51 二つの告白
「あの……」
ちなちゃんが先に口を開いた。その途端、ふたりを包んでいた薄いガラスがパリンと散ったような気がした。
「じゃあ、あたしから話すね?」
「いや、俺が」――と言おうとしたけれど、一方で告白のチャンスが消えたことにほっとしている自分に気付いた。勢いに乗れなかった不甲斐なさに落ち込みながら、了解のうなずきを返すしかなかった。
ゆっくりと歩き出したちなちゃんに歩調を合わせる。道路の反対側をベビーカーを押した男の人がかなりの速さで歩いていく。それを見ながら、あのひとはどんなふうにプロポーズをしたのだろう、なんて考えてしまった。
その人を見送ったころ、ちなちゃんが顔を上げて足を止めた。少し淋しそうな微笑みに、何を言われるのかと思わず身構える。
「あたしね、一人では外を歩けないの」
「え?」
一瞬考えてから思い当たった。ちなちゃんが送ってもらう「理由」だ。確かにさっき、その話をしていた。
「ええと、それは……家が厳しいのかなって……」
野上に玄関まで送ることが条件だと言われたときにそう思った。ちなちゃんが一人での外出を禁じられているとすれば……。
「でなければ、親がものすごく心配性とか。だから一人じゃダメって」
ちなちゃんが「え?」とわずかにのけぞった。それから、「ふ」と笑い声を漏らした口許に手を当て、くすくす笑い出した。そして。
「そんな箱入り娘じゃないよ。そんなに大事な娘だったら、あんな古い保育園には預けないんじゃないかな?」
「ああ、そう言えば、ブランコのペンキが」
「そうそう!」
――と。
ふたりの動きが止まった。
その姿勢のまま大きな瞳で俺を見つめているちなちゃん。それはたぶん、俺も同じで。
「水澤くん……」
「あの保育園」
おそるおそる確かめようとする姿もきっと同じで。
「もしかして」
「ちなちゃんも」
確信に変わっていくお互いの心の中も手に取るように分かって。
「覚えてたの?」
「覚えてた?」
やっぱり!
「覚えてたよ。最初からずっと」
「あたしもだよ。どうして。そんな」
驚くちなちゃんを前に喜びがこみ上げてきた。
盛大ににこにこしてしまった自分が可笑しくて、くすくす笑いが止まらない。そんな俺の前でちなちゃんはおろおろと「どうして」と何度も繰り返している。
彼女の質問はどれについてだろう。黙っていたこと? 覚えていたこと? それとも再会したことそのものだろうか。
「ごめんね。会ったときにすぐ分かったんだ。名前を……覚えていたから」
「名前? あたしの?」
「うん。あの、ハンカチくれたよね? クマの。それに名前が書いてあって」
「ハンカチ……あげた? あたしが?」
失敗した?!
保育園でもらったものをずっと持っていたなんて、もしかしたら気持ち悪いって思われた?
「う、うん、ウソじゃない。ちゃんともらったんだよ。無理矢理じゃなくて、カエルと取り換えっこで」
「カエル!」
ちなちゃんの大きな声。
「折り紙の、青いカエル。今も持ってるよ」
カエルで遊ぶ幼い俺たちの記憶がよみがえる。
「水澤くんのこと、卒園アルバムで見て覚えてた。でも、入学式の日に何も言われなかったから忘れられてると思って」
早口の言葉を聞きながら、胸が熱くなった。
「俺も、ちなちゃんは忘れてると思ったよ」
それだけじゃない。野上とちなちゃんの関係を疑って、いじけていたのだ。
「ご、ごめんね。ハンカチのこと、覚えてなくて」
「いいよ、そんなこと」
俺のことを覚えていてくれた。折り紙のちっぽけなカエルをずっと持っていてくれた。初日に気付いてくれた。それだけあれば十分だ。
なんだか急に照れくさくなってしまった。ちらりと視線を交わしてはくすくす笑い、どちらからともなく歩き出し、同じタイミングで深呼吸をしてまた笑った。
「あ、そうだった」
そう言ったちなちゃんはさっきまでよりもずっとリラックスして見える。もしかしたら、お互いに覚えていたことを確認したことで、俺は野上と同じ位置に立てたのだろうか。ちなちゃんの幼馴染みという特別な位置に。
「あたしがね、一人では外に出られないっていうのは」
そうだった。浮かれている場合じゃない。真面目な話をしていたんだ……と気を引き締めた瞬間。
「外が怖いからなの」
「え?」
驚いてまた立ち止まってしまった。一歩先まで進んだちなちゃんも立ち止まり、振り返った。
「ちょっと……怖い目に遭ったことがあって、一人では家から出られなくなっちゃったの。中学生のとき」
怖いこと……。
起こり得る「怖いこと」がテレビのチャンネルを切り替えるように次々と浮かんでくる。ちなちゃんがそんな目に遭ったのかと思うとぞっとする。
「あ、でもね、おおごとになる前に助けてもらったから大丈夫だったの。でも、あんまり話したくないの。思い出すと怖くて」
「そうか。でも……、大変だったね」
怖かったことはもちろんだけど、一人で家から出られないなんてとても困るだろう。ちょっとした買い物も友達との約束も簡単にできない。
「だから野上が」
「うん。ちかちゃんにはずっと心配かけてるの。こんなんじゃダメだよね。少しずつ大丈夫なことを増やしては来たんだけど……」
薄れる光の中で、ちなちゃんが淋しげにうつむく。
その頼りない姿がどこか別の世界に吸い込まれてしまいそうな気がして、思わず背すじがぞくっとした。急いで彼女との間合いを詰め、肘のあたりを握る。ちなちゃんがはっと顔を上げた。
「大丈夫だよ。ちゃんと家まで送るから」
「うん。ありがとう」
安心した様子でにっこりした彼女に微笑み返した途端、ちなちゃんに触れるという、俺にしては大胆な行動に出てしまったことがちょっと決まり悪くなった。
「じゃあ、行こうか」
手を離すのはなんだか不安だけれど仕方ない。ちなちゃんを安心させるべく、なるべくそばを歩くことにする。まるで剣道の試合のように周囲の気配を探りながら。
それでもふたりで話すのは楽しい。思い出話を交えつつ笑いながら次の角を曲がると3棟並んだマンションが見えた。その一番奥の5階に住んでいるのだと、ちなちゃんが指差して教えてくれた。
――あと少しだぞ。
頭の中で声がした。
――このまま帰っていいのか? 次の機会はいつだ? そのときはちゃんと言えるのか?
