11歳の春 1
それは麗らかな春の日の出来事だった。
日差しが差し込むサンルームで、公爵令嬢クロエ・ベルトワーズがある計画を練っていると、天使のような顔を青ざめさせたスティードが、慌てた様子で訪ねてきた。
スティードは、ブルーム王国の第三王子。
クロエにとって彼は、同い年の婚約者であり、幼馴染でもある。
「ひどい顔色ね、スティード。どうしたの? おなかが痛いの?」
「ああ、クロエ。最愛の人に心配されるなんて、僕はなんて幸せ者だろう。おなかが痛いわけじゃないよ」
十一歳とは思えない紳士的な振る舞いで片膝をついたスティードが、恭しくクロエの手を取る。
情熱的な眼差しを向けたまま、ニコッと微笑みかけられるのも、甘い愛の言葉を囁きかけられるのもいつものことだ。
頻繁に遊びにくるスティードがクロエに夢中なのは、屋敷の誰もが知っている。
「君の吊り上がった猫目で見つめられると、ゾクゾクするよ。今日もとっても素敵だね、僕の天使」
相変わらず、婚約者へのリップサービスがマメな王子だ。
何度も言われているから、クロエも麻痺してしまい、いちいちまともに取り合う気もなくなってしまう。
「ありがとう。でもそんなことより、私の天才的な悪事を褒めてほしいわ。美貌は世界征服の役に立たないもの」
「今回もまた聞き流されてしまった」
スティードは軽く肩を竦めてみせたけれど、それほど不満そうではない。
しかもちゃんとクロエの話題にも乗ってくれた。
「それで天才的な悪事って?」
「庭に落とし穴を掘って、みんなをびっくりさせてやろうとおもって」
「メイドは驚いた?」
「うー……それがね、残飯を埋める穴に便利ねって有効利用されてしまったの。だから今、新しい計画を練っていたところよ」
「ベルトワーズ家のメイドは、君のイタズラになれているからね」
「ちょっと。イタズラじゃなくて、悪事って言ってちょうだい」
高尚な悪事を、子供のイタズラみたいにされるのは困るのだ。
クロエは腰に両手をあてて、スティードのことをむすっと睨んだ。
そういう行動を取ると、いかにも意地悪なご令嬢といった様子になる。
きつい印象を与える見た目は、七歳のある日まで、クロエのコンプレックスだった。
◇◇◇
――今からちょうど四年前。
クロエの運命が変化したその日はとても寒い年の瀬で、窓の外の景色は、降り積もった雪に埋もれていた。
一昨日、同年代の少年たちからキツイ外見をからかわれたクロエは、ちっとも外に出なくなっていた。
あのころは、周りのそんな言葉が気になる繊細さを持っていたのだ。
部屋に閉じこもってぼんやり雪を眺めていると、突然、メイドたちの慌てた声が聞こえてきた。
現れたのはスティードだ。
しんしんと冷え込むうえ、馬車だってなかなか進まない雪の日なのに。
スティードは、落ち込んだクロエが閉じこもっているという噂を聞きつけて駆けつけてくれたようだった。
「……何か用? 私、意地悪だから歓迎しないわよ」
精一杯の強がりで可愛げのないことを言ったクロエに向かい、スティードはやさしく微笑みかけてくれた。
「君にこれを見せたくて」
スティードが手にしていたのは一冊の絵本だ。
差し出された本に視線を落とすと、美人だけれどものすごく意地悪そうな顔をした令嬢が、口元に手を当てて高笑いをしていた。
「なあに? これ」
「この本の主人公をいじめる、悪役令嬢なんだ。とっても美人だろう?」
「まあ、そうね」
吊り上がっているけれど大きくて印象的な目、瑞々しく潤った薄い唇、洗練された印象を与える細い鼻筋。
彼女と対峙、怯えた顔をしている田舎娘――主人公と予想できるその女の子より、ずば抜けて美しい容姿をしている。
(だけど顔付きが怖すぎて、美人なのが台無しね……)
