48 ◇◇ 智菜:チカちゃんと梨杏の想い
梨杏が視界から消えた途端、何かが迫ってくるような気がした。
(ああ、ダメだよ)
そんな考えを追い出そうとアイスのカップを両手で包むように握り締め、目をぎゅっとつぶる。
(少しは治ってきていると思ったのに)
心臓がドキドキとスピードを上げる。深く息が吸えないような気がする。それに。
(失敗した――)
目を閉じちゃいけなかった。これでは周りの様子が分からない。でも、もう目を開けるのが怖い。もしも目の前に怖い人がいたら。
だけど、このままじゃ、チカちゃんに連絡できない。きっと近くで待っててくれているはずなのに。時間が経てば不審に思って探しに来てくれるかも知れない。でも、それまでは――。
「智菜ちゃん?」
聞き慣れた声と同時にそっと腕に手が触れた。ビクッとした勢いで目が開き、チカちゃんの顔が見えた。心配そうな表情を浮かべて、すぐ前にしゃがんでいる。
「チカちゃん……」
かすれ声で名前を呼んだら、今度は大きく息が吸えた。吐くと同時に体の力がすうっと抜ける。
「ありがとう……」
胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸。
ふと、その手が濡れていることに気付いた。スカートにもアイスのカップの水滴が落ちている。タオルを出そうと視線をめぐらすと、梨杏がベンチに残して行ったアイスが目に入った。途端に梨杏の言葉がよみがえり、胸に刺さってきた。
『心の中で笑ってたんでしょう』
『上辺だけにこにこして』
『だから嫌いなのよ』――。
「大丈夫?」
思わずうつむいたわたしに尋ね、チカちゃんが隣に座る。
「うん」
顔を見られないようにカバンの中を探り、タオルでスカートを拭きながら気持ちを落ち着けた。
「大丈夫」
微笑んでうなずくと、チカちゃんがようやくほっとした顔をした。
「志堂さんと一緒に上がって来ると思ってたのに、いなかったからびっくりしたよ。」
怒った梨杏は、あのまままっすぐ改札口に向かったのだ。それはわたしにとって幸運だった。たぶん、チカちゃんは改札口あたりで待っていて、わたしが梨杏と離れたらすぐに出てきてくれるつもりだったのだろうから。
慌てて探しに来てくれたチカちゃんに、あらためて感謝の念が湧いてくる。
「心配かけてごめんね。――梨杏はどんな様子だった?」
「志堂さん? なんだか急いでたみたいだったかな。わき目もふらずに行っちゃったよ」
「あ、そうなんだよ。用事を思い出したって。だからアイスも食べかけで」
彼女の想いも、わたしを嫌っていることも話せない。チカちゃんに余計な心配をさせるだけだから。
「ふうん」
チカちゃんはちらりと梨杏の残して行ったアイスを見てから、不満そうな口調で言った。
「それにしても、智菜ちゃんを置きざりにするなんて」
憤慨しているチカちゃんに、「仕方ないよ」と明るく言う。
「梨杏は知らないんだから」
梨杏だけじゃない。学校の誰にも話していない。
「そうだけど、普通、一緒に改札口まで来ない? 方向は違っても、ふたりとも電車で帰るんだし。それに、相談に乗ってあげたのは智菜ちゃんなんだよ? なのに食べかけの片付けまで押し付けて帰っちゃうなんて」
「うん……、まあ、急いでたから」
チカちゃんの中で梨杏の印象がどんどん悪くなってしまう。これでは梨杏が可哀想だ。こんなふうにチカちゃんが腹を立てているのはわたしが梨杏を怒らせたからだ。それだけじゃなく……。
「ごめんね、チカちゃん」
「何が? 智菜ちゃんは何もしてないよ?」
チカちゃんの確信に満ちた表情はわたしへの信頼の証。でも、それに甘えていちゃいけない。
「違うよ。あたしが一人で帰れれば、チカちゃんは不愉快な思いをしなくて済んだんだよ」
「智菜ちゃん」
チカちゃんが驚いて目を見開いた。一緒に登下校することはもう当たり前になっているから、そこに問題があるとは思っていなかったのかも知れない。
登下校を一緒にすること。そう。もう当たり前になっているけれど、こんなの普通じゃない。それは分かってる。でも、これには理由がある。
理由――。
それは、わたしが一人では外に出られないこと。中学一年生の秋に怖い目に遭って、家から出られなくなってしまったのだ。
夜に一人で外にいたときに、高校生のグループにからまれた。チカちゃんのお父さんに助けてもらって事なきを得たけれど、それ以来、外に出るのが恐ろしくなった。玄関で足がすくんでしまう。なにしろそのグループには顔見知りも含まれていたから。
2日ほど学校を休んだあと、親が一緒なら出られることが分かった。敷地がきっちりと囲まれていて友達や先生がいる学校の中も大丈夫だった。そう分かっても、共働きの両親に毎日送迎してもらうわけにはいかない。友達も、毎日家の玄関まで一緒に帰ってほしいとは頼めない。
