46 これからが楽しみだ!
夕方に野上と別れてから、ちなちゃんのことをたくさん考えていた。野上がどんなふうに仲里とのことを伝え、ちなちゃんがどんな反応をするのか。それについて、俺にどう報告してくれるのか。
野上が仲里を選んだことを、ちなちゃんはきっと喜ぶだろう。すぐに報告しなかった野上に少し文句を言うかも知れない。表情豊かに野上と向かい合っているちなちゃんを想像するのは楽しかった。そしてあらためて思った。野上の言葉がこんなにも自分の心を軽くしたという事実を。
野上とちなちゃんの絆には理由がある。それを言葉で伝えられただけでこんなに違う。気にするのはやめたつもりだったけど、そうはいかなかったようだ。
今まで、思い出話ならいくつも聞いた。でも、ふたりの関係に関することに触れたのは今日が初めて。
「幼馴染みで同じマンションに住んでいるから一緒にいる」――野上は誰にでも同じように説明してきた。それが今日、初めて「理由がある」と言った。
具体的なことは何も分からない。それでもこんなに心が軽い。それは――。
俺が今まで拗ねていたからだ。
ふたりの “幼馴染み” という関係に嫉妬していた部分もある。俺の方が先に仲良くなったのに。俺が同じ小学校に通えていたら、今、隣にいるのは俺だったのに――と。でも、それよりも淋しく感じていたことがある。それは野上が何も言ってくれないことだった。
どんなに親しくなっても、野上はちなちゃんとの関係をただ「幼馴染みで同じマンションに住んでいる」と、つまり表向きの、誰にでもする説明で通してきた。
そのことに、俺はけっこう傷付いていたのだ。心の奥底に「本当にそれだけなのか?」という問いを閉じ込めながら。
だから、理由があると告げられたとき、とてもほっとした。孤独感から解放された。たった一言であっても。
野上は俺を信用してくれていると信じることができた。野上とちなちゃんの関係も、素直に受け入れられた。
ふたりはただ一緒に育ってきただけじゃなかった。絆を深める何かがあった。それは、野上がちなちゃんを「自分の良心」と言ったこととも関係があるのかも知れない。
そして、それは野上とちなちゃんだから起こったこと。俺との間では起こらなかったかも知れないこと。あるいは俺が一緒にいても、野上とちなちゃんの間に起こったかも知れないこと。
だから、仕方がない。
過去の出来事を恨んでも意味が無い。小学校が違ってしまったこともそうだ。
俺は初恋のちなちゃんと9年間別々に過ごし、二度と会えないだろうと思っていたところで再会して一層好きになった。保育園時代のちなちゃんもかわいかったけど、今のちなちゃんはもっと素敵だ。可愛らしさを残しつつ、他人の身になって考える姿勢を持ち、おっとりした雰囲気の一方で、自分に向けられる悪意を受け流す強さもある。
一緒に成長してこられなかったことは残念だけど、再会してから思い出もできた。信頼関係も築けた。だから。
俺とちなちゃんは、これからいろいろなことを一緒に経験できる。
そう思うと力があふれてくる。彼女にふさわしい存在になろうという決意が湧いてくる……なんて思えるのは、やっぱり野上がちなちゃんの彼氏にはならないとはっきりしたせいなのかな。
ちなちゃんから電話が来たのは夜の10時近かった。野上が帰っていったという報告のあと、野上が仲里とのことを黙っていたことについて、少しだけ文句を言った。でもすぐに、『結果には何も不満はないけどね』と明るい声が聞こえた。
『チカちゃんとミアも、今ごろ電話で話してたりしてね?』
くすくす笑いが混じった言葉にドキッとした。野上と仲里は今や恋人同士であり、つまりその会話もそれなりの雰囲気であり、それと同じように自分たちも――という連想が電光石火の速さで浮かんだから。そして、野上と仲里が俺に協力すると言ったことも。
「野上と仲里って、ふたりだけのときはどんななんだろうな?」
親密な雰囲気を出したいと思うけれど、そのための話題は思い付かず、結局は照れくさいということもあり、とりあえず旬の話題で話をつなぐ。考えてみたら、遊びに行く計画が決まった今は、俺とちなちゃんには話し合うべきことなど無い。でも、ちなちゃんとは1秒でも長くつながっていたい。
『ミアはあんまり変わらないと思うけど……』
「仏頂面?」
『あはは、違うよ。あたしと一緒のときと同じってこと。でも、ちかちゃんは違うかも』
「どんなふうに?」
『ちょっとデレデレしてるとか』
「野上が?」
想像したら笑ってしまった。にやにやと締まらない顔をした野上なんて!
