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完太郎の日記~研修生諸君!

作者: 斎賀てるみ

朝7時過ぎ、割り当てられた個室で起床すると、共同の洗面所で顔を洗う。そのあと、部屋を出て階段を降り、1階の喫茶室で朝食を摂る。

ここしばらくの完太郎のお決まりの生活パターンである。

食事がすめば9時からの学科に備え、自室での簡単な予習に当てる。


完太郎は研修所に来ていた。

この4月に、労働基準監督官として採用され、北関東の片田舎にある労働基準監督署に配属された完太郎は現在、秋の後期研修のため埼玉県にある労働省の研修所に来ていた。

今春、新規に採用された完太郎の同期の監督官たちは、すでに春から夏にかけての前期研修を終えたのち、全国の労働基準監督署に配属されていた。それぞれの職場において先輩の職員に立ち混じって業務をこなし、実務の訓練を受けたのち、再び秋の後期研修のため研修所に集められる。新任監督官たちは、この後期研修の修了をもって一人前の監督官と見做されるのだ。

完太郎はトースト、目玉焼きとコーヒーの簡単な朝食を口にしながら、戸外の物音に耳を傾ける。

労働省の研修所は朝霞の自衛隊朝霞駐屯地に隣接しており、朝のこの時間、隊列を組んで起き抜けのランニングをする自衛隊員たちの掛け声が聞こえてくる。


昔を思い出すような気がして、完太郎はこの声を聞くのが好きではなかったが、聞こえてしまうものは仕方がなかった。

完太郎たちの研修生活に自衛官ほどの規律の厳しさはない。現に完太郎は自衛隊の訓練をよそ目に悠然とコーヒーを飲んであるのである。研修は朝9時から夕方5時までの間に行われ、座学や実務を学ぶのだが、時間外の行動は基本的に自由であった。

「あら、高橋君おはよう」

女の声がした。

隣の空いている席に座ったのは、大阪の監督署に所属する新人女性監督官の小林恵子だった。

完太郎と同じモーニングのメニューを注文すると、コップの水を飲んだ。

起きたばかりのはずだが、彼女のメイクには隙がなかった。

小林恵子はその美貌ゆえに同期の男性たちの人気は高い。しかし実のところ、良くない噂も聞こえてくる女だった。

ゼミ形式の実務講座で同じグループに入ったため完太郎も彼女と話をする機会ができた。

もっとも割と誰彼かまわずに愛想を振りまいてくるタイプらしい。

「ねえ高橋君今度の週末外泊するんでしょ? せっかくだしどこか面白いところに連れて行ってくれない?」

モーションをかけて来た。

今日は木曜日であり明日の金曜で1週間のカリキュラムは終わる。土日は許可を取れば外泊することができる。地方から集まっている研修生の多くは週末に東京見物がてら外泊したり、家族のいる者は少し時間をかけても自宅に帰ったりして過ごす。

完太郎は東京の出身ではないが、東京で生活していたこともあるので彼女が自分に目を付けるのは間違いではない。

ただ、彼女がこれまで土日が来るたびに外泊しまくって遊び歩いていたのは誰でも知っており、今さら面白い所へ連れて行けもないものだ。どうせこちらに奢らせようという魂胆だろう。

「悪いけど今度の週末は実家に帰ることにしているんだ」

嘘だった。

「あら残念。じゃあまたの機会にね」


もうかれこれ職場を離れての研修所生活も三週間ほどが過ぎようとしていた。後期研修の半分ほどの日程を消化した事になる。

職場からは署長をはじめとした同僚たちからの寄せ書きのような手紙が届いていた。仕事のことは気にせずに研修に打ち込め、といった内容の手紙だ。

つい最近完太郎の所属する労働基準監督署の管轄で大きな労災事故が起きたばかりであり、完太郎はその事故をめぐる事務処理にほとんどかかわる事のできないまま、こちらに出て来たことから後ろめたいものを感じていた。

そして、署員一同からの手紙とは別に、庶務係の女性職員松田知可子からの恋文めいた一通が届いていた。

完ちゃんがいなくてさびしい――と綴られた手紙に、完太郎は少しセンチメンタルな気分になった。


学科が始まる前、前触れなく研修所長が教室に現れた。

急遽、研修生に対し訓示を行うという。

所長は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。

「昨夜研修生の一人が時間外に不慮の事故により負傷し、入院するという事態になった」

教室内がざわついた。

先程から空席が一つあるのに全員が気づいていた。山形から来ている榎本という男性の研修生の席だ。

「わかっていると思うが、諸君はそれぞれの職場から派遣されて研修を受けている。これは労働基準監督官として国民の役に立つための能力の習得に必要な技術の習得のための研修であり、決して浮ついた気持ちで受講していいものではない」

