116.微妙な空気
◇◇◇◇◇
シロウに与えられた療養部屋。
シロウとハツカは、気まずい静寂が続く一室で、互いに身動き一つせずに佇む。
シロウはベッドに身を置き、ハツカは窓際のイスに座り、温かな風に身を任せていた。
互いに療養中の身の為、大人しく身体を休めている、と言う体で貫いている不干渉。
野外では村猫達が、部屋の中の静けさとは対照的に、賑やかな声を行き交わしていた。
差し込んで来る陽光は、陽が昇るにつれ、次第に煩わしい暑さへと変わっていく。
ハツカは、イスを少し引いて移動する。
ギギッ、と床とイスの脚が擦れて音が鳴った。
日向から日陰へのわずかな移動。
しかしながら、その差が体感温度を、かなり変えてくれた。
人心地つく清涼感が、ハツカの肌に触れ、心を落ち着かせる。
しかし、そんな些細で何気ない動きに、シロウがビクリと反応した。
ゴトン……【パシャーンッ!】
反射的に反応したシロウのヒジが、近くにあった水差しを倒して床に水をブチ撒けた。
「……シロウ、何をやっているのですか?」
「いや、ハツカが急に動いたんで、つい……」
「はぁ、そんなに怯えられると、私がシロウをイジメているようではないですか」
「ハツカ……オマエ、いままでに何回も俺の腹を殴ってるからな?」
「その全ては、自業自得だったかと」
「冤罪や八つ当たりの方が多かったと思うんだけど……」
「そうでしたか?」
ハツカは、シレッとシロウの戯言を聞き流す。
ただ、いまの会話から、シロウは、自分が知るシロウなのだ、と再確認した。
「いま、音がしましたが、何かありましたか?」
ハツカが抱いていた疑問の一つが解消された所で、ルネが顔を出す。
そして、シロウの傍らの床に落ちている水差しと濡れた床を見つけて訊ねてきた。
「一体、何があったのですか?」
「いや、水を飲もうとしたんだけど、水差しを取り損ねて零しちまった」
「ルネ、菟糸では無機物の境界は判別が難しいので、後片付けをお願い出来ますか?」
「はい、それと、ついでなので、ハツカさんは一度、目薬を点しておきましょうか」
「ルネは食事の準備中だったのでは? あまり火の元から離れているのは危険ですよ?」
「大丈夫です。ナベは火から降ろして来ましたから」
ルネは、床の水を拭き取ると、流水で手の洗浄を行い、ハツカの目の治療にあたる。
「炎症は順調に引いてきていますね。何か気になる所はありますか?」
「まだ違和感はありますが、最初の頃に比べれば、かなり楽になりました」
「そうですか、食事のあとに、また薬を飲んでおきましょう」
ルネは、ハツカの目に目薬を点すと、新しい包帯を巻いていく。
そして、一通り処置が終わると、思い出したかのように話を振ってきた。
「それと、先ほどコウヤさんが、露店で面白い物を見つけた、と言って帰って来ました」
「コウヤが? それで何を見つけたのです?」
「それは、食べてみてからのお楽しみ、だそうです」
「食べ物なのですか?」
「じゃあ、いまコウヤが料理をしているのか?」
「いえ、コウヤさんに扱い方を教わって私が調理しました」
「それなら、食べられない物が出て来る事はないでしょう」
「取り扱いが簡単だったので、コウヤさんが作っても問題なかったと思いますよ?」
「(それをハツカが言うな、って感じだよな)」
「シロウ、いま何か言いましたか?」
「いや、何も……」
シロウは、ハツカの壊滅的な味付けへのツッコミが届かなかった事に胸を撫で下ろす。
だが、その呟きがハツカの耳に届いていない訳がなかった。
本来ならシロウの腹に、キツイ一撃が放たれていても、おかしくない。
しかしながら、いまの痩せ細ったシロウに、それをするほどハツカも鬼ではなかった。
(いまは大目に見ましょう。完全に復調したらお仕置きです)
寛容なハツカの配慮によって、シロウの発言は保留され、記憶に留められた。
「シロさん、ハツカさん、お待たせしました」
それから程なくして、炊事場に戻ったルネが、コウヤと食事を用意して戻って来た。
食欲を刺激するニオイが、それほど空いていなかったハツカにも興味を引かせる。
「あれ、これって……」
「シロウは、慌てず、黙って食ってろ」
「お、おう」
「ハツカさん、少し熱いと思うので気をつけてください」
「はい、ありがとうございます」
ハツカは、シロウの反応から、少なくとも見知った食べ物であるようだ、と感じ取る。
手渡された器は温かく、そこから漂うニオイにも覚えがある。
木製のスプーンで掬い、少し息を吹き掛けて冷ましてから口に運ぶ。
「やはり、これは味噌ですね。そして、このトロリとした食感。これは……」
「うん、美味いな。この『ねこまんま』」
ハツカの食が、ピタリと止まった。
「シロさん、これって『ねこまんま』って料理なんですか?」
目玉焼きに味噌を付ける味噌好きのルネは、なんの抵抗も無く食べている。
「コウヤ、これはどう言う冗談ですか?」
「ハツカ、落ち着け。シロウの言葉を真に受けるな」
コウヤは、料理の姿が見えていないハツカを宥める。
「第一、おれ達は米を持って来ていないだろ?」
「……そう言えばそうでしたね。確かに、お米とは少し食感がちがいます」
ハツカは、少し冷静になって、器の料理を咀嚼する。
冷や飯に味噌汁をブッかける『ねこまんま』
もし、これがそうであったのなら、もう少し米の食感が残っていてもおかしくない。
それに、もし、ここに使われている食材が米なら、ルネは調理法を知っている。
ルネは、コウヤに食材の扱い方を聞いて調理した、と言っていた。
つまり、ここで使われている食材は、ルネが知らなかった食材なのは間違いなかった。




