11歳の春 5
生垣の陰に屈みこんでスティードとの会話を思い出していたクロエは、不意に人の気配を感じてハッとなった。
こっそり様子を伺えば、スティードや彼の従兄弟たちが談笑しながらこちらにやってくるのが見える。
「あーあ。家庭教師も面倒な課題を出してくれたものだな。薔薇の観察だなんて」
「庭師はなんでいないんだ? 役に立たないなあ」
彼らはバラ園の東屋の前までやってくると、手にしていたスケッチブックを広げはじめた。
ついてきた召使いたちは、いそいそとお茶の準備をしてから下がっていった。
(お茶しながら課題なんて優雅なもんね)
漂ってきた紅茶とケーキの匂いに、つい小鼻が動いてしまう。
「課題なんてさっさと済ませてのんびりしよう。薔薇の花が咲いている。以上! これで終わりだ!」
「おいおいいくらなんでもそれじゃダメだって。……赤い花が満開でした。こんなもんか?」
「お前も変わらないだろー」
男の子たちはふざけあいながら、明らかにやる気のない態度で薔薇の花をつついている。
(まったく子供っぽいわね)
男の子とはどうしてこうなのだろう。
でも、その中でもスティードだけはちょっと違う感じだ。
彼はふざけ合う従兄弟たちを苦笑して見守りつつ、薔薇の模写をし始めた。
「おいおい、スティード殿下は真面目だなあ」
からかいと感心のこもった声を上げて、従兄弟の一人ギデオンがスティードの肩を抱く。
だいたい悪ふざけを率先して行うのは、このギデオンだ。
調子に乗りやすく軽薄な感じが、顔つきに現れている。
クロエはギデオンのことがあまり好きではない。
とくに大人を真似てオールバックに撫で付けた髪型が、無理やり気取っている感じがして嫌なのだ。
見るたび、ぐちゃぐちゃに掻き回してやりたい気持ちにさせられる。
手がベタベタになりそうだから絶対にしないけれど。
スティードは模写を続けたまま、ギデオンの軽口の相手も器用にこなしてみせた。
「面倒な課題はさっさと終わらせるに限るよ」
「ははっ、なんだスティードも煩わしいと思ってるんじゃないか」
「どうせ花を愛でるなら、薔薇より菫がいいしね」
そんなことを言うスティードが一瞬、クロエのいる辺りを見た気がした。
完璧に隠れられているはずだから、気のせいだろう。
クロエは自分の瞳の色を、スティードが『菫色の美しい瞳』とよく形容することをすっかり忘れていた。
(スティードの話だと、このあと例のご落胤がやってくるのよね)
そのとおりになるのか、ドキドキしながら様子を見ていると……。
「あれ? 宰相だ」
「珍しい。何してるんだ?」
(本当に来た!?)
薔薇園の入口からやってきた宰相を見て、少年たちが首をかしげる。
彼らの訝しげな視線は、宰相だけでなく、その傍らにいる赤毛の少年にも注がれていた。
「見慣れないやつを連れているな……」
ギデオンが呟く声を聞きながら、クロエは思わず思わず息を呑んだ。
(嘘でしょ……)
燃えるような赤い色の髪。
挑戦的な眼差し。
固く引き結ばれた唇。
国王陛下とよく似た細面。
スティードの表現した通りの少年を生垣越しに見つめたまま、クロエは数秒間、息を吸うのも忘れてしまった。
「スティード殿下。皆様方。こちらへ」
宰相に呼ばれた少年たちは、首を傾げつつ集まっていく。
みんなの視線は、赤毛の少年に釘付けだ。
「この方は国王陛下の庶子であらせられるロランド様でございます」
「え……!?」
スティードの従兄弟である公爵子息たちが、驚きの声を上げる。
垣根のこちら側のクロエは、別の意味で衝撃を受けていた。
(完璧にスティードの説明したとおりの展開だわ……!)
スティードに言われて、クロエは宰相の言う台詞を紙に書いて持って来ていた。
まるでそれが台本であるかのようなやり取りが、今も交わされ続けている。
(スティードの話だと、次にあの男の子は……)
赤毛の少年ロランドは擦れた目でスティードたちを見回して、ふっと馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
(これも同じだわ!)
