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俺とちなちゃん  作者: 虹色
第五章 思いが交錯する夏
54/59

54 野上とちなちゃんの過去 その3


ちなちゃんと話したあと、野上にも電話をかけた。今日のうちならいろんなことを素直に話せるような気がして。


スマホを通して聞こえる声は静かだった。


『怒鳴ってごめん。ちゃんと事情を説明しないまま責めたりして、悪かったと思ってる』

「いいよ。確かにびっくりしたけど、それだけだから。さっき、ちなちゃんから聞いたし。……その、中学のときのこと」

『そうか』


野上が彼女を「自分の良心」だと言った理由は、俺の心にも深く残っている。


「でも、陸上部のことは野上とは関係ないって言ってたよ。それは逆だって」


ちなちゃんはそう話してくれた。事件がきっかけで休部したのは事実だけれど、その前から人間関係で揉めていたのだと。


特別にタイムが良いわけではないのに先輩や先生から贔屓されていると、同学年の女子たちから言われていたそうだ。たぶんそれは彼女の真面目さ故なのだろうと思うけれど、彼女にとっては苦しかったことだろう。だから事件のあと、休部という選択をあまり迷わずにできたし、生徒会役員になることが決まったときには退部する理由ができたと思った。つまり、陸上をやめたのは野上のせいではなく、自分が生徒会を口実に使ったのだ、と、ちなちゃんは説明してくれた。


『ああ、俺にもそう言ってるよ』


野上が仕方なさそうに小さく笑った。


『だけどね、ちなちゃんはいつも楽しそうに走ってた。それに、あれで結構根性もある。だから、部内で揉めてても、あのことがなければ退部はしなかったんじゃないかと思うんだよ』


もしかしたらそうかも知れない。そして今も走っていたのかも……。


『ちなちゃんは、うちのことも話した?』

「野上の家のこと?」

『うん。俺と母親が上手く行ってないってこと』

「え……、いや」


ちなちゃんのお母さんが亡くなっていることもさっき聞いたばかりだ。


『そうか。うちの母親、高学歴でさ、何でも自分が正しいって思ってるんだよ』


小さなため息が聞こえた。


『小さいときから俺を自分の思うとおりに育てようとして、習い事も勉強も、いろんなことをやらされた』

「お父さんは?」

『仕事が忙しくて家のことはあんまり……って感じ。母親と関わるのが面倒くさいから残業してるのかな、なんて、最近は思ってる』

「そうなんだ……」


相槌を打ちながら、自分の家族を思った。能天気で何の取り柄もない家族だけど、今でもゲームで盛り上がれる我が家はとても居心地がいい。


『その分、ちなちゃんのおじさんとおばさんが本当に可愛がってくれて』

「へえ」

『おじさんは俺をちなちゃんと一緒にどこにでも連れて行ってくれたし、おばさんは俺が子どもでも、いつでも真剣に向き合ってくれた。ふたりとも働いてて忙しかったのに』

「そうか」


まるで親が二組いるみたいだ。


『5年生になるとき――今でもはっきり覚えてるんだけど、母親が、もう友達と遊んじゃいけないって言ったんだよ』

「え、どうして?」

『中学受験の準備。学校以外の時間は全部それに当てるって』

「マジで……?」


うちはそういう状況じゃなくて良かった……。


『初めはそんなものかと思って勉強も宿題もやってたけど、あるとき、嫌になっちゃったんだ。で、少し休みたいって言ったら母親が激怒して、『子どもは親の言うとおりにしていればいいんだ!』って頭ごなしに言われてさ』

「それは……」

『なにしろ自分は何でも知っていて、やることに間違いはないって思ってるから、話し合いなんてできないんだよ。上手く行かないのは他人が介入したからだって考える人だしね』


野上の言葉は手厳しい。それが野上とお母さんの関係が上手く行っていないことを裏付けているように感じる。


「あ」

『ん?』

「前に言ってたよな、志堂のこと。何でも知ってる、みたいな態度が腹が立つって」


確かに言っていた。生徒会の愚痴を聞いたとき。


『ああ、そうそう。本当に嫌だったんだ、あのとき』


また一つため息が聞こえた。


『まあそれで、そのときは仕方なく続けたんだよ、受験準備。だけど母親が成績に満足してくれなくて、ちょっとしたことで怒るようになって。で、とうとう6年生の夏休みに『受験はしない』って宣言したんだ』