すると、それが親を通してチカちゃんに伝わり、チカちゃんが一緒に通学してくれることになった。
その頃には、わたしとチカちゃんはもうほとんど一緒には行動していなかった。6年生のころから次第に別々になり、さらに中学に入ってからは、陸上部に入ったわたしと帰宅部のチカちゃんは行動パターンが違っていたから。けれど、親の間でそのように決まり、チカちゃんも直接話しに来てくれたので、ありがたくお願いすることにした。
陸上部は休部し、それから間もなく生徒会を引き受けることになったときに、それを理由に退部した。
それからずっと、チカちゃんはわたしに付き添ってくれている。今ではわたしのお母さんとの最後の約束にも縛られて……。
「あたしのことがなければ、いろんなことがもっと簡単なんだと思う」
「そうかなあ?」
落ち込む私とは反対に、チカちゃんは無邪気に首を傾げる。
「そうだよ」
「でも、智菜ちゃんのお陰でミアちゃんと知り合ったよ?」
「それはそうだけど……」
確かにそうだ。わたしがいなければ、ミアとチカちゃんが知り合うことはなかったと思う。あの日、わたしがミアにお礼を言おうと呼び止めていなければ。
「ね? 智菜ちゃんも役に立ってるから、気に病む必要ないよ」
「……うん。ありがとう」
人と人の関係って不思議だ。
わたしはよく、あの日、あの瞬間、もしも違った行動をとっていたら……って、考える。あの夜、わたしが外に出なかったら――。
わたしは、どんなわたしになっていたのだろう。
こうしてチカちゃんと一緒にいることもなく、……たぶん、水澤くんとも仲良くならなかった。2年生で同じクラスになっても、入学からの積み重ねがなければ今ほど近付かなかったと思うから。
「相談は無事に済んだの? 短い時間だったけど」
改札口への階段を上りながらチカちゃんが尋ねた。そこでクスッと笑って。
「あの志堂さんだから、余計なことは言わないで一直線に話したのかな」
「うん。そうだったよ」
単刀直入に「休んでほしい」と言った。理由も正直に打ち明けてくれた。確かにあれは梨杏らしい行為だ。自分の要望をきっぱりと伝えてくるところが。
黙ってその頼みに応じることもできた。けれど、もしそれを実行したとしても、実際の事情が梨杏の希望どおりに運ばないことをわたしは知っていた。だから真実を話した。そして――梨杏を怒らせてしまった。
『だから嫌いなのよ』
梨杏の声がまた聞こえた。
梨杏は前からわたしを嫌っていたのだ。わたしの心の中と外側が一致していないと気付いていたから。
わたしは梨杏を馬鹿にしていたわけではなかった。決してそうじゃない。でも、梨杏はそう感じていた。自分が信用されていないとも思ったかも知れない。
「解決したの? 相談事」
チカちゃんの質問にどう答えようか迷う。解決どころか、別の問題が発生してしまった。
「分からない。あたしにできる限りの話はしたけど」
「ああ。それしかないよね」
気楽にうなずいているチカちゃんを見ていると来週が不安になる。と同時に、ふと思った。チカちゃんは梨杏の気持ちに気付いていなかったの?
「ねえ」
「何?」
「チカちゃん、梨杏とよく話してたでしょ? 何か……無かった?」
「志堂さんから相談? うーん、生徒会のことしか話さなかったなあ。ときどき夜にも電話がかかってきたりもして、熱心だなあって思ったけど……、いや、正直に言うと、ちょっと面倒だなって思ってた。会長として失格だね」
「失格なんてことないけど……」
梨杏は頑張ってたんだ。でも、生徒会の話しかできなかった? いや、チカちゃんが気付かなかっただけなのかも知れない。梨杏に興味を持っていなかったから。
「だから智菜ちゃんに相談しようとしたのかな? 生徒会のことだった?」
「ううん、違う」
「そう」
いくらアプローチしても振り向いてくれないチカちゃん。そして、同学年、同性のわたしは本心からは打ち解けていない。そんな生徒会で、梨杏は孤独を感じていたのかも知れない。
「あさっての天気予報、雨になってるよ」
スマホを見たチカちゃんが言った。あさっては水澤くんとミアと4人で遊びに行く予定の日だ。
「雨が降ったら海は無理だよね?」
「そうだね。どこか屋内の施設に行くっていう手もあるけど」
「映画とか?」
「映画はこの前、水澤と行って来たんだよなあ」
仲良しと遊びに行くのはどこでも楽しみだけれど……。
梨杏のことが頭から離れない。梨杏の怒りや悲しみがわたしの心にも流れ込んでくるような気がしている。わたしがもっときちんと梨杏と向き合っていれば――。
(ダメだ。どんどん落ち込んじゃう)
あさって、水澤くんとミアに会えたら、前向きな気持ちになれるだろうか……。




