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俺とちなちゃん  作者: 虹色
第五章 思いが交錯する夏
52/59

52 野上とちなちゃんの過去


ちなちゃんに気持ちが通じた。


そんな満足感と達成感、そしてこれからの楽しい想像にうきうきしながら家に戻って思い出した。野上に報告しなくちゃ、と。ちなちゃんを送りたいと頼んだのは俺だったし、送る理由を勘違いしていた野上はきっと結果を知りたいはずだ。


電話する時間を先に連絡しておこうとメッセージを送った。すると、折り返しで電話がかかってきた。仲里を送ってから帰った野上よりも、一駅分往復した俺の方が時間がかかったのだ。


『ちなちゃんから無事に着いたって連絡あったよ。ありがとう』

「ああ、いや」


(「ありがとう」って言うんだなあ……)


当然のように野上がその言葉を使ったことが胸にしみた。野上にとってちなちゃんは、本当に家族のようなものなのだ。


『それでどうだった? ちゃんと伝えた?』


少し声を落として尋ねる野上。それについては何も聞いていないようだ。


「うん。条件付きだけど、OKももらった」

『条件付き?』

「うん。まあ、でも大丈夫だと思う」


志堂だって、あのちなちゃんをいつまでも許さないわけにはいかないだろう。


『そうか。やったな!』

「うん。ありがとう」


喜んでくれたことにほっとした。その勢いで、今まで野上に言えなかったことを思い切って言うことにした。


「実はさ、ちなちゃんと俺、同じ保育園に通ってたんだ」

『ああ、知ってたよ』

「え?」

『もう言わないのかと思ってたけど、その話もしたの?』

「え?」


知ってたって……。


「野上――なんで? 俺、野上に言って……ないよな? あ、もしかして、同じ保育園にいた?」


……いや、そんなはずはない。ちなちゃんと野上は小学校で知り合った、つまり、あの保育園にはいなかった。


『あはは。水澤とは間違いなく高校で初対面。でも、俺は入学初日に分かったよ、ちなちゃんの言ってた子だって。衝撃だったなあ』

「あ、そうか。ちなちゃんから……」


ちなちゃんが忘れてると思っていたから、その可能性は今まで考えてみなかったけれど。


「いつ聞いたんだ? 俺と会ってから?」

『いや、実際は忘れてたんだけどね。なにしろもうずっと前なんだよ。俺とちなちゃんが会ってすぐ。“水澤力”って名前をね』

「俺の名前……」


そうか。野上とちなちゃんが会ったのは保育園を卒園してすぐだ。


『ほら、入学式の日、教室に入って最初に出席取っただろ? あのときに、なんだか聞き覚えあるなって思って、話してるうちに『あの名前だ!』って思い出したんだ。隣駅に住んでるって聞いて、たぶん間違いないなって思って』

「じゃあ、気になったから話しかけてきたのか」

『まあね。俺にとってはかなり因縁を感じる名前だったから』

「因縁って、なんだよそれ。忘れてたくせに」


指摘すると野上は笑った。でも、俺はちょっと不満だ。


「俺は野上と知り合えて良かったって思ったんだぞ。いいヤツだし、気が合いそうだしって」

『分かってるよ、俺もそう思ったから』


野上が苦笑気味に弁解する。


『だけど仕方がないんだ。俺のアイデンティティの危機だったんだから』

「アイデンティティの危機? 俺の名前が? ははっ」


ふたりが会ってすぐなら小学1年生だ。それでアイデンティティの危機だなんて、ずいぶん大袈裟だ。


『そう。ちなちゃんと初めて会ったときに言われたんだよ、『ちかちゃんじゃない』って』

「え?」

『『ちかちゃんは“みずさわちから”くんだもん』って。だから俺は“ちかちゃん”じゃないって。俺もずっと『ちかちゃん』って呼ばれてたのに』

「あ……」


俺が“ちかちゃん”だから、野上は違うと……。


『俺、大泣きしたんだよ。自分が偽物だって言われたみたいな気がして』


そうか。確かに名前は自分と一体のようなものだ。きっと小さい子にとっては特に……。


『で、ちなちゃんのお母さんがちなちゃんのこと怒って、ちなちゃんも泣いちゃって――っていう景色をあの日の教室で思い出したってわけ。そんな事情だから水澤のことが気になるのは当然だろ?』

