を掛けられるという事はなかった。待て、とか止まれ、とかの制止の言葉のみならず、呻き声や鳴き声のような音も奴から発せられるという事はなかった。
皮膚がないため眼球も歯も剥き出し状態のあの化物は、もしかしたら言葉を、声を出す事ができないのかもしれない。
向こうが言葉を発する事ができなくとも、こちらの言葉は理解しているかもしれない。理解していないかもしれない。確実に理解できているという確証も無しに話しかけるのはかなり勇気がいる事だった。
意思の疎通ができるならば良い。しかしできなければ自分はアレに襲われて命を落とすだろう。そう考えると逃げて正解だったのかもしれない。
本館からまたも別館へ逆戻りである。
本館と別館を繋ぐ渡り廊下の途中で、明らかに奴は失速した。追うのを諦めた、というよりはこちらに来る事を拒んでいたようにも思う。じっくり観察する余裕はなく、何か知らんが追いかけてこなくなったラッキー、くらいの勢いでここまで逃げ込んできたので実際の所はどうなのか不明のままではある。
もし奴がこちら側の別館にこないのであれば、ある程度の安全は確保できたとも言える。
……だからといってずっとこちら側にいるわけにもいかないが。それに奴が言葉を発する事ができないにしても、知能も何もないと思うわけにもいかない。完全にこっちが安全地帯だと思わせておいて、油断した頃を見計らってこちら側に出没、なんて事も無いとは言い切れないのだ。
こっち側安全だからまぁいっかー、で寝る時もわかりやすい場所でぐーすか眠っていたらいつの間にか……なんて事も有り得るかもしれない。完全に安心するのもどうかとは思うが、こちら側でも出来る限り身を隠しつつ行動するべきだろう。
本館の方が色々と役に立ちそうな物がありそうな気がするだけに、向こう側を調べたいのだが今すぐ向こうに戻るのは難しいだろう。
少し時間を置いて、それからそっとまた向こうへ行くべきか。
空になった水差しを手にしばし眺めていたが、流石にこれを割って破片を凶器として使うには心許ない。破片を床に撒けば……と考えたが、よく考えなくともそれはイリスにとっても危険だった。靴も靴下も何もない、裸足である。自分で仕掛けた罠に自分が引っ掛かり悶絶しているうちに追いつかれるという展開が瞬時に思い浮かんだ。
考えても名案など浮かぶわけもなく。無意識のうちにイリスは大きく、深く溜息をついていた。
……とりあえず、缶詰を探そう。お腹空きすぎて考えも自然と後ろ向きになりつつある気がする。
――そうして再び、本館。
二階の渡り廊下から行くべきか迷ったが、一度目も二度目もあの化物と遭遇したのは二階だ。用心のため四階から本館へ移動し、化物の姿がないのを確認してそっと三階へと下りる。
一階へ向かおうとしている時にあの化物とは遭遇しているので、一先ずこの階を調べるべきだろうか。
そんな風に考えて、とりあえず手近な部屋のドアを開ける。恐らくは客間だろうか。使用人部屋と似たような室内だが、こちらの方が調度品など色々と置かれているせいか、少しだけ生活感が溢れているようにも見える。
とはいえ、ベッドは相変わらず布団も枕もなく少しだけ柔らかめのマットが置かれているだけだ。
室内を調べてみたが、特にこれといって役に立ちそうな物はない。
何というか、館を引き払うつもりで必要のない物だけを残していった……そんな風にも見えてしまう。
隣の部屋も、更に隣の部屋も似たような部屋だった。
もしかしたらこの階の部屋全部が似たようなものなのかもしれない。まだたった三部屋見ただけだがそんな風にも考えてしまって。
「……やっぱ、下の階行った方がいいのかもしれない。危険だけど」
危険ではあるが、あの化物が意味もなくうろついているとは何故か思えない。もしかしたら一階か二階に何かあるのかもしれない。何があるのかは、わからないし想像もつかないが。
とりあえずあと一部屋、この隣の部屋を見て何もなかったら危険ではあるが二階へ向かってみよう。そう決めて。
イリスが廊下へと出た直後だった。背後の方から、重々しい足音が聞こえてくる。
「――ッ!?」
まさか、あの化物が上がってきた……!?
