42 夏休みの校舎
太陽が照り付ける中庭から校舎に入ると、真っ暗で何も見えなかった。一瞬後、暗さに慣れた目に、並んだ下駄箱のはずれで手を振っているちなちゃんが見えた。
今日の部活は午後からで、その前にちなちゃんと会うことになっている。
ちなちゃんから連絡があったのはきのうの夜。ご機嫌うかがいの言葉で始まったメッセージの終わりに、ほんのおまけのように、生徒会の内部で面倒が持ち上がりそうで心配だと書いてあった。
俺はものすごく嬉しかった。連絡が来たこともそうだけど、彼女が心配ごとがあると打ち明けてくれたことが。だってそれは、俺を信頼してくれている証だから。
そして同時に心配になった。ちなちゃんが志堂に何かされているのではないかと。
夏休みも生徒会はほぼ毎日登校している。九重祭の準備で実行委員との打ち合わせがあったり、学期中には時間が足りなくてできない仕事を片付けたりするそうだ。当然、学期中よりもメンバーで顔を合わせている時間が長いわけで、人数の少なさは苦手な相手との関わりが濃くなる原因でもある。
俺はその場で電話をかけ、ちなちゃんに大丈夫なのかと尋ねた。電話は予想外だったらしく、あわてた彼女は俺に心配させたことを謝るばかりだった。それほど深刻な状況ではなかったらしい。
でも、実を言えば電話をかけようと思った時点で、俺の頭の中には「これを理由にして会えるかも」なんていう期待が芽生えていた。だから「話を聞くよ」と持ち掛けて、俺は部活前に早めに登校し、野上に知られたくないちなちゃんはその時間に自販機に飲み物を買いに来て “偶然” 俺に会うという約束を取り付けたのだ。
数日ぶりに会うちなちゃんは記憶にあるよりもずっとかわいらしかった。笑顔も、手の振り方も、メガネを直す仕草も。あいさつしようと口を開いたものの、待ち合わせをしたことが予想を超えて照れくさい。それでもどうにか言葉を絞り出した。
「なんか……、元気だった?」
言ってから自分でがっかりした。きのうの夜に心配事があると聞いたのに、「元気だった?」はものすごく間抜けだ。
「うん。健康が取り柄だから」
俺の間抜けな質問にも笑顔で答えるちなちゃん。そののんびり、おっとりした雰囲気こそが彼女だとしみじみと癒された。
「もしかして、急いで来た? 暑い中、ごめんね」
俺の汗を見てちなちゃんが言った。
「いや、べつに急いだわけじゃないよ」
吹き出す汗を拭いながらこの猛暑を恨む。せっかくちなちゃんとふたりで話すのに、汗ダラダラなんて残念すぎる!
「会って話そうって言ったの俺だし、どっちにしても部活で来るんだから同じだよ」
でも、もっと爽やかな姿で会いたかった!
…なんていう気持ちはすぐに吹っ飛んだ。ちなちゃんが俺のためにペットボトルを買っておいてくれて、不意打ちでそれを俺の頬に当ててくれるという事件で。「ほら」「うわ、冷た!」なんていうやり取りは、嬉しさと恥ずかしさが入り混じってなんとも言えない!
「水澤くん、何分までに行けばいいの? 着替える時間も必要だよね?」
ちなちゃんが時計を見て仲良しタイムは終了。
時間を確認しているあいだに、校舎内で活動する部活の生徒がぽつぽつと通り過ぎていく。それが浮かれていた俺の心を静めてくれて、ちなちゃんの話を落ち着いて聞く準備ができた。
「生徒会で何かあったの?」
もらったペットボトルを開けながら尋ねると、ちなちゃんが迷った。なので、俺の方から訊いてみる。
「もしかして、志堂のこと?」
ちなちゃんはじっと俺を見上げ――彼女はときどきこんなふうに真っ直ぐに俺を見上げることがある――てから「分かる?」と言った。やっぱりそうなのだ。
「うん、まあ……、この前の感じで」
あの集会の日。あれはかなり嫌な感じだった。
「べつにいつもあんな感じってわけじゃないんだけど……」
ため息を一つついてから、ちなちゃんが続ける。
「ちょっと面倒なことになっててね、そのことばっかり考えちゃって」
「嫌味言われたりしてるの?」
「それは……なるべく離れてるから、それほどでも」
やっぱりあるのだ。でも、心配事は別なことらしい。
「じゃあ、生徒会の雰囲気が悪いとか?」
野上の愚痴を思い出して尋ねた。志堂の発言でみんなが何も言えなくなったと野上は怒っていた。
「ああ、まあ雰囲気は……そうだね、あたしが勝手に気にしてるだけかも知れないけど」
「生徒会は人数が少ないからなあ。チームワークを乱すメンバーがいるとつらいな」
「チームワークか。確かに」
ちなちゃんがうなずいた。
「でも、梨杏の気持ちもちょっと分かるから、難しくて」
やっぱりちなちゃんだ。迷惑だと思っていても、相手を悪いと決めつけないところがさすがだ。
