072.ハツカの朝食風景
温かい湯の香りが、ハツカの鼻腔をくすぐる。
ハツカは微睡みの中を漂いながら、届いてきた会話に耳を傾けた。
それは賑やかな会話。
そこには焦燥感などなく、ただただムダ話と思える声が響く。
その事からハツカは、岩鼠の襲撃を無事に乗り切った事を感じ取った。
次第に意識がハッキリとし、身を起こそうとする。
しかし、その身は重く、なかなか思うように起き上がれない。
先の防衛戦で無理をしすぎた為、体力の回復が追いついていなかった。
それでも意識を集中すれば、起き上がる事は出来たであろう。
これは、いわゆる、二度寝をしたい、と身体が訴えかけている状態。
最初に強い意志をもって起き上がってしまえば、あとは普段通りに動ける。
──と分かってはいるのだが、ハツカは惰眠を貪る事を選択した。
(起きるなら万全の状態の方が良いでしょう。いまは、まだその時ではありません)
ハツカは、コッソリと菟糸で周囲の様子を確認した後、黙って再び休眠に入る。
自分が気を失ってから、どうやって岩鼠の追撃を防いでいたのかは気がかりだった。
しかし、周囲に子猫達の反応があった事から納得がいった。
魔力を使い果たしたコウヤに代わって、あの子猫達が守りを担っていたのだろう。
その事が分かったからこそ、ハツカは、いまは体力の回復に努めるべきだ、と……
(ああ、もう、地面が固くて眠れません)
言い訳を用意して二度寝を画策したが、環境が悪かった。
気を失っていた時には問題なかったが、一度意識してしまっては、もう眠れない。
「(せめて、もう少しマシな所で横になりたかったです)」
ハツカは、ポツリと呟いて諦めると、ムクリと起き上がった。
「あっ、ハツカさん、目が覚めたんですね。良かったです」
ちょうどそこにハツカの様子を見に来たルネが顔を出した。
「いきなり倒れたので心配していました」
ルネの言葉と安堵した表情に、ハツカは罪悪感に苛まれた。
「ハツカさんは、まだ休んでいてください。朝食を運んできますね」
「朝……なのですね。私も、そちらでみんなと一緒に食べます」
「分かりました。ハツカさんは慌てないで、ゆっくり来てください」
ルネの気遣いと笑顔が眩しくて胸が痛い。
予想以上の追加ダメージで、精神的にグロッキーになる。
ハツカは、この罪悪感を払拭すべく素早く身支度を済ませる。
そして、先程から耳に届いていた声がする方向へと歩き出した。
ルネには、慌てなくても良い、と言われたが、次第に暖かくなる空気が心地良い。
陽の光による明るさと気温が、疲れきっていたハツカの身体を癒し活性化させる。
それは、薄暗い洞穴から出た事による気持ちの変化によるものだけではなかった。
人間は早朝に陽の光を浴びる事で、身体に内包している体内時計をリセットしている。
この体内時計は、生物の睡眠や行動の周期に影響を与えるもの。
そして、身体のそれぞれの器官が独自の体内時計を有している。
その為、早朝のリセットが行われない環境下では、少しずつズレていく。
それは食事の前に胃が、あらかじめ胃酸を準備しているような状態が狂う事。
このようなズレが大きくなると、身体の健康状態を維持する事が出来なくなる。
これが、肥満や生活習慣病を誘発する。
また、この体内時間は、自然界においては、活動時間の差別化として表面化している。
端的に言えば、昼行性や夜行性と言ったもの。
それは、生物にとって最重要な『時間的住み分け』と『行動時間の配分』を意味する。
この性質によって生物は、限られた空間を共有する同種の異性との出会いを増やす。
つまり体内時計とは、『種族としての生存』を担う重要なシステムでもあった。
ハツカは不思議とスッキリした気持ちとなり、その分、身体が軽くなった気になる。
その影響か、ずっと気になっていた声の主を、早々に発見して視界に捉えた。
(やはり、アニィの声でしたか)
アニィは、今日も元気にコウヤに遊ばれていた。
アニィの目の前にいるコウヤの手からスプーンが出たり消えたりしている。
その様子を見て、アニィは一喜一憂しているのである。
──が、ハツカの角度からだと、タネがモロバレであった。
(なるほど、アレは、そう言うものだったのですね)
コウヤが、巧みにアニィの視線を誘導して、死角に隠しているのを見て感心する。
タネが分かれば単純なのだが、それを自分が出来るか、と言われれば別である。
「アニィ、コウヤ、おはようございます」
「ああ、目が覚めたか、もう大丈夫か?」
「おはにゃ!(あせあせ)」
ハツカは、一声掛けてアニィの近くに回り込んで腰を下ろす。
それに気づいた二人からも挨拶が返された。
その際にコウヤから、自身の口元の前で人差し指を立てるジェスチャーが返される。
しばらくは、このネタで興味を引くからネタバレは無し、と言う趣旨なのだろう。
さすがにコウヤも、自身の持ちネタの弱い角度は熟知していた。
「(そうですね、スプーン曲げを見せてくれるのであれば考えましょう)」
ハツカは、少し意地悪く小声で答える。
「(さすがに食事前は、お断りだ)」
「(えっ?)」
ハツカは、コウヤの含みのある言葉に引っ掛かりを覚える。
「(おれ以外の物で良いのなら、フォークの先だって曲げてやろう)」
するとコウヤは、アッサリと、こう答えた。
つまりは、スプーン曲げが出来る、と言う事だ。
その事実に辿り着いた時、ハツカの興味が膨らんだ。
「では、シロウの物を使いましょう。どうせこの場には居ないので……」
ハツカは近くに置いてあったシロウのマジックバックに手を伸ばす。
「ハツカさん、何をしているんですか?」
その行為を目にしたルネが、ハツカに不信な目を向けていた。
「ルネが食事を持って来てくれました。みんなでいただきましょう」
ハツカは、何事もなかったかのように、シレッと話題を変える。
そして、運ばれてきたナベを受け取ると、温められたスープの配膳を率先して行った。
それはどう見ても、イタズラがバレて、取り繕っている子供の姿。
その様子にルネは、少し複雑そうな表情を浮かべる。
だが、次の瞬間には温かく見守るような表情に変化していた。
ハツカは、そのルネの機微を不思議に感じながら、その場を濁す。
そして、ルネが取りに戻って運んできた目玉焼きを受け取ると、パンの上に乗せる。
その後は、ただただ静かに食事を口に運んで、粛々と朝食を済ませるのであった。