ロランドの挑発的な態度は、ただでさえピリピリしていた場の空気を凍らせるのに十分だった。
ぎょっとして目を見開くギデオンたちの隣で、スティードも同じように驚いたふりをしている。
宰相も従兄弟たちも、スティードの演技には気づいていない様子だ。
スティードは感情を笑顔で上手く隠すタイプだから、こんなことはお手の物なのだろう。
(私からしたら結構バレバレなんだけど。偽物の顔をしてる時って、なんかちょっと胡散臭いのよねえ)
それにスティードの本当の微笑みを知っていたら、作り笑いなんて比べ物にならないくらい美しい表情だってわかるはずだ。
むしろみんなはどうして気づかないのだろう。
そのとき、かつてスティードが言っていた言葉が、クロエの脳裏にぼんやり蘇ってきた。
『僕に関心のある人間なんて本当はいないんだよ。父上も母上も、取り換えのきく第三王子になんて大した興味を持っていない。周りにいる人たちもね』
クロエにはそれがわからない。
取り換えがきく?
どうしてそんな発想を抱くのだろう。
スティードはスティードだし、他の人が彼に成り代わることなんて不可能だ。
クロエのわがままに付き合ってくれて、悪事の計画をちゃんと聴いてくれて、時々ちょっと面倒くさくて、でもなんだかんだ話していて楽しい。
少なくともクロエにとって、スティードの代わりになれる人間なんて一人もいない。
なんだかモヤモヤして、ムスッとした気持ちになったのを覚えている。
無意識に頬を膨らませたら、隣からふふっと笑う声がして……。
『そんな顔をしないでクロエ。君にとって特別な存在になれるなら、僕はそれでいいんだ。クロエだけが本当の僕を知ってくれるなら、他なんてどうでもいい』
思い出に意識を奪われていたクロエの心を現実に引き戻したのは、宰相のセリフだった。
「スティード様におかれまして、他の御兄弟たち同様親しくされますようにと、国王陛下より御伝言でございます。年齢も近いので、お話も合うことでしょう。従兄弟の皆様も、今後は御学友として親しくなさいますよう。これも国王陛下からの命でございます」
「……そうか。父上には、わかりましたと伝えてくれ」
スティードはそつのない微笑みに、少しだけ戸惑った……ふりをした表情を混ぜている。
一方、ギデオンたちはそんなにすんなり受け入れられるわけもなく、排他的な感情を隠さなかった。
「学友って言われても……」
「こんな奴が、王子……?」
声を潜めていても、囁き声はまる聞こえた。
宰相はわかった上でそれを聞き流した。
仲を取り持つことなど始めから諦めていたという態度だ。
「私は執務がありますので、これで失礼いたします」
そう言うと、宰相は役割は果たしたという顔で、さっさと立ち去った。
この展開も聞いていたけれど、実際、目にすると突っ込まずにはいられない。
(この状況で放置するの!?)
だって到底、仲良くできるような雰囲気ではない。
(たしかに宰相が取り持ったところで、どうにかなる感じでもないけど……!)
大人の事なかれ主義って恐ろしいわと思わずにはいられなかった。
「おい、どうするんだ……?」
「どうと言われても……」
「仲良くしろって……いくら王子とはいえ、下町育ちのやつと……?」
「はっ。だって、庶民の血が混じってるってことだろ?」
従兄弟たちの間に、馬鹿にしたような笑いが起きる。
ほら見たことかと思わずにはいられない。
そんな中、空気を変えようと思ったのだろう。
スティードが握手をするため、右手を差し出した。
「はじめまして、ロランド。これからよろしく」
ところがロランドは、それに対してハアッと大げさなため息を吐いてみせた。
「王子様やボンボンたちと遊んでやるつもりなんてねえから。まじでうざい。俺のことは構うな」
「な……っ!?」
ロランドが子供とは思えない鋭い眼差しで、対峙する少年たちを睨みつける。
少年たちは、ロランドの見せた圧倒的な敵対心に呑まれて、言葉を失ってしまった。
(なんかあの子すごいわね……)
ちょっと悪役っぽい感じがする。
(あの目つきは参考になるわね。家に帰ったら鏡の前で練習してみよう。……ってそんなことより! いまの言葉も同じだったわよね……!?)
ここまで完全にスティードの話した通りの流れだった。
(どうしよう……。スティードの言ってたことは本当だったんだわ)
だって目の前で証明されてしまった。
それぞれが口にするセリフまで、スティードの説明していたままだ。
さすがに疑いようがない。
(でも、そんな、まさか……! ああ、もう! 心が追いつかないわ!)
生垣の前で頭を抱え込んでいると、緑の向こうから驚くべき言葉が聞こえてきた。