「おお! 怒られたよな?」

『当然。怒っただけじゃなくて、半狂乱になって泣かれた。ここでやめたら俺は人生の負け組だ、みたいなことを言われて。でも、曲げなかった。勉強道具、全部捨てたし』

「野上、すげえ」


子どもの野上が決然とした表情で参考書をゴミ箱に投げ入れる姿が目に浮かぶ。


6年生のときの俺が何を考えていたかなんて覚えていない。苦労していたのは夏休みの宿題くらいだ。


『それからは、母親の言いなりにはならないって決めた。言いなりだけじゃなくて、母親が喜ぶようなことはしないって』

「それ……反抗期ってやつじゃないか?」

『かも知れないけど、今もその気持ちは変わってない。変わってないし、今は、俺のやり方が間違っていないことを証明してやるって思ってる』

「そうなのか……」


野上がときどきおとなびて見えるのは、こんな思いがあるからかも知れない。


『当時はそんな目標があったわけじゃなくて、ただ反抗してただけだけどね。中学で部活に入らなかったのも母親を喜ばせないためだった』

「徹底してるなあ」


それほど親を拒否する気持ちって、いったいどんななのだろう。


『あのころ、感じてたんだ』

「感じてた?」

『母親が、俺を自分の自慢の道具に使おうとしてるって』


自慢の道具……。


『今はもっとはっきり分かってる。母親同士とか近所の付き合いでは自分の学歴を自慢するのは嫌われるし、父さんはまあまあっていう程度の役職で。だから俺だったんだって。お金をかけて育てて、他人から『優秀な息子さんね』って言われたかったんだよ』

「そんな。野上の幸せを願ったんじゃないの? その方法がエスカレートして」

『違うよ』


軽い口調が逆に真実味を帯びている。


『そういうのって、分かるものだよ。何度もぶつかってると、本音が見えてくるんだよ』

「そうなのか……」


家族だからこそ見えてしまうもの――。


『中学に、小学生のころに遊んだことがある先輩がいて、部活に入らなかった俺を仲間に入れてくれたんだ』


それがちなちゃんが言っていたグループか。


『補導されるほどの悪いことはしてなかったよ。でも、そっちに向かっていたとは思う。一緒にいるとなんだかドキドキして、自分が選ばれた気がして優越感もあった。乱暴な言葉を使うと自分が強くなったような気もして』

「分かる気がする」

『何よりも、明らかにそれは母親が望んでないことだっていうのが一番大きな理由だった』


徹底した反抗だ。この野上が。いや、野上だからこそなのか。


『母親とケンカすることが増えて、最初は自分の部屋に閉じこもっていたんだけど、母親の声も聞きたくなくて、外に出るしかないって思うようになったんだ』

「それで……ちなちゃんが」

『うん。夜に出て行ったのはあの日が初めてだった。いつまでも腹立ちが収まらなくて、ひとりでぐるぐる歩き回ってた。本当は怖くて、危なそうな場所とか人には近付かないようにして――、ちなちゃんにあんなことが起きてるなんて知らずに』

「そうか」


事件を聞いたときはきっと後悔しただろう。


『あのころはちなちゃんとはあんまり話さなくなってた。部活で頑張ってるちなちゃんがずっと先に行っちゃったような気がしてた。もう俺のことなんか気にしてないって。だけど……』


そうじゃなかったことを知った――。


「でもさ」


できるだけ明るい声を出した。


「野上には何事もなくて良かったよ。せめてそれだけは良かったと思う」

『うん……。ちなちゃんのおじさんとおばさんもそう言ってくれた。無事で良かったって。そして、『これからは、親子喧嘩したときはうちに来い』って。『何時でも迎えてやる』って』


まるで避難所みたいに……。


「ありがたいな」

『うん。ちなちゃんとうちは家族ぐるみの付き合いだったから、親の間である程度の状況は把握してたらしい。俺はおじさんとおばさんを信用してたし、何よりもちなちゃんに心配かけたくなかった。だから、それからはおじさんたちの厚意に甘えることにしたんだ。今でもケンカすると行くんだよ』

「うん。それでいいんだよ」

『あんまりしょっちゅうで申し訳ないと思うんだけどね。夕飯時だとご飯を食べさせてもらったりもするし』

「それは羨ましいな」


――もう一組の親。


さっき浮かんだ言葉がまた浮かんだ。


子どものことを心配してくれる存在。血がつながっていなくても、それは親――家族と、きっと変わらない。


『ちなちゃんのおばさんが亡くなったときは本当に辛かった。恥ずかしいけど、一番泣いたのは俺なんだ。ちなちゃんよりも』

「そうか」


だから野上はちなちゃんを守ることを――ちなちゃんのお母さんとの約束を――全うしようとしているのだ。それはちなちゃんに対する責任だけではなく、もう一人のお母さんへの恩返しの意味もあるのだ。


『俺、いつも考えてるんだ。後悔しないように生きたいって』

「それは……、なんだかすごい感じがするけど」

『はは、そんなに壮大な話じゃなくて』


笑いながらも真面目な声が聞こえてくる。


『俺たちって、選択する場面がたくさんあるんだよ。例えば服とか通る道とか、誰と友達になるかとか、まあ、大きい話だと志望校とか就職とか』

「ああ、確かに」

『その選択をしたことを後悔しないようにしたいって思ってるんだ』


野上の言葉が清々しい風になって胸の中を通って行った。


『俺、家出したことを本当に後悔してる。よく考えないで行動したことを。でも、もう取り消せないだろう?』

「そうだな」

『だからこれからは、そんなことにならないようにしたいんだ』

「うん。分かるよ」


俺たちが生きているのは今で、選択できるのは常に未来のことだけ。時間を巻き戻してやり直すことはできない。


だから俺たちはゆくゆく後悔しないように、その場その場で最善と思える選択をしていくしかないのだ。その選択に覚悟と責任を持って。







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