095.消えた黒爪狼
「ルネ、済みませんが、いま周囲が、どうなっているのか教えてもらえませんか?」
「えっ? あっ、ハツカさん、その目は、どうしたんですか?」
ルネは、ハツカが腫れた目を閉じて、足下が覚束なくなっている事に気づき、慌てる。
「針蜘蛛の攻撃で、やられました。センが言うには、治療すれば治るそうです」
「そうですか、分かりました。それじゃあハツカさん、ちょっと診せて下さい」
「いえ、その前に、周囲の様子を教えて下さい」
ハツカは、自身の治療よりも周囲の状況が、どうなっているのかが気掛かりだった。
「あー、センさんが倒れているにゃ!」
「えーっ、どうしてにゃ、どうしてにゃ?」
「センさん、フルボッコにゃ」
「ツンツン、ツンツンッ!」
「動かないにゃ」
「まさか、死んでいるのですか?」
ハツカは、子猫達の声を聞いて、褐色狼がセンを殺めてしまったのか、と慌てる。
「いや、剣が折られてはいるが、息はある」
「そ、そうですか」
ハツカは、コウヤから褐色狼が、センを殺めていない事を聞いて安堵する。
そして、先程から返事が無い褐色狼の事を訊ねようとする。
──が、この時になって、周囲に褐色狼の反応が、また消えている事に気づく。
ルネに声を掛けられ、そちらに意識がいっている間に、再び、身を隠したようだ。
「コウヤ、褐色狼……いえ、黒爪狼は、いま、どこにいますか?」
センは気絶しているようだが、先ほどの事もある。
菟糸を臨戦態勢で展開して、センを警戒している為、黒爪狼の探知に割く余裕が無い。
その為ハツカは、広域で黒爪狼を探せるコウヤに、その所在を求めた。
「あいつなら、ルネがハツカに声を掛ける直前に、ここから離れていったぞ」
「ええ、私もチラリと動く人影を見ました」
「そんな、なぜ……」
ハツカは、再び、姿を隠した黒爪狼の行動に愕然とする。
それでは、センと対峙していた時に、本当に敵対の意思を示したようではないか。
あの時、ハツカはセンの言葉に驚かされた。
それは、いままで敵を増やす事を避けていた黒爪狼の行動と違っていたから。
信頼していたからこそ驚かされたが、敵対者であったセンは、いまも健在である。
その事から、あの時、ハツカの意を汲んでくれていた、と確信している。
しかし、ハツカの中での真実は、それで良くても、他者は違う。
そして、その釈明の場に本人はいない。
このままでは、欠席裁判となってしまう
姿を消した黒爪狼と倒されていたセン。
この二者による欠席裁判が起こされた場合、センの言い分の方が通る可能性が高い。
場に居ない者になら、罪はいくらでも着せられ、釈明される事もない。
いわゆる『死人に口無し』と言う状態。
それが無くとも、黒爪狼は話す事が出来ないので、一方的な事情聴取の様相となる。
「とにかく、ここに私が着いてからの経緯を、お話ししておきます」
ゆえに、その可能性を頭に過ぎらせたハツカの思考は、ヤバイ方向に加速した。
ハツカは、センが気を失っている事を良い事に、先入観の植え付けに着手する。
ハツカが、伝えた内容は以下。
・ハツカが現場に着いた時、針蜘蛛、セン、そして褐色狼と化した黒爪狼が居た。
・三すくみ状態だったのを、ハツカが仲裁して共闘に持ち込み、針蜘蛛を討伐する。
・その際ハツカは、針蜘蛛の攻撃を受けて視力を失う。
・針蜘蛛討伐後に、センとの対話が持たれる。
・センが、褐色狼に敵対の意思があった、と宣言して戦闘が開始される。
・菟糸で止めに入るも、それを阻止され、直後に地面に倒れ込む音が一つした。
・戦闘結果の確認をしようとしていた所、ルネ達が現場に到着する。
「目が見えなくなった後の事は、不鮮明な説明しか出来ませんが、このような感じです」
そしてハツカは、先述の通り、黒爪狼がセンを殺めなかった点を強調した。
そこから、センが言うような敵対の意思は無かった、と黒爪狼の擁護をする。
「まぁ、ハツカの黒爪狼への贔屓は、今更だから置いておくとして……」
「えっ、いまの話って、そう言う事だったんですか?」
「そ、そんな事はありません」
ハツカの画策は、ルネには通用したが、コウヤには見破られ、呆れられてしまう。
「ともかく、おれは周囲の警戒をしておく。ルネは、ハツカの目を診てやってくれ」
「そうですね、ハツカさん、目を診せて下さい」
「はい、お願いします」
コウヤは、ルネにハツカの事を任せると、探知範囲を拡大して周囲の様子を覗う。
ハツカ達によって、周囲で最も怪しかった反応の主であった針蜘蛛は排除された。
ハツカの前から姿を消した黒爪狼は、コウヤが熱探知で、その反応を捉えている。
多少の問題点は残ってはいるが、後顧の憂いは消えた。
これで、コウヤに周囲の警戒とシロウの捜索に専念出来る環境が整う。
それは、単に魔物の脅威度が下がった、と言うだけではない。
ハツカの目をルネに診てもらう余裕が生まれた、と言う意味は大きかった。
いまのハツカは、ルネに手を引いてもらっている。
ハツカは、菟糸によって周囲の様子を把握はしている。
しかしながら、目が見えない事で足下が覚束なく、歩く事が困難になっていた。
そんな状態では、シロウの捜索はもちろん、あらゆる場面で支障をきたす。
ゆえに、コウヤが広域をチェックしている間に、ルネに応急処置を施してもらう。
ルネは、ハツカを岩の上に座らせると、腫れた瞼を開いて状態を診る。
そこには、非常に微細な産毛針が刺さっていた。
しかし、ルネの手持ちの道具や調薬に、この毛針りの除去を可能とする物はなかった。
この間に、戦闘と事態の急変で保っていたハツカの高揚感と緊張感が途切れる。
その為、興奮状態から冷めたハツカに、目の痛みを自覚した苦痛の表情が表れていた。
ルネは、水で手早く目の洗浄を施し、手持ちの調薬を服用してもらい、炎症を抑える。
そして、陽の光による刺激反応を考慮して、包帯で目を覆って保護する。
いまのルネに出来たのは、この程度の応急処置だった。
だが、それによってハツカの表情に、わずかながら穏やかさが戻ってくる。
「すぐにでも王都に戻って、ちゃんとハツカさんの目を診てもらった方が良いです」
ルネは、シロウの事も気になるが、ハツカの目の状態を診て、そう判断した。
「いえ、私は大丈夫です。それよりも、シロウを何日も放っておく方が問題です」
それは、たった一日の間に、多くの苦難を経験したハツカだからこそ分かる現実。
いまハツカの為に王都へ帰還してしまえば、戻って来るのに、また一日掛かる。
それでは、手持ちの荷物を全く持っていないシロウの生存が、心底危うくなる。
ゆえに、ハツカは、自身の状態とシロウの生存率を天秤に掛けて、そう答えた。
ルネ達が、そんなやり取りをしている頃、コウヤは周囲の安全の確認を終える。
そして、次にセンからも、今回の事の経緯を尋ねようとして──
「ん? 黒爪狼の反応が消えた?」
「えっ?」
コウヤは、熱探知から黒爪狼の反応が消えた事に気づいて動きを止めた。
そして、その言葉にハツカが敏感に反応した。




