083.共感と安寧
黒爪狼には、百二足や岩鼠と戦っていた時の好戦的な印象があった。
しかし、いまの黒爪狼を見ていると、決して気性が荒い訳ではない事が分かる。
ただ、それは黒爪狼が、毒に犯されて弱っている、と言う理由からなのかもしれない。
しかしながら、次第に、その恐ろしさが薄れていき、普通の犬のように見えてきた。
ハツカは、気づくと自分の傍らで目を閉じている黒爪狼の毛並みに触れ、撫でていた。
それは、戦う術を失い、一人でいる事の心細さから出た無意識の行動だった。
敵意の無い行動に黒爪狼は虚を突かれるも、ハツカに顔を向け大人しくしていた。
しかし、それも一時の事である。
黒爪狼は、立ち上がると、距離を取って座り直す。
ハツカに撫でられた事を、黒爪狼は嫌ってはいなかっただろう。
その証拠に、離れる際に、決して乱暴に手を振り払う事はしなかった。
むしろ、ハツカを驚かせまいと、ゆっくりと距離を取って離れる。
それはハツカとの馴れ合いを良しとしない、と言う意思表示のようであった。
ハツカの手には、黒爪狼の少し荒れた毛並みの感触が残る。
その振り払われた手と黒爪狼を見て、ハツカは少し寂しさを感じる。
と同時に、その自身の機微に気づき、精神の有り様が弱くなっている事を実感する。
「そうですね、いつまでもアナタがいるとは限らないのですよね」
ハツカは、自分の弱さから黒爪狼に寄り掛かっていた事を顧みる。
自然界では弱肉強食が全てである。
自分が弱いままでは、生きてはいけない。
それは、何も単純な力だけではない。
精神が弱ければ、先に進む事が出来なくなってしまう。
戦う気力を失い、生にしがみ付く事を諦めた時点で死期を迎える。
ゆえに、最初から他者を頼るような事ではいけなかった。
その心境に気づき、思い至らせてくれた黒爪狼に、自然と視線が向く。
そこには、相変わらず静かに横になって地に伏せている黒爪狼の姿があった。
黒爪狼は、百二足の毒に犯されて、徐々に衰弱していっている。
おそらくは、自身の死期も察しているのであろう。
だが黒爪狼は、そんな中でも、まだ生を諦めていない。
自身の自然治癒能力と毒の侵食。
それらの天秤の傾きを感じながら、粘り、踏み止まっている。
その上で、いま、ハツカに自身と同じように精神を強く持つ事を示している。
ハツカは、いつの間にか、黒爪狼の態度を、そう捕らえるようになっていた。
それは、ハツカの憶測であり、希望であり、勝手な思い込みであった。
しかしながら、それは、ずっと黒爪狼を見ていたハツカだから感じられた感性。
ゆえに、ここにいる者に、生きていて欲しい、と思い始めていた。
ハツカは、マジックバックに手を伸ばすと小瓶を取り出す。
そして、黒爪狼の前で屈むと、その目の前で、小瓶の中身を口に含んで見せた。
「これは、百二足の毒を調べて作ってもらった解毒薬です。いますぐ飲みなさい」
ハツカは、口の中に広がる苦味に耐えながら、ルネから託された解毒薬の一本を使う。
黒爪狼は、ハツカの苦しそうな表情を見て、解毒薬を凝視する。
それは、明らかに解毒薬を警戒しての素振りだった。
「もちろん美味しい物ではありませんし、これが毒なら私も一緒に死ぬ事になります」
ハツカは、黒爪狼と視線を合わせて訴える。
いまハツカは、心底、黒爪狼を救いたいと思っていた。
黒爪狼との出会いは、決して良いものではなかった。
初戦は、百二足と子猫達との乱戦。
次に姿を目にしたのは夜営地の洞穴の前で、多くの魔物を倒していた姿。
その強さに脅威を覚えたが、言葉が通じ、無用な戦闘を好まない事を理解した。
この者は、決して悪でもなければ、乱暴者でもない。
むしろ、子猫よりも理知的な一面も垣間見られた。
この地に黒爪狼が居る事が問題なのであれば、自分達が連れ出せば良い。
ハツカは、そんな考えが浮かぶ自分を不思議に思いながら、悪くは無い、と思う。
そして、自身の偏った思考を、最適解であるように思い始めた。
こうしてハツカは、黒爪狼に解毒薬を薦める、と言う行動に至っている。
それは、『ストックホルム症候群』や『リマ症候群』と呼ばれるものに近い状態。
前者は、スェーデンの銀行強盗人質立てこもり事件。
後者は、ペルーの日本大使公邸占拠事件から命名されたもの。
どちらも、犯人と人質との間に共感や仲間意識が生まれ、協力関係に至った状態。
その要因となるのが、警察や軍隊、そして魔物と言った外敵に、共に抵抗する一体感。
つまり、ある程度の時間と行動の共有。そして他者を拘束しすぎない不自由にある。
それが、両者の精神の垣根を取り払い、仲間意識を強くする。
そうして出された解毒薬を、黒爪狼は慎重に思案したのち受け入れた。
黒爪狼は、苦味で顔を歪ませるも、それを全て服用する。
それはハツカの言葉を信じた証でもあった。
その後、黒爪狼は、しばしの休眠に入る。
それは、ルネが解毒作用を促進させる為に混ぜていた睡眠効果によるもの。
身体の回復を早める為に処方された調薬が、黒爪狼に一時の安寧をもたらす。
逆にハツカは、黒爪狼を守るべき者と認識する事で、精神の安定を取り戻していった。
それは、共に弱い立場に陥った事による共感。
そして、生存本能から来る錯覚と依存性によって引き起こされたものでもあった。
しかしながら、その状態は、間違いなくハツカの精神を復調させた。
ハツカは、自分に身を任せ、眠りについた黒爪狼を優しく撫でる。
そして、穏やかに流れる風と陽の光の中で、不思議と視界が開けていくのを感じた。
ハツカ達の様子を覗う者、姿を確認して立ち去る者。
いままで気づかなかった気配が、鮮明に読み取れるようになる。
いつしかハツカは、周囲の様子を完全に把握出来るまでになっていた。
「これは……」
ハツカは、懐かしく感じられる感覚に、そのものの名を呼ぶ。
『菟糸』
ハツカの呼び掛けに応じて、それは地面から湧き上がるように姿を現す。
「宝鎖が使えるようになっている!」
一度は失った宝鎖の突然の復活に我を失う。
しかし、すぐに正気を取り戻すと、もう一つの宝衣・燕麦の展開を試みた。
だが、それは空振りに終わる。
燕麦の発現に失敗し、何も起きなかった事で放心状態となる。
──が、すぐに気持ちを切り替えた。
再び菟糸のチェックに戻り、宝鎖の複数展開が出来ない事に気づく。
そこで、菟糸燕麦が、完全には復活している訳ではない事を把握した。
使えるのは宝鎖・菟糸のみ。操れるのも一本のみだった。
しかしながら、いまのハツカには、それで十分だった。
「最初の頃に戻ったと思えば、問題ありません」
菟糸の復活により、ハツカの表情から憂いが消える。
いままで抱いていた投げやりな気分が払拭され、活力が戻って来る。
そして、込み上げてきた感情が、頬に一筋の涙を伝らせたのであった。