咄嗟に今いた部屋に戻ろうとしたが、思わず踏み止まる。
仮に今いた部屋に戻ったとして、この部屋には特に身を隠せそうな場所がない。万が一室内に入ってこられたら、逃げ場などない。ついでにイリスは部屋を確認した際、何度も同じ部屋に入らないようにわかりやすい目印がわりにドアを完全に閉めてはいなかった。
今まで見た部屋は、ほんの少しだけドアが開いている状態である。
あの化物にどれくらいの知能があるかはさておき、今まで閉められていたドアがかすかにではあるが開いている以上、恐らくは中に何かがいる、もしくはいたのだろうと考えて室内に入ってくるかもしれない。
ならば今いた部屋に戻りドアをしっかりと閉めれば――いや、それも安全とは言い切れない気がする。
自分が追う立場であるなら、開いているドアの部屋をさらっと確認して、最後にドアがしっかり閉められている部屋も確認するだろう。というか、ドアが閉まっている部屋こそが怪しく感じられる。それに何より、今から部屋に入り込んでドアを閉めたらその音で気付かれてしまいそうだ。
あれ、これもしかしなくてもヤバいんじゃ……
そう考えてさぁっと血の気が失せる。だからといってこのままここで立ち尽くすわけにもいかず。かといって隠れられそうな場所がない部屋に戻る気にもなれず。
一か八かでまだ入っていない部屋に入るべきだろうか、しかしここまで同じような内装の部屋が続いたのだ。次も部屋も恐らく隠れられそうな場所などないだろう。
「――」
「っ!?」
イリスが入るべきかどうか悩んでいた部屋の更に隣の部屋のドアが、音もなくそっと開いた。ほんの数センチだけではあるが、内側から開けられたそのドアと、こっちと囁くような声に悩む間もなくイリスはその部屋へと入り込む。
ドアを閉める余裕はなかったが、入り込んだその部屋は他の部屋と違い片付けられていないようで随分と埃っぽかった。鼻がむずむずする。くしゃみが出そうだ。しかし物音をたてるわけにもいかず、とにかくイリスはどうにか身を隠せそうな――床に乱雑に積み上げられた布――これも埃まみれではあるが、その中に潜り込んだ。
じっと息を潜めていたのは、恐らくほんの数分だろう。
先程聞こえてきた足音が、徐々に近づいてくる。まるで何かを確認するかのように部屋の中へと足を踏み入れ、そうして何もなかったと判断すると隣の部屋へ。その際にドアはしっかりと閉められたようだ。目印が目印にならなかったな……などと思いはするが、それどころではない。
近づいてきた足音は、そんな事を考えているうちにとうとうこの部屋にもやってきた。ほとんど反射的に息を止める。
実際の時間はそれほど長くはなかっただろう。足音の主は室内に足を踏み入れ、ぐるりと回るように移動し何もないと判断したのか部屋を出ていった。パタン、とドアの閉まる音が響く。
足音が遠ざかるまで、イリスは息を潜めたままだった。
部屋を出ていってふぅこれで一安心、などと安堵の息を吐き出した途端勢いよくドアを開けてあの化物が再び戻ってくるかもしれない、という嫌な想像が頭をよぎったからだ。
完全に足音が聞こえなくなってから、そっとイリスは埃まみれの布の中から這い出した。
布はどうやらよく見るとカーテンだったものらしい。随分ボロボロになったものや、色褪せただけのもの。損傷に差はあれど、長い事放置されていたのは確実、積もった埃のせいでどれもすぐに再利用できるような物ではない。
くしゃみが出そうなのを誤魔化すように、鼻の下を指でこする。それから室内を見回すが、この部屋はどうやらそのうち処分するものを集めておいただけの部屋なのだろう。置かれている家具も見ただけでもう駄目だとわかるような物ばかりだった。
「…………一先ず、助かったと考えるべきなのかな?」
部屋の内側からドアが開けられた以上、ここに誰かがいるはずなのだが少なくともイリスが見回した範囲には人らしき姿は見つからない。室内そのものはそれほど広くないというのに、だ。
他に誰かが隠れられるような場所があるだろうか、と注意深く一つ一つ室内にある物を見て行くが、目に付いたのはボロボロのクローゼットくらいだった。しかしこれだけボロボロだと、中に誰かが入っていても、ちょっと身動きしただけで軋んだ音を立てそうだ。まさかねぇ、と思いつつクローゼットを開けてみるが、やはりそこには誰もいない。
「ふむ、一先ず、という点ではそう考えていいじゃろうな」
「ッ!?」
少し遅れて、先程のイリスの独り言に何者かがこたえる。意外にも近くから聞こえた声にびくっと身を竦ませて。
声がした方へ視線を向ける。
「……あ」
「久しぶりじゃのう、嬢ちゃんや」
顎髭を撫でつつこちらを見上げるそれに、イリスの視線は釘付けだった。




