195.弱者の兵法
「(本当に、あれで倒せたんですね……)」
ルネはバンテージに続きながらも、倒した伍分厘へ自然と視線が流れる。
孤児院にいる年下の男の子と変わらない身長の人間に近い姿をした伍分厘。
その倒れた後ろ姿に、どうしても罪悪感が募る。
これが、伍分厘と言う魔物の厄介さ。
人間の子供に近い容姿は、人間を油断させて襲う伍分厘の武器。
その容姿は、殺す覚悟が無い者に、一瞬の躊躇をもたらす。
人間の精神に付け込み、攻撃を躊躇わせて逆襲する魔物。
そして伍分厘は殺されても、自分を殺めた者に、同じ人間を殺めた錯覚を植え付ける。
覚悟が不十分な者は、この錯覚によってスキを生み、他の伍分厘に狩られて地に還る。
このように伍分厘とは、単純な力だけでは計り知れない厄介さを持っていた。
ゆえに、冒険者ギルドは、この新人殺しの魔物の討伐報酬を低く設定している。
こうする事で、冒険者の興味を伍分厘から反らす。
そして、基本的に討伐依頼を衛兵団に回していた。
正義感や使命感で伍分厘の討伐依頼を受ける者がいても、それは当人達の自己責任。
そして、無事に討伐が完了されたなら冒険者ギルドは最大の利益を得る事となる。
それは、安価な報酬に設定している為に得られる利益の事ではない。
依頼を達成した冒険者が『人間と戦え得る戦力』であるのが証明された事を指す。
仮想の人間、として見立てる事が出来る魔物である伍分厘──
人間同士が戦って相手を殺せば、理由が何であれ、その者は殺人者である。
それは、権力者が手を回して、事実を隠蔽した所で変わらない事実。
一人殺せば殺人者。百人殺せば英雄。
戦争と言う状況下でのみ起こり得る立身出世。
だが、その英雄への最初の一歩を人類は容易に認めない。
しかし、この世界には、その一歩目の切っ掛けとなり得る魔物がいた。
それが、伍分厘である。
魔物よりも脆弱な存在である人間が、強者に対抗する力としたのが『団結』
ゆえに人類は、同じ人間を殺める事を禁忌として、大地を子孫で満たした。
そんな禁則事項を厳守しつつも、人間の枷を外す試金石。
一部の人間の中には伍分厘に、その試金石としての存在意義を見い出す者がいた。
伍分厘を殺めた者の中には、大きな精神的外傷を負う者も存在する。
しかし、一度経験して生還した事によって、その者から伍分厘への躊躇が薄れる。
そして、冒険者ギルドの昇格試験で、攻撃の躊躇いが消えた、と多くの報告が上がる。
つまり、それは人間に対する攻撃性のタガも緩んだ、と言う証明でもあった。
これが、人間に近い魔物の中で最弱とされる伍分厘を対象とした疑似殺人による効果。
それは、人間と言う種にとって、良くも悪くも影響を及ぼす。
重要な任務を下す者は、これに類する試練を乗り越えていない者は使わない。
それは有事に、人間と殺し合いとなり、そこで躊躇われて殺されては困るからであった。
大切な物や人物、情報などを奪われて良い事など無い。
平時に強くて有能な人格者であろうとも、人間を殺せない者に重責は任せられない。
そのような者は、使う側からすれば、むしろ迷惑で足手まとい以外の何者でもない。
端的に言うと、信用が置けない、の一言に尽きる。
ゆえに、この一線を越え、英雄への第一歩に足を踏み入れた者──
『人間と戦え得る戦力』と言う最低限の合格ラインの評価の意味は大きかった。
そして、自分達の生活圏を守る覚悟がある衛兵と自由気質の冒険者。
そのどちらに『覚悟』と言う気持ちが宿るか、と問われれば、それは前者。
それはそうだろう。
衛兵達は、いざ都市が魔物に襲われれば、住民達を先に避難させて都市を死守する。
冒険者達は、都市などと心中する気は無いので、分が悪いとなれば逃走する。
人間に似た容姿を持ち、比較的弱い部類に属する伍分厘と言う特異な存在。
それは、攻撃性が高い冒険者より、心の在り方が強い衛兵団の方が戦いの相性が良い。
ゆえに、その事を熟知している冒険者ギルドは、伍分厘討伐者を内々で高く評価した。
人知れず線引きされた冒険者には、資質に応じた高報酬依頼が開示される。
これらの依頼は、冒険者ランクとは別の基準によって運用されているもの。
なぜなら、そこには人間同士による命のやり取りが高確率で起こり得る為。
そして、その依頼の報酬には、外部への情報流出を禁じる口止め料も含まれていた。
たかが伍分厘の討伐依頼。
されど、そこには人間の暗部と、それゆえの成り上がりの未来が内包されていた。
冒険者ギルドは、このような仕組みで組織力の温存と強化、冒険者の保護をしている。
そして、現在のルネはと言うと──
「(こ、こっちに来ないで……)」
弱々しく迫って来る伍分厘に対して、恐怖を感じていた。
なまじ伍分厘を殺めてしまった事で、言い知れない恐怖に苛まれる。
そして、いままで以上に戦えなくなっていた。
植え付けられた人殺しと言う錯覚に精神が押しつぶされそうになる。
それはルネが孤児院の出身であり、本来は人を助ける薬師であるがゆえに抱いた恐怖。
死した伍分厘の姿に、まるで孤児院の子供達を手に掛けてしまった錯覚に襲われる。
精神に刻み込まれた疑似殺人の恐怖によって、ひどく不安に駆られる。
誤って子供達に手を振るったような錯覚に引きづられて身体が強張る。
その気持ちは錯覚だと、ルネ自身も頭では理解している。
しかし、人間の精神は、一度思い込んだものに簡単に引きづられる。
また、その事は同時に、身体へも影響をもたらし、身体能力の低下も引き起こした。
フラフラとした足並みで目の前に迫った伍分厘が、ルネに手を伸ばす。
ルネは盾を構えてはいるものの、身体が思うように動かせず棒立ちに近い。
その伍分厘の手が伸び、ルネに迫る。
──が、その魔手はルネに届く事なく、力尽きて大地に倒れ、動きを止めた。
伍分厘のあまりにも呆気ない幕引き。
ルネ自身が手を出した訳ではなかったが、その死が、ガツンと脳裏に刻まれる。
それは、まるで無抵抗の者を、一方的に死へと追い込んだような光景。
そんな錯覚を、伍分厘はルネの精神に刻んで逝った。




