47 ◇◇ 智菜:梨杏の相談
チカちゃんとミアがお付き合いをすることになれば、生徒会でわたしが気を揉む必要はなくなると思っていた。梨杏がチカちゃんのことをあきらめると思ったから。
でも、そう簡単にはいかなかった。なぜなら、チカちゃんに彼女ができたことが広まらないから。まさかこの部分でつまずくとは思わなかった。
ふたりのことはべつに秘密ではない。チカちゃんもミアもそう言っている。でも、あれから一週間めの今日も、生徒会のみんなはまだそれを知らない。
チカちゃんは軽く「彼女ができました〜」なんて言うような性格ではないし、わざわざみんなの前で発表するような話でもない。そもそもわたしにだって言えないでいたのだから、これからも自分からは言わないだろう。学期中ならどこからか少しずつでも広まるのだろうけど、あいにく今は夏休み中だし……。
軽く話せないという点ではわたしもチカちゃんと似たようなものだ。
雪乃ちゃんには話せそうと思うけれど、彼女は塾の夏期講習で今週はお休みだった。梨杏とはふたりで話す機会は無かったけれど、機会があったとしても話す決心がつくかどうか分からない。帰ってからわざわざ連絡するのも変な気がするし。
伝えたときにどんな反応が返ってくるかを想像すると、どう話したらいいのかと思ってしまう。梨杏の気持ちをはっきりと宣言されたわけではないから余計に困っている。
みんなで雑談しているときならどうにかできるかも……とは考えたけれど、その場になると何もできなかった。
そんな調子で、今週も気を張って疲れてしまった。あと1時間で今週の生徒会が終わると思うとほっとする。そして、あさってはみんなで遊びに行く日だ。
「野上くん、去年の九重祭のアンケートって、どのフォルダにあるか分かる?」
作業机でパソコンに向かっていた梨杏がチカちゃんに尋ねた。チカちゃんと副会長の後藤くんとわたしは3人で九重祭委員会から届いた資料を確認していたところ。
「アンケートの原稿? 智菜ちゃん、見てあげてくれる?」
「はい」
チカちゃんがわたしに振ったのは正しい。九重祭のアンケート用紙は書記の仕事なのだから、わたしが説明するべきだ。それを分かっていてチカちゃんに声をかけた梨杏の思惑は、チカちゃんへの接近? それとも暗にわたしの能力が低いと言っている?
こんなふうに考えないようにしようと思っても、つい考えてしまう。自分が僻みっぽくなっているようで嫌だ。
梨杏は立ち上がったわたしをちらりと見てから、パソコン画面に視線を戻した。その表情が不満そうに思えて、今度は弱気が前に出る。
(勝手に想像しちゃダメだよ!)
自分に喝を入れた。
わたしが勝手に「不満そう」だと思っただけで、きっとあれはいつもどおりの梨杏だ。自分で難しい状況を考え出しちゃダメだ。
「ごめんね、仕分けが分かりにくくて」
無邪気な笑顔で言ったつもりだけど、ちょっと嫌味っぽかったような気がする。梨杏も笑顔で「ううん、忙しいのにごめんね」と答えた。こんなやり取りを白々しく感じているのはわたしだけ?
梨杏の隣から画面を覗きこみ、見つけたデータを開くと、今度は「なんだか見づらいね。直してもいい?」と言われた。「もちろん、そうして!」なんて軽く答えながら、駄目出しをされた気分を胸からぎゅうっと押し出した。
(神経過敏になってるよね……)
自分で分析して反省する。
ありもしない言外の意味を感じ取ってるんだ、きっと。梨杏がわたしを好きじゃないと決めつけて。そんなの良くない。やめなくちゃって何度も思ってるのに、どうしてできないのかな。
心の鎧をきっちりと締め直したら、梨杏の言葉を深く考えないようにできる? わたしのマイナスの感情のせいで、みんなが気を遣うようなことになったら申し訳ないから。
「智菜、アイス食べて行かない?」
蒸し暑い帰り道、駅前の信号を渡るときに梨杏が振り向いて言った。
「ちょっと相談したいことがあって」
梨杏の隣でチカちゃんがこっそり眉を上げたのが見えた。
「時間はかからないから、お願い」
小首をかしげて頼む梨杏。何かのときにはいつも真っ先にチカちゃんに声をかけるのに、今はわたしを指名した。チカちゃんには話せないことなのだろうか。
ちらりとチカちゃんを見ると、小さなうなずきが返ってきた。
「うん。いいよ」
「よかった」
安心した様子で微笑む梨杏を見て反省した。
ついつい苦手だと思ってしまっていたけれど、梨杏はわたしに相談したいという。つまり、梨杏はわたしを信用しているということだ。やっぱり、わたしが感じていたのは被害妄想で、自分の劣等感や神経過敏が原因だったのだ
一緒にコンビニでアイスを買い、ちょうど小学生たちが立ち去ったベンチに腰掛けた。暑さと湿気でアイスのカップの外側にはたちまち水滴がついて指が濡れる。
「もう8月になったねえ」
梨杏に悪気はないと分かっても、どうしてもプレッシャーがかかる。それから逃れようと、当たり障りのない話題を口にする。梨杏は「そうだね」とうなずいてから、「来週のことなんだけどね」とわたしを見た。
「火曜日か水曜日、休んでもらえないかな」
かなり単刀直入な申し出だ。でも、唐突すぎて意味が分からない。
「火曜日か水曜日?」
「うん。ダメ? 仕事忙しい?」
「うーん……」
仕事は特に問題はないだろう。でも、どうして休んでほしいんだろう。やっぱりわたしのことが嫌いで、顔を合わせる回数を減らしたいとか?