所長の話によると、榎本研修生は昨夜、共用棟の西側側溝に転落して足を骨折した。

研修所は講義棟の他に宿泊のための西棟、東棟、それに食堂や浴場といった日常生活に必要な施設のある共用棟がある。全寮制の学校のような物と思えばだいたい合ってる。

共用棟西側とは、女性用の浴場がある所である。表からは見えないように死角になっているので、通常誰かが立ち入るような場所ではない。

そこで転落事故を起こしたと言う事は明らかに異常な行動の結果である。

外壁にへばりついて女子風呂を覗こうとでもしたのか。

所長ははっきりとは言わなかったが、榎本はおそらくもう研修所にとどまることは出来ない。勤務地である山形の監督署に送り返されて処分を待つことになるだろう。もっとも、怪我の程度によっては当分病院のベッドの上で過ごす事になるかもしれないが。


綱紀の粛正とか知識の涵養とか、何か小難しい言葉で所長は訓示めいたものを言い残すと、所長はそそくさと教室を出て行った。


この日の課程は午前中がほぼ一週間にわたって行われた実務ゼミの成果発表に当てられ、午後半日は大学の先生を呼んで、労働法についての講義が予定されている。こちらは座って話を聞いていればいいので大分気が楽だ。


成果発表はとどこおりなく終わり、昼休みになった。

共用棟にある食堂で昼食を取るため場所を移動する。

階段を降りる途中、自販機の物陰で、小林恵子と、同じゼミ・グループだった島田孝則が、立ち話をしているのを見掛けた。

上目遣いに相手の目を覗き込む小林恵子の姿が、まるで肉食動物のように見え、こいつ早くも別の男にモーションをかけたのか、随分まめなことだ、と完太郎は思った。


午後一時過ぎから講義が始まった。

「K大学から来ました藤村朋美といいます」

自己紹介をした講師は女性の准教授だった。

労働法学の権威であるT大学の上島教授の教え子であるという風に自己紹介をした。

一目見て美人だと思ったが、度の強そうな眼鏡と、癖のあるもっさりした髪型からは野暮ったい印象を受ける。しかし有名な大学の准教授にしては若そうである。年齢より若く見えるだけかもしれないが。


「労働法」と一口に言っても中身は多岐にわたる。藤村准教授の講義は、受講生が新任の労働基準監督官であることに配慮して、労働時間法制や給与、休暇といった労働条件にテーマを中心に進められた。

日本の労総法では法定労働時間を週40時間と定め、それを超える労働時間に対し割増手当を付ける。一方、最近では変形労働時間制と言って一日の勤務時間を八時間以上にした分、休みを増やしたり、別の日に働く時間を短くしたりと、弾力的な労働時間の運用に向けた法整備が進んでいる。

一見複雑に見えるが、労働時間の計算方法を頭に入れておけば管理は容易だ…と。

淀みのない口調で、良く通る澄んだ声は聞き惚れる程だった。

三時間にも及ぶ講義は滞りなく終わった。


「何か質問がありましたらお受けします」

誰も手を上げない。

それでは…と、完太郎は質問してみる気になった。

「高橋といいますがよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

「先程先生がおっしゃった欧米の労働時間の上限規制の緩和について、将来日本でも導入されるとお考えでしょうか?」

「欧米と言うか、いわゆるホワイトカラー・エグゼンプションは、もともとアメリカで生まれた制度で、一定の要件を満たす労働者については、割増賃金の支払対象から除外するものですが、ウォール街の証券マンとか、ホワイトカラーのビジネススタイルにマッチしたことから普及しました。日本でもそうしたホワイトカラーの層はいますので導入はあるかもしれませんが、働き過ぎを助長するという見方もあって抵抗は強いかもしれませんね」

