11歳の春 2
クロエとスティードは、ベルトワーズ邸の正面に広がる庭に移動した。
手入れの行き届いた庭には、ネモフィラや白バラなど春の花が咲き誇っている。
さわやかな風が吹くたび、蜜の香りがふわりと香り、庭園全体を甘い匂いで満たした。
『春の妖精のようだ』と形容される薄紫色の小花の周りでは、愛らしい紋白蝶たちが戯れるように飛び交っていた。
スティードは、いつものように手を取ってクロエをエスコートしたそうだったが、彼女がうれしそうにクッキーの入っているバスケットを漁っているのを見て、早々に諦めたようだ。
その代わり、いつもより少しだけ近く、肩が触れる距離を寄り添って歩く。
クッキーの包みをほどくのに夢中なクロエは、微笑ましげに自分を眺めるスティードの視線にまったく気づいていない。
ちょっと離れたところを護衛やメイドたちがぞろぞろついてくる。
でもこの距離なら会話の内容までは聞こえない。
「これで一応ふたりきりになれた」
微笑むスティードの隣で、クロエはお菓子を摘んではひょいぱくと放り込んだ。
無作法だし、さすがに他の人が相手だったらしない。
一応公爵令嬢として、それなりに淑女教育は受けている。
やれと言われれば、淑女らしく振る舞える。
(でも隣にいるのはスティードだしね)
(普通は王族であるスティードに、誰よりも敬意を払うべきでしょうけど)
スティードは普段から『気を遣わないでね。僕の前ではありのままのクロエでいて欲しい』と言ってくれるので、ちゃっかりお言葉に甘えている。
「今から僕はとんでもないことを話す。夢物語のように聞こえるかもしれないけど、どうか信じて欲しい」
スティードが真顔でクロエの手を握ってくる。
圧倒されたクロエは、もぐもぐしつつ頷き返した。
「わ……わはっはわ」(わかったわ)
「ありがとう。それじゃ……」
すうっと息を吸ってから、スティードはこんなことを語りはじめた。
「実は僕には昔から繰り返し見ている夢があるんだ。あ、君と結婚する夢以外でね」
スティードは寝る前に毎晩、クロエとのいつか訪れる結婚式を妄想している結果、その日の夢をしょっちゅう見るのだという。
夢を見た翌日は必ずクロエに会いに来て、報告してくる。
その流れで、よくどさくさに紛れた求婚のような言葉を伝えられたりもする。
それをクロエはいつも話半分で聞いている。
(スティードって、まるで女の子みたいに乙女なところがあるわよね)
スティードに夢を見ている少女たちが、それを知ったらどう思うのだろう。
バラしてみたいような気もする。
きっとスティードのファンクラブを作っているお嬢様たちは卒倒して、大騒ぎになるはずだ。
そんな話を広めたクロエの悪名も世間に轟くのではないだろうか。
(ふうん。悪くないわね……)
「もう、クロエ。また悪巧みしているでしょう?」
「あら、よくわかったわね」
「すごく楽しそうな顔になるからわかるよ。そういう表情とってもかわいいから、本当はいつまでも見ていたいんだけどね。今は僕の話の続きを聞いて?」
「言っとくけど、結婚式の夢を見るって話は聞き飽きてるわよ。もうひとつの夢ってのは?」
スティードは、夢の話がしたかったのだろうか。
でもそれなら別にふたりになる必要なんてなかったと思うが。
「僕はこれまで別の世界のことを夢に見てきた。それが前世での出来事だったって気づいたのは今朝の話なんだけど。夢の中の僕は学生で、妹に頼まれてゲームというものを行なっていた。ゲームって言われてもわからないよね。絵本や物語の描かれた本みたいなものだと思ってくれ。いいかい?」
いいわけがない。
「ゲーム? 前世? え? 熱でもあるの?」
自分たちはもう10歳だ。
そんなにむちゃくちゃな話を信じるような子供ではない。
どうしてスティードがそんな話をしはじめたのか、クロエにはさっぱり意味がわからなかった。
まさかこれは冗談?