だけど、それはたった一日で片付く問題じゃない。一度それを了承したら、これからも何度も同じことを言われるかも知れない。そんなことになったら、副会長としての責任が果たせなくなってしまう。
でも、それ以外の理由ってことも……。
「何か都合が悪いとか……?」
「あ、そういうわけじゃないんだけど」
しなやかな髪をゆっくりと耳にかけながら、梨杏が下を向く。何か心を決めるためのように見える。ふと、持っていたアイスのカップの水滴が気になって自分の手を見たちょうどそのとき、梨杏が顔を上げた。視線をまっすぐにわたしに向けて。
「ほかのひとがお休みだから」
静かに、でもはっきりと梨杏が言った。
「ほかのひとが?」
「うん。野上くんと智菜以外」
「ああ……、うん」
うなずきながら考える。来週のみんなのお休みはどうなっていたっけ? 夏期講習から戻るひとや短期留学に出発するひと、家族旅行。わたしとチカちゃんはお盆休み以外は全部登校予定。そして、梨杏が言っているのは……。
「その日は、あたしとチカちゃん?」
「と、あたし。だから智菜が休んでくれれば」
「梨杏と……チカちゃん?」
「そう」
「ああ、そうだよね。……え?」
意味するところを理解した。つまり、わたしが休めば生徒会室には――。
「ねえ、ダメ?」
梨杏がアイスをベンチに置いて、わたしに向かって両手を合わせる。でも、彼女の計画が上手く行かないことをわたしは知っている。板挟みになったわたしの鼓動が大きくなった。
「お願い。野上くんとゆっくり話したいの。こんなチャンス、なかなかないんだもん」
「あの、でも」
「智菜と野上くんはただの幼馴染みなんでしょう? 悩む必要ないでしょう?」
ここまで強引なことをしようなんて。その覚悟に尊敬の気持ちも湧いてくる。だけど。
知らんぷりしちゃえば?――と、頭の中で声がする。これは梨杏とチカちゃんの問題、わたしが間に入る必要はない、当事者が解決すればいい、と。
けれど、心が納得しない。このままだと梨杏の傷が深くなる。梨杏のことは苦手だけれど、傷付くのを黙って見ていることはできない。
「あの、チカちゃんのこと……本気?」
「うん。本気だよ、ずっと」
(ずっと……)
梨杏の声が頭の中にしみ込んでくる。それを感じながら、心を決めるために目を閉じた。
――言わなくちゃ。
目を開けると、梨杏はじっとわたしを見ていた。大きな瞳、やわらかそうな髪、すっきりとしたあごのラインにふっくらした唇。美人の梨杏。だけど。
「チカちゃんは…………無理だと思う」
梨杏の微笑みが消えた。次の言葉のために大きく息を吸う。
「チカちゃん……、彼女ができたから。この前」
一息に告げた。
いつも自信に満ちていた梨杏の表情が、みるみるうちに驚きに変わる。
「この前って、いつ……?」
「夏休みの前だって」
「夏休み前……?」
梨杏の視線がゆっくりと周囲をさまよい、最後にわたしに戻ってきた。
「もう2週間じゃない」
言葉も表情も、はっきりとわたしを責めている。
「そんなに隠してたなんて」
「隠してたわけじゃないんだよ。それに、あたしが聞いたのは1週間前で」
「だとしても、今週、言う機会はあったでしょう? あたしの気持ち、知ってたよね? なのに黙ってるなんて、ひどいよ」
「……ごめん」
だけど、梨杏はチカちゃんとばっかり話してたし、梨杏の気持ちだって確実に知っていたわけではなかった――と言いたい。けれど言っても無駄だという気がする。自分が伝える役目になりたくないと思っていたのは事実だし。
責められることはある程度は覚悟していた。けれど、やっぱりつらい。
「心の中で笑ってたんでしょう、あたしのこと。『どうせダメなのに無駄なことしてる』って」
「そんなことないよ。笑ったりなんかしてない」
「嘘。智菜があたしのこと好きじゃないって分かってたもん。あたしのこと馬鹿にして、上辺だけにこにこして」
ズキッ……と胸が痛んだ。梨杏の言葉が刺さって、何も言えなくなった。
「あたしのことなんか、誰も想ってくれない。みんな、どうでもいいって」
「そんなこと」
「あるよ」
強い視線がわたしを縛った。
「いい子ぶらないでよ。だから嫌いなのよ」
梨杏が立ち上がるのが見えた。スカートが揺れて……視界から消えた。