他に質問は出ず、午後の講義は終了した。


この日、一日の課程が終了したあとの夕刻から、喫茶室で懇親会が開催された。

研修生たちと、研修所の所長、教官たちも参加するという事で、研修の大きな山場であった実務ゼミが終わり折り返し点を過ぎた慰労の意味があったようだ。

会場となった喫茶室は夜には酒も出すラウンジのようになる。数十人の人数でごった返しており、特別ゲストとして午後の講義を担当した藤村准教授の姿もあった。

お堅いイメージの藤村准教授だったが、つがれるままに酒を飲み干しており、陽気に笑う姿を完太郎は遠巻きに眺めていた。

それぞれの研修生が住んでいる土地柄、仕事の上での悩み、愚痴。それから恋愛や結婚観など、話題は尽きなかった。

完太郎は気の合った連中と会話をしながら、ついつい盃を重ね、思わず呑み過ぎる羽目になった。


一人でぶらりと中庭に出て夜風に当たった。

騒ぎから離れた解放感と孤独がそこにはあった、と思ったら…

人がいる。

女性が一人うずくまって中庭の片隅でげえげえやっている。

「大丈夫?」と背中をさすると、「ありがとう…」と返事があった。

かなり苦しそうだ。

はてこんな研修生がいたかなと思ったが、ふらふらと立ち上がってこちらを振り向いた女の顔を見て完太郎は驚いた。

「藤村先生…」

懇親会の途中で姿が見えなくなったので帰ったものとばかり思っていた。


「ごめんなさい…少し休みたい」

「ラウンジにソファがあるから、取り合えず会場に戻りましょう」

「嫌、服汚しちゃったし…こんな格好で大勢の前になんて出られない。どこか人目に付かない場所に連れて行って」

学者なりのプライドの問題らしいが、それはヤバいだろ、と思いながら完太郎はどうしたらいいか思い悩んだ。

「お宅に帰らなくで大丈夫ですか? しばらくしたら車を呼びますから…」

完太郎が聞くと、

「いい…車なんか乗ったらまた吐きそうだし…」

確かにひどく苦しそうである。どこかで時間を置いた方が良さそうだが、こんな状態では人目についてしまう。

どうしよう…。

じゃあ俺の部屋に行きますか? と完太郎が聞くと、彼女は無言で頷いた…ように見えた。


明るい場所で改めて見ると、なるほどかなり酷い状態だ。吐瀉物で白いシャツの胸が汚れ、ジャケットとスカートにも大きなシミができていた。

幸い一階の喫茶室での懇親会がまだ盛り上がっているせいか、廊下には人がいない。

彼女の身体を抱きかかえるようにして、完太郎は自分の部屋がある二階に上がる。

誰にも見られなかった事を確認してドアを閉めた。


ぐにゃぐにゃと捉えようのない酔っ払った女の身体をベッドの上に座らせた。

「すいませんが…!服を洗いますんで脱いでください! その間、俺のシャツを着ていてください…!」

ロッカーから替えのシャツを取り出して渡した。もちろん男性用のシャツである。

なるべく彼女の着替えを見ないように目を背けたが、そんな完太郎の気持ちを知ってか知らずか、藤村朋美はまるで自分の部屋にでもいるかのようにおもむろに服を脱ぎだした。

完太郎はびっくしたが、脱ぎ散らかされた衣服をかき集めると、慌てて部屋を飛び出した。

長期間の滞在に備え、所内には洗濯用のリネン室が設けられている。

完太郎はリネン室の洗濯機のスイッチを入れて、汚れたシャツを放り込んだ。

乾燥機も使えばすぐに着られる様になるだろう。

ジャケットとタイトスカートは洗濯機に入れるわけにはいかない。幸い黒っぽいデザインなのでシミになった部分を水洗いすれば何とか誤魔化せそうである。

完太郎は水道の水で流して、ジャケットのシミを何とか拭い取ろうとした。

部屋に戻って見て完太郎は頭を抱えそうになった。

藤村朋美はブラジャーとパンティーだけのあられもない姿でベッドの上に座り込んでいた。ボーっとした目であらぬところを見つめており、完太郎が渡した換えのシャツには目もくれていない。

「水持って来ますね!水!」

酔いを覚まさせない事にはどうしようもなさそうだ。

再び部屋を飛び出すと、階下の自販機コーナーまで走り、ペットボトルを何本か適当に買い込んだ。

女にミネラルウォーター渡すと、これはあっと言う間にぐびぐびと飲み干して、大きな溜め息をついた。


「高橋君…だっけ? 御免なさい。迷惑かけちゃって」

研修生は胸に所属と名前を書いた名札を付けているのでそれを見たのか、それとも講義の時に名前まで覚えていたのかな? と完太郎は思ったが、彼女の口調は落ち着いていた。どうやら正気を失ってはいないようだ。

