58 ◇◇ 智菜:梨杏と話す
生徒会室に着いてみると、梨杏がいた。
窓の前の席に座っていて、わたしが開けた戸の音にはっと顔を上げた。黒板側には1年生の林くんがいて、チカちゃんとわたしを認めてほっとした顔をした。
「梨杏!」
気付いたら走り寄っていた。立ち上がった梨杏の手を両手をつかむ。もしかしたらもう来ないのではないかと不安だった。今は安堵で胸がいっぱいだ。
「来てくれたんだね! よかった! 本当によかった!」
「あの……」
「ごめんね。あたし、梨杏の気持ち、ちっとも分かってなかったよね。ホントにごめん」
梨杏の手を握ったまま、胸の中に渦巻いていた言葉が口からあふれた。
「もっとちゃんと話をすればよかったって思ってる。あたし……ごめんね、梨杏のことがちょっと苦手って思って逃げてたの。一緒にやっていくのにそんなんじゃいけなかったよね。梨杏はちゃんと向き合ってくれてたのに」
「智菜ちゃん。ちょっと落ち着いたら?」
後ろからチカちゃんの声がした。はっとして梨杏を見ると、わたしに手をつかまれて困った表情を浮かべている。
「来てくれてよかった。みんなで話さないとって思ってたから」
チカちゃんの穏やかな口調を聞きながらわたしも気を落ち着けて、彼女の手を離す。
「――まあ、みんなでって言っても、今日は来ないメンバーもいるけど」
「でも、お休みのひとも同じ気持ちだよ。連絡取り合ってるから大丈夫。ね?」
わたしの確認に、林くんが「はい」と力強くうなずいた。
梨杏との話し合いは静かに進んだ。
ネットへの生徒会の中傷投稿は、二度とも梨杏がおこなったものだと分かった。反省と謝罪の言葉を口にする梨杏にチカちゃんがその理由を尋ねると、「生徒会の中で自分が浮いているような気がしていた」と梨杏は答えた。
「みんなと上手く馴染めていなくて……、一緒に生徒会に入った1年生はちゃんと馴染んでるのに、あたしはいつまでもみんなと違ってて、場の空気を壊したりしちゃうし、どうしたらいいか分からなくなって」
「梨杏」
驚いて声が出た。梨杏が疎外感に悩んでいたなんて。彼女はわたしよりも早く1年生と冗談を言い合えるようになっていたし、いつでも自信に満ちて見えていたから。
チカちゃんがわたしを目で制した。梨杏はみんなの視線を避けるようにうつむいたまま続けた。
「始めは……本気じゃなかった。軽いことを書いて、みんなと一緒に自分も被害者になろうと思ったの。そうすれば、運命共同体みたいな……仲間になれるんじゃないかと思って。だけど、生徒会では話題にならなくて……上手く行かなかった」
初乃ちゃんにはわたしが気にしないようにと言ったから。チカちゃんもほかのメンバーに同じように言ったかも知れない。会長と副会長が無視するように言ったら、きっと誰も生徒会室では話さない。
「夏休みになったら活動時間が増えるからそこで挽回しようと思ったけど、やっぱりダメで……」
チカちゃんに対する試みを話すのかとドキッとしたけれど、それは出てこなくてほっとした。チカちゃんは知らなくていいことだ。
「金曜日の帰りに智菜にイライラをぶつけて、そのイライラが収まらなくて、夜にネットに書き込んだの。……ごめんなさい」
わたしを責めない梨杏。わたしのそれまでの対応に失望していたはずなのに。
梨杏は自分が生徒会内でどう思われているのか感じとっていた。そして、それを解決しようともがいていた。そのことに気付かなかったわたしは――、しかも彼女を避けるようなことをしていたわたしは、とてもひとりよがりだった。
「梨杏だけが悪いんじゃないよ」
今度はチカちゃんは止めなかった。
「梨杏があたしに言ったこと、当たってるんだよ。上辺だけニコニコしてたって、ホントなの。梨杏のことが怖くて――」
「怖い?」
梨杏が眉を寄せた。
その反応にドキッとする。「怖い」なんて言ったら怒るかも知れない。何か言い繕ってごまかしてしまおうか。でも……。
「あの……、ごめん!」
覚悟を決めた。正直に言うって決めてきたんだもの。わたしが梨杏をどう見ていたかを。そして、わたしのずるさを。
