252.鎖使い
「ハツカ、もう十分だ。引くぞ!」
「……分かりました。そうですね、この辺りが潮時でしょう」
興奮状態の馬を宥めるのに手こずり、逃げ遅れた馬車。
その下へと移動したコウヤが、ハツカを呼び寄せる。
その声によってハツカは、戦闘に集中していた事で狭まっていた意識を呼び戻される。
そして、広がった視野で周囲を見渡し、戦いが撤退戦に移行した事を認識した。
猪頸鬼を倒せなかった事を不本意に思うハツカ。
しかし、そのような思いとは別に、周囲は戦闘からの離脱へと動いている。
ハツカには、どのようにして、現在の流れに変わったのか分かっていない。
ただ、そんな中で、ルネ達の馬車も、この流れに乗って動いている事。
そして、その逃走をコウヤが炎壁で補助して追撃を阻んでいるのを確認した。
その事からハツカは、この流れに逆行し、足を引っ張ったのでは、と言う疑問を抱く。
ゆえに、コウヤの声を受けて、言葉を取り繕い、そそくさと引き下がる。
「ブガーッ!」
──が、ハツカと戦っていた猪頸鬼が、それを素直に許すはずがない。
猪頸鬼は、動き始めた馬車に呼応したハツカの動きから、逃走への対処に出る。
動き初めて間もない馬車の速度は、決して速くはない。
ハツカは菟糸の先端部の錘による刺突攻撃で猪頸鬼を牽制する。
と同時に、自分は馬車の荷台へと飛び込むべく駆ける。
本来なら、そのような余計な事はせず、一直線に馬車へと駆け込みたい所。
しかしながら猪頸鬼の足は、ハツカに勝る。
ハツカが馬車に乗り込めるのであれば、猪頸鬼が馬車に追いつけない訳が無い。
「ブガッ、ブガッ!」
猪頸鬼は更に鼻息を荒くし、出足が鈍い馬車へ迫る。
目の前には標的であるハツカ。その先には加速に乗り切れていない馬車が走る。
目の前の獲物を、易々と逃す気が無い猪頸鬼は、両者を直線上に捉え、追い詰める。
眼前のハツカを捉える事が出来れば、それで良し。
それが躱されたとしても、出足が鈍い馬車へ体当たりを敢行し、それを潰す。
わずかな間合いの差によって、ハルナの笛の音の呪縛から逃れていた猪頸鬼。
その思考は、周囲の興奮状態にある猪頸鬼とは違い晴れていた。
この僅差によって猪頸鬼は、ハツカに二択を迫る。
一つは、逃走を諦め、猪頸鬼との戦いを継続する事。
一つは、猪頸鬼の体当たりを躱し、馬車を差し出す事。
菟糸の刺突攻撃で猪頸鬼を牽制して駆けるハツカ。
しかし、そのような半端な攻撃では、いまの猪頸鬼は止められない。
むしろ、その攻撃に目が慣れて来た猪頸鬼が、菟糸を捕縛しようと手を伸ばす。
それは、菟糸を破壊されないように立ち回っていたハツカにとって好ましくない展開。
「くっ、ならば──」『燕麦』
ゆえに、ハツカは反転し、菟糸を回収すると猪頸鬼の前に立ち、燕麦を展開する。
馬車に猪頸鬼の体当たりを激突されれば、ただでは済まない。
等しく追い駆けられるのであれば、逃走の足を潰される方が痛手。
そう考えたハツカは、馬車を死守すべく、燕麦の防御障壁をもって盾となる。
【ドゴッ!】
鈍く激しい激突音が一つ鳴る。
燕麦の防御障壁に正面から激突した猪頸鬼が数歩、歩みを進め停止する。
猪頸鬼は激突の瞬間、肩部を捻じ込み、衝撃を余す事なく燕麦に叩き込む。
対してハツカは、その重い一撃を、急反転をして受け止めた。
その勝敗は、正面からの激突で、大きく宙を舞ったハツカの姿から一目瞭然となる。
ハツカの敗因は、直前の急反転で、足の踏ん張りが十分に効かなかった事。
と同時に、猪頸鬼との正面からの激突を余儀なくされ、衝撃を反らせなかった事。
そして、猪頸鬼とハツカとの間にあった、埋めきれない重量差。
単純な打撃勝負であったなら、噛砕巨人の一撃をも凌いだハツカにも勝算はあった。
しかし、体勢が整っていなかったハツカは、十全に防御が出来ずに吹き飛ばされる。
それは、噛砕巨人戦を経て得た自惚れを突かれた結果と言えた。