「もっと水、いりますか?」

「平気、さっき吐いて大分楽になったから」

そう言えばいくらか顔色が良くなったようにも見える。完太郎は服が乾くまでの時間を計算しながら、はてどうやってこの場をもたせようか考えた。

「あの、僕、まだラウンジでの飲み会がありますんで…。先生はここで休んでいてください」

狭い個室に二人きりでいるのはどう考えても具合が悪い。

しかしその時、廊下でガヤガヤと酔っ払った男どもの声が聞こえた。

部屋で飲もうかとか、外に出て駅前の店で二次会をとか、口々に騒いでいる。

どうやら懇親会はお開きになったらしい。もうそんな時間か。

不用意に外に出るわけにはいかなくなってしまった。特に今の彼女の姿を誰かに見られるわけには絶対にいかない。

どうします…と目と目を合わせたとき、藤村朋美の口から出たのはとんでもない提案だった。

「ねえ、飲み直さない?ここで」

ケロリとした表情でそう言った。

完太郎はわれとわが耳を疑った。

しかし、彼女の提案は完太郎にとってとても魅力的なものに思えたのも確かである。

こうなれば否も応もない。

完太郎は一杯加減で廊下をふらついている顔見知りの研修生たちに声をけけられないように気を付けながら、速攻で自販機の缶ビール(スーパードライ)を買い込んだ。

個室での飲酒はもちろん規則違反である。

しかし何と言う異常事態であろうか。

部屋に戻れば、目の前にいるのは半裸の女性なのである。


「先生、目のやり場に困るんですけど」

「何を今さらって感じじゃない? 君も脱いじゃえば? 暑いし」

もうヤケクソだと思いながら、完太郎はワイシャツとズボンを脱ぎ捨てて、ランニングとトランクスだけの姿になった。

完太郎の股間を見て、藤村朋美はキャー犯されるうーとおどけて見せた。

「乾杯」

と、やって缶ビールを傾けた。

ベッドの上に男と女が座って向い合った。


「昼間の講義、とても感動しました」

「いいのよお世辞なんか言わなくて。それより君の事を聞かせて」

完太郎の仕事の話題になった。労働基準監督署での日常。工場への臨検や事故調査。次々と降りかかるイベントをこなして行くこと。

「ほら、学者って文献を読んでる時間が圧倒的に長いじゃない。そーいう人間相手の仕事ってうらやましいわ」

「そうですか」

「いや、もちろん大学の仕事も人間相手ではあるんだけど…。何て言うか損得づくでさ」

完太郎が感じたのは、講義の時の理路整然とした大学准教授の藤村朋美に比べ、今目の前にいる彼女がとてもフランクで、あけっぴろげな事だった。

「失礼、楽にさせてね」

藤村朋美は脚を崩し、見たけりゃ見なさいとでも言うように胡坐をかいた。

「あの…先生、まだ酔っ払ってますよね?」

「そうかもね。でも…今はとってもいい気持ちよ」

と言って缶ビールを煽った。

「そうね、君のような現場感覚を持った人が教育の現場でも生かされるべきだわ」

「それは買い被りすぎですよ」

「それはそうと、さっきからずっと元気なままなんですけど、君」

完太郎は自分の股間に彼女が注目しているのに気が付いてドギマギした。

「だってこれは、先生が女性として魅力的だからですよ」

一瞬、ポカンとした間があいた。

そして彼女は眼鏡をはずすと、目頭を押さえた。

すすり上げる声がするのを聞いて、完太郎は「だ、大丈夫ですか?」と言うしかなかった。

「ごめんね。こんなに優しくされたのっていつ以来かなって思って…」

ふいに藤村朋美の顔が完太郎に近づいてきた。

濃いアルコール臭のするキスの味。

下着越しに重ねあわされる肌と肌…。胸の動悸が高まった。

完太郎はその時、サイレンの音を聞いた気がした。

何だろう…?