さすが『悪役』なだけある。
「クロエにそっくりじゃないか?」
「はあ!?」
クロエはむっとしたのを隠さず、頬を膨れさせた。
「結局あなたも私が意地悪な顔してるって言いに来たんじゃないの!」
「そうじゃない。僕は君の素晴らしさを語りに来たんだよ」
「え?」
呆気にとられるクロエを前に、スティードは語りはじめた。
「悪役令嬢は、主人公のちょっと甘えた女の子に、的確な言葉で王城のマナーを指摘したり、ばっさり切ったりするんだよ。はっきりものをいってすごく格好いいんだ!」
「か、かっこいい?」
「僕はこの悪役令嬢が大好きだよ。僕の好きなクロエにそっくりなところが」
「……変わった趣味ね」
面食らったクロエは、そう言うしかなかった。
「この絵本は君へのプレゼントだ。受け取ってくれるね? ねえ、クロエ。雪が止んだらまた、僕と遊びに行こうね」
クロエは渋々その絵本を受け取って頷いた。
でもそのときもらった絵本を、クロエはそれから毎日、読み返すようになった。
たしかにスティードの言うとおり、絵本の悪役令嬢は魅力的だった。
思いのまま、悪役道を突っ走り、いつも前向きでへこたれない。
気弱で、考えを口にせず、何も行動を起こさない主人公より、見ていてずっと痛快だった。
そのうちクロエは絵本に感化され、『夢は世界征服』などとのたまいはじめた。
さすがに10歳になった今、世界征服とは言わなくなったものの、「悪人っぽい顔に恥じぬよう、悪女を目指してがんばるわ!」と日々斜め上の方向に奮闘している。
スティードは、そんなクロエを幼少時から想い続け、「悪だくみをしている顔が、とってもかわいいね」などと、おませな態度で愛を囁き続けてきた。
風が吹くたびさらっと揺れるくせのない金髪。
透きとおるように美しい青色の瞳。
見た目は天使と形容されるほど愛らしいうえ、立ち振る舞いも完璧。
穏やかな口調で優しくしゃべるたび、大人も子供も同性も異性も、皆がうっとりしてしまう。
スティードには、周囲を人を惹きつけてやまない魅力があった。
クロエもしょっちゅう、スティードの婚約者であることを羨ましがられる。
そんな完璧な王子様なのに、スティードの好みって変わっているとクロエはよく思う。
だって、悪だくみをしている顔がかわいいなんて。
そんな口説き文句、どう考えてもずれている。
恋愛面にはてんで疎いクロエでも、そのぐらいのことはわかった。
ただスティードが特殊な趣味をしているおかげで、クロエがコンプレックスから救われたのも事実だった。
おかげで奇妙な方向に暴走する変人令嬢が出来上がってしまったのだけれど、クロエは今の自分に満足しているので、内心ではスティードに感謝していた。
(でも不思議ね。私がどんな行動をとっても、スティードだけは全然動じなかったのに)
今の彼は顔色を失って、明らかに動揺している。
スティードのこんな姿を見るのは、間違いなく初めてだ。
「おなかが痛いんじゃないのなら、どうしてそんなに青ざめてるの?」
「うん、それなんだけどね……。クロエ、君に大事な話があるんだ。ふたりきりで話せないかな?」
お茶と焼き菓子を運んできたメイドたちをチラッと見ながら、スティードが言う。
口調や表情は普段通り優雅で穏やかだけれど、メイドたちの手前、意識的にそうしているようだ。
(微笑み方が少しぎこちないものね。やっぱりすごく慌てているみたいね)
そんな心境の中でも、クロエの雑談に付き合ってくれたとは。
さすが『優雅で完璧な王子様』と呼ばれるスティードだけある。
(メイドに聞かれちゃ困る話ってなんなのかしら? おやつを盗む計画? それとも私が庭に落とし穴作りたいと言った話を、やっと手伝ってくれる気になったとか?)
