263.影落ちる
「えっ?」
ルネは、近隣の炎壁で一定の明るさが残る場に影が落ちた事で異変を察知する。
猪頸鬼が、その突進力を活かしてダーハの土壁を突破したのを目にしている。
その為、同様に馬車の残骸を力任せに突破して来る可能性を予想し、警戒していた。
しかし、ここで狂騒羊ばりの跳躍で頭上を取られる事までは想定していなかった。
猪の魔物であり、人間に近い四肢を持つ猪頸鬼。
その外見の印象を強く受けていたがゆえに、ルネは、この奇襲への対応が遅れる。
ルネは反射的に、準備していたナイフを猪頸鬼に向けて放つ。
その軌跡は猪頸鬼を捉えるも、棍棒によって防御される。
降下攻撃の体勢に入った猪頸鬼に向けられて放たれた投擲攻撃。
それは、これまでのような、行動を予測して狙いを定めた攻撃ではない。
ルネの投擲は、この直前の戦闘で開花した才能。
その為、修練の反復で得た技能とは異なり、咄嗟の反応時に弱点が浮き彫りとなる。
それは、無意識下で命中させやすい身体の中心点に攻撃が集束してしまう点。
ここで敵の弱点を狙うだけの練度があったなら、有効打を与えられる可能性があった。
しかしながらルネの技能は、それが出来るだけの練度に達していない。
その為、ルネの投擲攻撃と反撃を警戒した猪頸鬼の防御が噛み合った。
防御体勢にあった猪頸鬼の降下攻撃が、ルネを捉える。
それは、地上を駆ける猪頸鬼の体当たり同様の質量攻撃。
そして自重を加速させて敵を地面に叩きつける降下攻撃の方が、威力の伝達率が高い。
敵に余す事なく威力を叩き込める降下攻撃による圧殺攻撃。
その激突でルネは地面に叩き付けられ、全身を強打し組み伏せられた。
「……っ!」
肺にあった空気が全て放出され、言葉にならない声が漏れる。
無防備な状態で受けた猪頸鬼の一撃。
それにより激流の如き痛みが、脳に一斉に押し寄せる。
人間の精神で耐えられる許容量を遥かに超えた激痛の濁流。
その災害から精神を守る為に、身体の自己防衛機能がルネの意識を飛ばす。
グッタリと力無く倒れ、動かなくなるルネ。
だが、そんな状態にまで陥りながらも、かろうじてその生命を繋ぎとめていた。
その命の灯し火を繋ぎとめたのは、ルネ用に作られた野絹製のローブの恩恵。
蛾の魔物である繭蛾の魔力に満ちたローブの打撃耐性が機能した奇跡であった。
しかし、虫の息にあるルネの前には、まだ猪頸鬼の脅威が残されたまま。
猪頸鬼は身を起こすと、意識を失ったルネを掴み上げる。
ようやく一つ狩猟品を捉える事が叶った事で猪頸鬼の顔に喜色が浮かぶ。
思いのほか手こずった活きの良い好敵手。
この獲物を下した事で、猪頸鬼の胸に充足感が満ちる。
多くの同胞と共に獲物を追い込み、逃げ惑う獲物達を一まとめに狩る狩猟。
それは、糧を得る上で悪い事ではない。
飽くなき武への向上の志しを胸に宿す猪頸鬼と言う種族。
彼らは、獲物の必死の抵抗を──滾る力をぶつけられる獲物との闘争を待望している。
自分達とは異なる奇異な戦い方をする獲物との攻防。
猪頸鬼は、その戦い方に翻弄されるも、無事に討ち果たした事で満足する。
この小動物は、自らと戦うには、力も素早さも未熟な個体だった。
されど、他の数多の獲物とは異なり、必死な抵抗を見せた好敵手。
ゆえに、猪頸鬼は当然の権利として、この獲物を戦利品として里へと持ち帰る。
猪頸鬼の肩へと担がれるルネ。
と、その衝撃でルネの意識が、わずかに覚醒する。
まどろんだ意識の中でルネの思考が彷徨う。
ここがどこなのか。何をしていたのか思い出せない。
何かをしようとしていたような気がするが、思い出せない。
身体を起そうにも、力が入らず動けない。
そして、なぜだか、ひどく全身が熱い。
激痛にうなされ、思考が正常に働かない。
そして、再び身体の防衛機能が働き、眠りへと誘われていく。
そんな中でルネが、最後に零した言葉。
それは──
「シロさん……」
探していた者の名を思い出してのものか。
はたまた、助けを求めたものだったのか。
その真意を知る者の意識が再び閉ざされる。
そしてルネを抱えた猪頸鬼は、この上ない充実感と共に里へと向けて足を踏み出す。
【ガッ!】
──が、次の瞬間、その猪頸鬼の脳天が貫かれた。
巨体が崩れ落ち、ルネの身もまた宙に投げ出される。
意識を失い、瀕死の状態のルネが地面へと落下する。
それは、ルネにとっての致命傷となる事故。
しかし、その身は、新たに場に落ちた影によって受け止められ、事なきを得る。
「ルネ、遅くなってすまない」
そう声を掛けたのは、全身の負傷を包帯で覆い隠している包帯男。
蜥蜴人によって最初に離脱した男が逃走路を逆走し、この場に舞い戻った。