何となく不安な気分になった。しかし完太郎はそれ以上考えるのはやめにした。

部屋の明かりを暗くすると、あとは男と女、二人きりの秘密の時間。

夜が終わらなければいいのに…。

・・・・・・・・・



突然ドアがノックされた。

完太郎はベッドの中で寝ぼけ眼をこする。朝だ。いつの間にか朝になっていた。

しまった、目覚ましをかけ忘れたか。

「301号室、高橋完太郎、見回りだ!ドアを開けろ!」

完太郎はいきなり現実に引き戻された。見回り? これまで見回りで研修生の個室が点検されたなんて事はなかったはずだ。

ドアを叩いているのは研修所の教官らしいが…。

それよりもこれはマズい! 今自分の隣には一夜を共にした藤村朋美が寝ているのだ。

結局、彼女は昨夜家には帰らなかった。

事情はどうあれ個室に女性を連れ込んだという事実に変わりはない。

室内に踏み込まれて事が露見すればえらいことになる。

完太郎は凍りついた。

「高橋、起きろ! ドアを開けるんだ!」


だがこの時、藤村朋美の取った行動は素早かった。

昨夜の泥酔ぶりはどこへやら。ガバリとベッドから跳ね起きると、

ブラジャーを付け、リネン室から部屋に持って来て干してあったシャツを着込んで…。

最後に眼鏡をかけると、大学准教授が出来上がった。

定番のルートならベッドの下かロッカーの中なのに。学者先生は正面突破を試みるらしい。

完太郎が止める暇もあらばこそ。

藤村朋美が内側から勢いよくドアを開け、外に突っ立っていた教官の鼻先にずい!と一歩踏み出した。

「K大学准教授の藤村朋美です! 昨日はこちらの研修所での講義を担当させていただきました! 申し訳ありませんが私はこれで帰らせていただきます!」

「え…あ、はい! これは藤村先生?! 失礼いたしましたあ!」

あくまでも毅然と、あくまでも礼儀正しく。

藤村朋美の態度に仰天したのは教官の方だった。それはそうだろう、まさか研修生の部屋から大学教授が飛び出して来るなんて思ってもいなかったはずだ。すっかり圧倒されたのか思わず敬礼を姿勢を取っていた。

廊下をつかつかと足早に立ち去っていく藤村朋美。

あとには呆然と立ち尽くす教官と、室内で青ざめた表情でへたり込んでいる完太郎が残された。


教室内がざわついていた。午前中の講義が始まる前の待ち時間である。

教官たちの抜き打ちの見回りは、すべての研修生の部屋に対して行われたらしい。

その物々しいやり口からすると、何かまた重大な事件が研修所内で発生したに違いなかった。

そして、完太郎には思い当たる節があるだけに生きた心地がしない。

所長が来た。

昨日よりも、いっそう重苦しい口調で話を始めた。

「本日もまた、研修生諸君には残念な報告をしなければならない。諸君らの中に問題を起こした者がいる」

やはり駄目だったか、見回りの教官から所長に報告が行ったらしい。完太郎は観念して目をつぶった。

「小林恵子、島田孝則の両名は、本日をもって研修所を退所処分となった」

え?!

矛先が思わぬ方向を向いたので、完太郎は拍子抜けした。

研修の中途で退所処分と言うからにはそれなりの理由があるはずだ。

しかし、所長の口ぶりはどこか奥歯に物がはさまったようなものだった。

その時、隣の席の川本が完太郎の脇を小突いた。

「ゆうべ懇親会のあと、小林恵子が島田を自分の部屋に引っ張り込んだらしい」

小声でそう話した。

完太郎は昨日の昼休みに、小林恵子が島田と密会していた事を思い出した。

「それが、その最中に女の方が膣痙攣を起こしてな…。二人は繋がったまま救急車で搬送されたんだと」

完太郎は目を剥いた。

あの女、週末まで待てなかったのかよ!

「諸君らは社会人であり、また国家公務員として国民に信頼されるべき立場にあるのだ。その品位を落とすような行為は厳に慎まねばならない」

所長の訓示はどこか空々しく響いた。

そういえば昨夜、随分近いところでサイレンの音を聞いた気がする。

教官が突然見回りに来たのはそれがあったからか。完太郎は納得した。いや、納得したわけではないが。


何はともあれ、ドタバタ続きの一週間が過ぎようとしていた。

しかし完太郎は、藤村朋美との一夜が、のちのち自分の役人人生に大きな影響を与える事になろうとは、その時まだ気づいてはいなかった。

それはまた、別の機会の話なのだ。



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