「あたし、自信のあるひととか強い言い方をするひとが苦手なの。それで、そういうひとを怒らせないようにっていつも――」
「怒るなんて」
言葉を遮って梨杏が言った。
「そんなに簡単に怒ったりしないよ。それに自信? あたしが? そんなものないよ。どうしてそう思うの?」
強い口ぶりに、やっぱり弁解したくなった。けれどわたしより先に「そういうところだと思うよ」と、チカちゃんが割って入った。
「智菜ちゃんが『怖い』って表現したのは、今みたいな言い方のことだと思う」
みんなの視線が集まる中、チカちゃんが静かに続けた。その表情は少し悲しそうにも見える。
「俺には……自分だけが正しいと思ってるように聞こえてた。それで、志堂さんに対して苦手意識があったんだ。志堂さんが疎外されていると感じてたのは、俺がそんな気持ちを持っていたせいだったと、今は反省してる」
梨杏は目を瞠り、告白するチカちゃんを見つめている。チカちゃんの隣で林くんがそっと目を伏せた。
「会長として、内部の人間関係に気を配らなくちゃいけない立場だったのに、自分の感情を優先させてそこから逃げてしまった。そのせいで志堂さんが苦しむことになって……申し訳なかったと思ってる。ごめん」
「チ、チカちゃんよりもあたしだよ」
わたしが梨杏と仲良くしていれば、チカちゃんの評価も違っていたかも知れない。でなければ、もっととりなすべきだったかも。今となっては遅いけれど。
「梨杏の気持ちをもっと考えるべきだった。本当にごめんなさい」
「あ、あの、僕もです。志堂先輩とどう接したらいいのか分からなくて、少し避けたりしてました。すみませんでした」
「そうか……」
梨杏が小さくつぶやいた。
「やっぱり避けられてたんだね……」
肩を落とす梨杏。誰からも見捨てられたみたいに。わたしたちが梨杏をそんな気持ちにさせてしまったのだ。
でも。
わたしはこれから、梨杏との関係を変えるつもりだ。その決意を伝えたい。
「ごめんね、梨杏。でも、あたし、これから変わるつもりだから」
「変わる?」
「うん。もうちょっと、強気になろうと思うの」
三人の視線が尋ねるようにこちらに向いた。
「あのね、遠慮を減らすっていうか、頑張って、梨杏と対等になろうと思う。たぶん、ぶつかることもあるかも知れないけど――」
「いいよ、それで」
身を乗り出すようにして梨杏が言った。
「あたし、その方がいい。遠慮されるより議論したい。自分の意見が通らなくても、おへそを曲げたりしないよ。それと」
みんなを見まわす梨杏。
「あたしの言い方が悪かったら教えてほしいの。そのくらいで怒らないよ。自分が完璧だなんて思ってないもの。だからお願いします」
「それは……俺も同じことを頼みたいな」
「僕もです」
「うん、あたしも」
お互いに視線を交わして確かめ合う。最後にそっと微笑むと、空気が緩んで力が抜けた。一瞬後、一斉に全員から大きなため息がもれた。
「やっぱり」
チカちゃんが小さく微笑んだ。
「ちゃんと話すっていうのは、相手を信頼してる証なんだろうな。今まではそれができていなかった」
そうかも知れない。そして、信頼すると決めるのは、自分の中にある……勇気、だろうか。
わたしにはそれが足りなかった。最初に梨杏を苦手だと感じたまま、試してみることもしなかった。もしかしたら、自分にはチカちゃんという絶対的な味方がいるという安心感が、それを許してきたのかも知れない。
これからはそんな自分を変える。
弱虫な自分を憐れんでいてはダメだ。どうすればいいのか考えたい。どれほど少しでも、相手に近付けるように。
雰囲気をリセットするために、飲み物を買いにいこうと梨杏を誘った。まだ少し気まずくて、しばらく無言で廊下を歩いていた。すると、梨杏が「今日の朝ね」と話し始めてくれた。
「水澤くんに会ったんだ」
「水澤くん?」
いろいろな記憶と用件がどっと頭の中に戻ってきた。
まずい。忘れていた。日曜日の返事が――。
「駅から一緒に来たの」
「そうなんだ?」
ってことは、何時? 剣道部はうちよりも早いって聞いたけど。でもそれよりも、水澤くんにいつ連絡しよう? 夜? もっと早く?