矢継ぎ早に質問が湧いてくる。
(分かってるけど……)
言ってしまえばいい。絶好のチャンスだ。だけど、何て言えばいい? 困らせてしまうかも知れないし、せっかく縮めた距離が離れてしまうかも知れない。今日は保育園の確認で十分では?
こんな問答の間に残り時間はどんどん短くなる。
――じゃあ、いつ伝えるんだ? また野上に頼るつもりか?
もう野上には頼れない。そんなのカッコ悪い。
だったら。
このチャンスを活かさなくちゃ。
どんな言葉でもいい。ちゃんと伝えなくちゃ。俺の希望を。もう気持ちは決まっているのに、何を迷っているんだ。俺はそんなに弱虫なのか?
「あのさ」
迷いを断ち切り、半ばやけくそで切り出した。
「これから……、ときどき一緒に遊びに行かない?」
「え……?」
ちなちゃんが立ち止まり、まじまじと俺を見上げた。鼓動がスピードを上げたのがはっきりと分かった。ついでに頬が熱くなる。でも、もう後に引けない。
「ちゃんと迎えに行くし、帰りも最後まで送るよ。一緒に……楽しいことをしようよ」
「あの、あたし、と?」
ちなちゃんが、信じられないと言わんばかりの顔で俺に確認する。
「うん。ちなちゃんと俺、ふたりで。ちなちゃんのことが……好きだから」
無事に言えた! とほっとした俺を、目をまん丸にしたちなちゃんが見返してくる。でも、これならちゃんと通じたはずだ。
「よろしくお願いします」
「いや、でも」
ちなちゃんの驚きはよっぽどだったのか、何度瞬きしても大きな目のままだ。
「あたしだよ? こんな大福もちだし、気も利かないし、申し訳ないよ」
今度は遠慮された。っていうか、「大福もち」って可愛い! ちなちゃんのほっぺにぴったりだ!
「そんなふうに思ったことないよ。それとも……」
そこで気弱さの波に襲われて、声が小さくなった。
「ダメってこと?」
「まさか!」
ちなちゃんが力強く否定した。
「水澤くんがダメなわけないよ。どこもダメなところ無いよ。声も、笑った顔もいいなあって思ってるよ。いつも心配してくれるし……」
はっとした様子でちなちゃんが言葉を止めた。それから「あ〜〜〜〜っ」と言いながら両手で自分の顔をはさんだ。
(「笑った顔もいい」って言われた……)
彼女の言葉の意味が頭にしみ込むにつれて、にやにや笑いが浮かんでくる。
「あー……、つまり」
「ごめん! でも今はお返事できない」
確認しようとした俺をちなちゃんが遮った。両手を拝むように合わせて。
「嬉しいの。嬉しいんだけど、今は……今のままでは『はい』って言えない」
(「はい」って言えない……)
予想と違う彼女の言葉が頭の中に何度も響く。
「ええと、それは……どういうこと?」
「ごめんね。水澤くんが悪いんじゃないの。あたしの問題なの」
ちなちゃんが手を握り合わせて言う。
「今はダメなの。このままじゃ」
ちなちゃんが今のままじゃダメ? それはさっきの……。
「一人で外に出られないことなら、俺はべつに」
「違うの。それじゃなくて。いや、本当はそれも直した方がいいけど、それはすぐには無理で、それよりも大事なことが」
「それよりも大事なこと?」
尋ねると、ちなちゃんがうなずいた。
「あのね、梨杏のことが解決してからにしたいの」
「志堂の……」
ちなちゃんがもう一つうなずく。
「さっき話したでしょう? あたし、梨杏を怒らせたままだから。それを放っておいて、自分だけ楽しいことを考えるのは心苦しいの」
懸命な表情から真面目な気持ちが伝わってくる。
「だから、ちょっと待ってもらえますか? こんなこと言うのは申し訳ないけど」
ちなちゃんへの尊敬と、好きだという想いで胸がいっぱいになった。
そう。ちなちゃんはこういう子だ。たとえ苦手な相手でも、不幸せな気持ちでいるのを放っておけない。奥津のときと違って、今回は自分が原因になっていることもあるのだろうけれど。
「いいよ。待つよ」
こんな女の子を面倒だと思うヤツもいるかも知れない。でも、俺はこういうところも好きだ。それに、今は言えなくても、彼女の返事は「はい」なのだから。
「ちなちゃんなら大丈夫。志堂も分かってくれるよ、きっと」
「うん……」
「役には立たないかも知れないけど、何かあったら相談して」
ちなちゃんをバックアップしたい。そしてそれが解決すれば、晴れて俺たちは――。
「ありがとう、水澤くん」
感謝の言葉と信頼にあふれた表情にまた照れくさくなる。でもそれよりも、彼女が俺を気に入っているという幸せと誇らしさの方が何倍も大きかった。