それにしてはあまりにも下手すぎる。
「スティード、そんなにジョークのセンスがなかったなんて知らなかったわ」
「冗談じゃなくて、僕は本気だよ。すぐに信じてもらうのは難しいだろうけど」
クロエとの結婚生活を妄想しているときでさえ、もうちょっとまともな発言をしてくれるのに。
「突然別の世界なんて言い出したうえ、本気だなんて……。頭が痛くなりそう。だいたい前世ってなによ」
「いまの僕が生まれる前、別の僕だった頃のことさ」
「前世って言葉の意味ぐらい知ってるわ。そんな荒唐無稽な話をしだして、どういうつもりって聞いてるの」
「ごめん、怒らないで。怒っていても素敵だけれど」
「もう、スティード!」
「わかってる、きみを賞賛する言葉は我慢しておくよ。話の続きを聞いてくれる? 僕が君に伝えたい重要なことは、他にもあるんだ。いいかい?」
同意を求められたので、とりあえず「わかったわ」と返事をする。
「さっきはゲームって言ったけれど、ようするに物語みたいなものだと思ってくれればいい。本に描かれた物語は普通、結末まで一本筋で続いていくだろう? でもゲームはそうじゃない。途中、いくつもの選択肢が出てくるのを、読んでる人間が選ぶんだ。その結果は物語の流れに影響を与えて、結末を変えてしまう」
クッキーを食べ続けながら、想像してみる。
選択肢によって色々な結末が訪れる物語なんて、まるで本物の人生みたいだ。
でも、面白そうだと思った。
きまったストーリーを追いかけるのではなく、自分自身で選んで、お話作りに協力している感じがワクワクさせられる。
「ここまで理解できた?」
「まあ、なんとなくね」
「わかってくれたようでよかった」
そう言ったあと、スティードが見せた表情は、クロエの見たこともない彼の一面だった。
少し愁いを帯びた瞳が、言いよどむように伏せられる。
そのすぐあと、スティードは決意したように顔を上げ、クロエを見据えた。
「僕らはそのゲームの中の登場人物なんだ」
「は……? どういう意味? 僕らって?」
「僕や君。それだけじゃない。この世界に存在する人間は多分誰も」
クロエは口を開けたまま、ぽかんとした。
手には食べかけのクッキーが握られている。
「前世の僕は、スティードという王子やクロエという令嬢の出てくるゲームをやっていた。それはつまり、僕たちのことだ。僕たちは、ゲームの世界の登場人物なんだよ」
私たちがお話の中の登場人物?
ますますわけがわからないことを言い出したスティードのことをまじまじと見つめる。
何を言ってるのか理解できない。
ゲームの中の人間ってどういうことだろう……?
「もう一度聞くけど……そういう空想?」
「だったらよかったんだけどね。残念ながら空想じゃなく事実なんだ」
「……」
本当にどうしてしまったのだろう。
ロマンチストではあっても、こんな妄言を口にするタイプではなかった。
「そんな話をされて、信じられる人がいるのなら会ってみたいわ」
自分たちのこの世界が、別の世界で描かれている物語の中。
つまり、そういうことを言いたいのだろうか。
「スティード、大丈夫? まさか熱でもあるの?」
「僕が熱を上げるのは君にだけだよ」
「うーん、病気だわ」
いよいよ心配になり、メイドたちに医者を呼ばせようかと思った。
だけどそんなクロエを、スティードはやんわり止める。
「お願いだ、クロエ。信じられない気持ちはわかるけれど、重要な話なんだ」
スティードはクロエに嘘をつかない。
それだけはよく知っているクロエは、少し困ってしまう。
「それがどうしてそんなに大事なの?」
「だってね、このまま放っておいたら君は破滅しちゃうんだよ」