でもこんなふうに頼まれたからって、あっさり承諾してしまうのは善人のする行いだ。
こういう時、悪人だったら絶対に焦らすはず。
クロエは淑女らしからぬニヤニヤ笑いを浮かべて、スティードの顔を覗きこんだ。
「ねえ、スティード。レディを誘うなら、まずは招待状からじゃない?」
スティードがハッと目を見開いたのを見て、しめしめと思う。
(さあ、困った顔を見せなさい。スティード!)
ところがスティードは、クロエが想像していたのとは全然違う反応を示した。
「そうだね。無粋な真似をしてごめんね。でも今日だけはどうか許してほしい。お願いだ、愛しいクロエ」
スティードは大切そうに握っていたクロエの手を口元に引き寄せると、人差し指の先にチュッと音をたててキスを落とした。
そのまま上目づかいでクロエのことを見上げてくる。
瞳が微かに細められると、甘ったるい印象が少し薄れる。
真摯な眼差しは、なんだか大人の男性のようでドキッとさせられた。
メイドたちが、「スティード様はあんなに幼いのに、時々色っぽい表情を見せる」と騒いでいたのを思い出す。
「エスコートを許してもらえないなら、このままいっそ強引に攫ってしまおうか」
「わ! ちょ、ちょっと待ってちょうだいっ!」
手を握っていただけの時より、距離がぐっと近づき、さすがに焦る。
(し、しかもいま、どさくさに紛れてき、キキキキスしたっ……!?)
さっき自分からスティードの顔を覗きこんだことなど忘れて、クロエは慌てふためいた。
さすがにスティードでも、こんな距離まではめったに近づいてこないから、思いっきり動揺してしまったのだ。
「スティード、目が笑っていないわ!」
「それはそうだよ。本気だからね」
「仕方ないわね……。じゃあここでお菓子を食べながら話しましょ」
「それだとメイドたちが傍にいるだろう? 僕は君を独り占めしながら話したいんだ」
後ろで控えているメイドたちがスティードの言葉に、ほうっとため息を零した。
そのうえ微笑ましそうにクロエたちのやりとりを見守ってくるので、確かに居心地は悪い。
「庭園を一緒に散歩しながら話そうよ」
「わかったわ。でもクッキーを食べてから――」
「持っていって食べていいから。ね? 薔薇が綺麗だよ。もちろん、君の美しさには到底かなわないけれど」
「まったくスティードったらわがままね」
そうは言ったものの、スティードは押しの強いところがあっても、強引なタイプではない。
普段はクロエの望むとおりにさせてくれる。
こんなふうに、クロエを急かすようなことはめったにない。
(本当にどうしてもふたりきりがいいみたいだわ)
ふたりきりになりたいなんて、まともな紳士なら、淑女にたいして安易に口にしたりはしない。
普段、第三王子として立派な振る舞いをしているスティードがそんな言葉を口にするなんて。
ちょっと信じられない事態だ。
幼いころからずっと一緒にいるスティードが相手でなければ、メイドたちも咎めていたかもしれない。
そんなふうに求められた場合、淑女のほうは、警戒心を忘れず、慎ましくお断りするべきだと。
(でもスティードだし、気にしなくていいわよね)
かなり熱心に口説かれているのに、クロエのほうは全然スティードを異性として、ほとんど意識していない。
スティードが悪いのではなく、クロエがまだお子様だからだ。
早熟なスティードの愛の言葉は、クロエの子供っぽい思考に、残念ながらまったく影響を及ぼせていなかった。
「いいわ。そんなに言うならそうしましょう」
正直、いつも穏やかでニコニコしていていつも余裕のあるスティードを、こんなに動揺させている理由がなんなのか気になる。
「ありがとう。クロエは優しいね」
「私は優しくないわ。悪役なんだから」
クロエはもったいぶって立ち上がったあと、メイドに命じて、クッキーをバスケットに用意させた。
「いいですか、お嬢様。食べ歩きは絶対にだめですよ。ちゃんとお庭のベンチに座って、召し上がってくださいませ」
「わかっているわよ」
どうやってメイドに気づかれず、クッキーを食べ歩きしようか。
そのことで頭がいっぱいだったクロエは、このあとスティードから、とんでもない打ち明け話をされるなんて、まったく想像もしていなかった――。