「去年、同じクラスだったんだけど、あんまり話したことなかったんだよね」
「そう」
「なのに、今日のことで相談に乗ってくれて、ちゃかさないでアドバイスもくれて」
「うん」
そりゃあ、水澤くんだもん。親切でやさしいよ。だから待ってくれて――。
「やさしいんだなって」
「うん……ん?」
思わず鋭く梨杏を見た。瞳がキラキラしているように見えるのは勘違いだろうか? 先週までチカちゃんを好きだった梨杏だけど、今日は?
「ええと、梨杏?」
小さく咳払い。次の言葉を自分が言うのかと思ったら、頬がかあっと熱くなった。でも、言わなくては。
「水澤くんは、ダメだよ?」
「え?」
梨杏の目がぱっちりと開いた。
「水澤くんは、その、わたしの彼氏……になるから、ダメ……なんだよね」
後半がちょっと弱めになってしまった。でも、言えてほっとした。
「『彼氏になる』って……予定?」
梨杏は不思議そうな顔。伝わらなかったかな。確かにあいまいな表現ではあった。
「ええと、その」
汗がいっぱい出てきてしまった。でも、ここまで来たら、隠すよりも打ち明ける方が楽な気がする。うん、そうだよ。
「日曜日に告白されたんだよね。でも、金曜日に梨杏と……まあ、いろいろあったから、仲直りしてからお返事するって答えたの」
「智菜」
梨杏の目がさっきよりも大きく見開かれた。
「そうしたら、きのうは梨杏がお休みで、今日、やっと話ができたから……」
「智菜、何やってんの!」
力強く梨杏が肩をつかんだ。その勢いに少しよろめいた。
「そっちの方が大事な用件じゃない! あたしのことなんかどうでも良かったのに」
「そんなことないよ」
これははっきり言う。そんなこと、絶対にない。
「梨杏のことも、水澤くんのことも、どっちも重要なことだよ。ううん。傷付けたってことを考えれば、梨杏のことの方が優先だと思う」
「智菜」
「それに、水澤くんは待つって言ってくれたから」
「じゃあ、今朝の水澤くんはそういう状況にあったわけなのね」
ぼんやりとつぶやく梨杏。……と、その唇に微笑みが浮かんだ。
「水澤くんが、智菜のことも信頼しろって言った理由が分かるよ」
「そんなこと言ってた?」
「言ってた。野上くんと同じくらい智菜も信用できるからって」
そうか。それは嬉しい。やっぱり早く連絡しないと。
「いいひとだねぇ」
梨杏の言葉にはっとした。
「うん、そうなの。だから……梨杏には譲らないよ?」
言ってからまた、かあっと頬が熱くなった。まったく、こんなことを言うのはわたしの性格とは相いれない。
そんなわたしを梨杏が笑う。
「智菜がこんなに一生懸命言うんだから、あたしは手を出さないって誓います」
わたしをからかう梨杏の声を楽しく感じていることが、今、とても嬉しい。
次、最終話です。