「見てみたいなぁ」
『ふふ、今度のお出かけのときに見られるかもよ?』
「うん、そうだ。証拠写真を撮ってやろう。ははは」
笑いながら気付いた。もしかして、今の俺も?
そう言えば、野上も仲里も、俺がちなちゃんを好きだと知っていた。つまり、俺の気持ちは態度に出ていたってことだ。俺がちなちゃんと一緒にいると嬉しいってことが。
思い出してみると、あの試合の日、俺は確かにデレデレしていた気がする。変則玉入れの実験のときも、一緒に帰った日も、教室や廊下で話しているときも。
なにしろ教室で目が合っただけで嬉しくて、それを宮田に見破られているのだ。長い時間一緒にいたら、もっとよく分かるに違いない。
ちなちゃんにも伝わって……と考えてドキッとした。でも、そんなはずはないとすぐに思い直した。伝わっていたら、ちなちゃんはもう少し違う反応をするんじゃないだろうか。
『あの、水澤くん』
ちなちゃんの少しあらたまった声がした。
『おととい、話を聞いてくれてありがとうね。あのとき、ちゃんとお礼言うの忘れちゃってた』
「え、いや、お礼なんてべつに。逆に飲み物もらっちゃったし……」
やっぱりちなちゃんは分かってない。俺はちなちゃんに会いたいから行ったのに。ちなちゃんに会うことは俺にとって喜びなのに。
(ちなちゃんは――そうじゃないの?)
のどまでせり上がってきた言葉をぐっと飲み込んで、気軽な話題に移る。
「だけど、仲里が海がいいって言うなんて、意外じゃなかった?」
『あ、うん、そうだよね。外は嫌なんだと思ってた』
「だろ?」
さっきの話し合い。俺と野上が考えた候補の中から仲里が海を選び、それに決まったのだ。
ただ、海と言っても海水浴じゃない。海水浴場のあたりに行って、砂浜を歩いたり、景色を眺めたりしたいらしい。ぎりぎり足先だけ波に濡らすのはいいけれど、短時間で、絶対に水着にはならない、日焼けが嫌だから、と言っていた。とりえあず「夏の雰囲気を味わいたい」のだそうだ。
『あたしは海で泳ぐのは怖いから、ちょうどよかったよ』
「怖い?」
うちは夏の家族旅行は海が多かった。波で遊ぶのはとにかく楽しかったという記憶しかない。年の離れた兄と一緒に大騒ぎしていた。
『浮き輪をはめて波に揺られて遊んでたらね、急に大きな波が上からザッパーン! って来て、ものすごい勢いで波の中をごろごろ転がっちゃったの』
「浮き輪をはめたまま?」
『そう。浮き輪があったから余計に波の力を受けたみたいで』
「ああ」
確かにそういう可能性はありそうだ。
『どうにか起き上がったときに目の前に海がずーっと見えてね、“もしも引いて行く波につかまっちゃったら、どこまでも流されちゃうんだ” ってぞっとしたの。波の力の強さを身をもって体験したから』
「なるほど。でもそれ、小さい時の話だよね? 今なら平気じゃない?」
いつか一緒に海に行けたら楽しいと思うけど……。
『そんなことないよ。それ、中一のときだもん』
「え? 中一?」
『そう。身長は今と3センチくらいしかしか変わらないよ。それでもそんなことになるんだよ』
「それは……怖いね」
『でしょう?』
これじゃあ、ちなちゃんと海に行くのは一生無理かな。でも、プールなら行けるかも!――いつか。
それからも他愛ない話をして電話を終えた。最後に「おやすみ」と言い交わして電話を切るときは名残惜しくて、ちなちゃんも同じように感じてくれていたら、と願った。
盛りだくさんだった一日を思い出しながらベッドに入った。なんだか一気に事が進んだような気がする。
野上と仲里の仲が確定したことで、生徒会内の人間関係がすっきりする。ちなちゃんの憂いも消える。
想いが届かなかった志堂のことは気の毒に思うけど、そういうことはよくあることで、みんなそれを乗り越えているのだ。あの気の強そうな志堂が乗り越えられないはずはない。
(良かったね、ちなちゃん)
俺はほとんど役に立たなかったな。
でも、話を聞いたことにお礼を言ってくれた。だとしたら、そんなに役立たずでもなかったのかな。
(あ……、そうか)
野上と仲里がまとまったのだから、今度は俺の番じゃないだろうか。俺とちなちゃんの。
遊びに行く日に、もしかしたらチャンスがあるかも。