「まあ、それはそうだな」


そうか。ちなちゃんは俺の名前を――名前の場所を、確保しようとしてくれたんだ。それはできなかったけど、俺のことはちゃんと覚えていてくれたんだ。


『たぶん、そのあとおばさんがちなちゃんに厳しく言ったんだと思う、俺を『ちかちゃん』って呼ぶようにって。その辺は記憶に無いんだけど、気付いたら呼ばれてた』


野上が明るい声で続ける。


『でも、俺も水澤がいいヤツで良かったって思ったよ』

「まあ……、それなら良かったけど」

『うん。気に入らなかったら絶対にちなちゃんには会わせなかったから』

「そりゃそうか」


野上にとってちなちゃんは家族同然の大事な幼馴染みなのだから。


「ちなちゃんが俺を覚えていたことは知ってたのか?」

『ちなちゃんは何も言わなかったけどね。水澤のこと、懐かしそうに見てたから』

「でも黙ってたんだな。俺にもちなちゃんにも」

『そうだよ。そこは俺の意地』


野上がクスッと笑った気配。


『幼馴染みとしての意地だよ。名前のこともね。俺の複雑な気持ち、分かってくれよ。それに、昔の知り合いだからって、どこまで仲良くなれるか分からないだろ?』

「まあ、そうだけど」


野上が俺の幼馴染みの権利に嫉妬していたのなら、ちょっと満足だ。


『今日、ちなちゃんのおじさんに会った?』


突然、話題が変わって言葉に詰まった。


「ああ……、いや」


話しにくい話題になった。ちなちゃんは言わなくてもいいと言っていた。野上を心配させるだけだからって。だけど――。


『ふうん。家にいるって言ってたけど、出てこなかったのか。会いたかったと思うけどなあ』


――ウソはつけない。


俺を信用してくれた野上に悪い。それにこれは、俺が面倒だからそうしたわけじゃない。これからのちなちゃんの、そして野上のためでもあるんだ。野上は怒るかも知れないけれど……言わないと。


「あの、野上」

『ん?』

「俺、今日……、玄関までは行ってないんだ。ちなちゃんちの」

『え?!』


一瞬の沈黙。そして。


『……どういうことだよ?』


口調が変わった。俺が裏切ったと思っているのかも知れない。でも、ウソはつきたくない。


「エレベーターで一緒に5階まで行って……、で、ちなちゃんが廊下の端っこで見ててほしいってい――」

『まさか、それを承知したのか?』

「あ、ああ、そうだよ。そこからちなちゃんが玄関に入るまで見守って」

『なんだよ、それ?! 約束が違うだろ?!』


野上が爆発した。


『玄関まで送るのが条件だって言ったじゃないか! 俺との約束なんだから、ちなちゃんが何を言おうとついて行くのが筋だろう? 途中で何かあったらどうするんだよ!』

「だ、だけど、直線でずっと見えるし、何かあっても俺が走って行けば――」

『何かあったら、体は助かっても心が傷付くのは止められないよ! どうしてそんなことが分からないんだよ!』

「の、野上、だけど」

『うるさい! 水澤だから信用して任せたのに!』


どうしよう? これほど怒るとは思わなかった。


マンションに着いたとき、ちなちゃんは言ったのだ。自分は少しずつ練習をする必要がある、と。


野上は部屋が同じ並びで、べつに手間もかからないし、心配だから絶対にダメだと言っている。それには心から感謝しているけれど、これから先のことを考えると、一人で外出できるように準備をしなくちゃいけないと思っている。でも、誰もいない状態で家から出ようとすると、どうしても玄関で足が止まってしまう。


だから、今日がチャンスなのだと。


自分の家の玄関まで10秒もかからないと思う。その距離を一人で歩く――実際には小走りだった――のを見ていてほしい。俺に見ていてもらえれば、きっと頑張れるから。


そう言われても、俺も簡単に承知したわけじゃない。野上との約束もあったし、かなり説得を試みた。けれど彼女はとても頑固で、最後は彼女の野上に対する思いや将来のために努力したいという決意に負けてしまった。それに、やってみて無理なら、すぐに俺が駆けつければいい。


そこからちなちゃんが最後の決意をして歩き出すまで10分近くかかった。その間、「やっぱり今日はやめよう」と何度も言ってみたけれど、ちなちゃんは「やる」と言い張った。ようやく鍵を握りしめたちなちゃんがスタートして玄関まで走った時間が5秒程度、そして鍵を開け、中に入り、隙間から俺に手を振ってからドアを閉めるのにさらに5秒程度。


ドアが閉まってすぐ、ちなちゃんから電話が来た。「ありがとう」と言った声は、まだ息が乱れていたけれど誇らしげだった。そして、「水澤くんが見守ってくれてたから頑張れた」と俺への信頼を言葉にしてくれたのだ。


「野上。ちなちゃんは自分のためだけじゃなくて、野上のためにも頑張らないとって思ってるんだよ? 自立しなくちゃって。その気持ちを」

『違う』


野上が強く遮った。


『俺のためになんか頑張る必要ないんだよ。俺には責任があるんだから。水澤には分からないよ。ちなちゃんにもしも何かあったら、俺は一生後悔し続けなくちゃならない』

「ねえ、野上。そんなに思いつめなくても」


ちなちゃんもきっと同じように思ってる。野上を自由にしたいって。すぐには無理だけど、少しずつでも。


「俺も聞いたよ、ちなちゃんが怖い目に遭ったって。だけどちなちゃんは少しずつ克服したいって思ってる。だから――」

『それが自分のせいでも、水澤はそう言える?』


野上の声は金属のように硬かった。


『自分のせいで外に出られなくなって、友達と遊べなくなったり、部活をやめることになったとしても、そう言える?』


畳みかける勢いに、返事ができなかった。


『ちなちゃんがあんなことになった原因は俺なんだよ。俺が親とケンカして家を飛び出したんだ。だからちなちゃんは夜に外に出たんだ。自分なら俺を見付けられると思って』


野上を――。


知らなかった。そんな理由があったなんて。


言うべき言葉が見つからない。野上の苦しさが声と一緒に胸に流れ込んできて。


『だから、俺には責任があるんだ』


揺るぎない声。


『ごめん。今からちなちゃんのところに行ってくる』


俺の返事を待たずに電話は切れた。







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