「まあ、実際に大変なのはあたしよりもちかちゃんだしね」
「野上?」
「うん。梨杏の相手を一番してるから」
「ああ、生徒会長だもんな」
「それだけじゃないんだけどね……」
どうもちなちゃんの歯切れが悪い。
「何かほかの理由があるの?」
俺の質問にちなちゃんは苦しそうに「うーん」と声を漏らした。それほど言いづらいことなのか。
重ねて訊くべきか「言わなくていい」と言うべきか迷っていたら、ちなちゃんが心を決めた様子で顔を上げた。
「これは、はっきりと言われたわけじゃないんだけどね」
つまり他言無用なのだと理解してうなずく。ちなちゃんは一歩体を寄せて背伸びをした。体を傾けた俺の耳にちなちゃんが口を寄せる。
腕に触れるちなちゃんの制服にドキドキする。ほっぺにキス――という言葉が頭をかすめた。
「梨杏はね、たぶん、ちかちゃんに自分を見てほしいの」
ちなちゃんの囁き声。
「見て? ああ! つまり、んむ」
息ができない! と思ったら、タオルで鼻と口をふさがれていた。ちなちゃんが、手に持っていたタオルを押し付けたのだ。
サッと目配せしたちなちゃんの向こうをブラバンのTシャツを着た一年生がにぎやかに通り過ぎていく。彼らがいなくなったのを確認してから手を離してくれたちなちゃんに「ごめん」と謝った。
「志堂は野上が好きなんだな?」
今度は小声で尋ねる。首を流れる汗に気付いて、申し訳なくてちょっとだけ体を引いた。
「うん。たぶん」
ちなちゃんが真剣な顔でうなずいた。
「で、野上のまわりをうろちょろしてる」
「まあ、そんな感じ」
「なるほど」
これで志堂がちなちゃんにあんな態度をとった理由が分かった。志堂はちなちゃんが邪魔なんだ。あるいはやきもちを妬いている。そして、ちなちゃんを追い払おうとしている。もしかしたら、あのネットの悪口も、仲里の読みどおり志堂のしわざなのかもしれない。
でも、逆じゃないだろうか。野上がちなちゃんを大事に思っているのだから、志堂もちなちゃんと仲良くすべきなのに。
考え込む俺たちの前を見覚えのある女子の集団が手を振って通り過ぎた。あいさつを返すちなちゃんに、俺と一緒のところを見られて恥ずかしいという様子はない。……残念だ。
「野上は? 分かってんの?」
「どうかなあ。この前は梨杏のこと怒ってたけど、あれから梨杏の話はしてないの」
「ああ、あのときの野上、相当怒ってたな」
電話で話を聞きながら、ここまで怒る野上は初めてだなあ、なんて思っていた。
「そう言えば、水澤くんもちかちゃんの愚痴を聞いたんだったね」
「うん。あの様子だと、志堂に望みは無さそうだな」
「やっぱりそんな気がするよね……」
気がするどころか確信だ。志堂があれを挽回して “彼女” という特別席に座るのは、奇跡でも起きない限り無理だと思う。
「それに野上は仲里が好きなんだから、そもそも無理だろ」
「それなんだけどね」
ちなちゃんが眉を寄せて見上げる。
「あたしたち、ちかちゃんから直接は聞いてないでしょ? 間違いないと思う?」
「はは、あれは間違いないよ」
今までの野上の様子なら、絶対に間違いない。
「それじゃあ、ミアと上手くいくと思う?」
今度は少し考えた。俺が受けた印象を思い出しながら。
「うん。俺はかなり有望だと思ってる」
「そう……」
ちなちゃんは前を見つめて何かを考えている。そして。
「水澤くんだから話すんだけど」
「うん」
「ミア、誰か気になるひとがいるって言ってたの」
「え、いつ?」
仲里に気になる誰か? あいつが恋をしている? それ自体が驚きだ。
「ゴールデンウィークより前だったと思う」
ゴールデンウィーク前……。
「だからちなちゃんは最初、あの計画に乗り気じゃなかったんだ?」
「うん、そうなの」
野上と仲里の仲を取り持とうと言ったとき、わざとらしいことはしないと約束させられた。その理由はこれだったんだ。
「ただ、ミアもちかちゃんを気に入ってる可能性も無いとはいえないし」
「うんうんうん、そうだよ。俺はその可能性はかなり高いと思う」
「そう?」
「だって、野上には笑顔見せるだろ? 俺のことはひたすら蔑んでるけど」
仲里の名前で思い浮かぶのは必ず不機嫌な顔だ。野上と笑顔で話している仲里が不思議に感じるほどに。
「蔑んでるって……ふふっ」
「本当だよ。ちなちゃんだって見てるだろ?」
「まあね」
「仲里が俺に笑いかけたら天変地異の前触れだよ」
「そんな、あはは」
ちなちゃんが笑うと俺も楽しい気分で口が滑らかになる。
「ねえ、また計画しようか」
「計画?」
「4人で出かけること」
ずっと心にあったことを思い切って言えた。
「土日は生徒会は無いんだろ? 剣道部の休みもあるし、あとは仲里の予定を訊いて」
「そうだね……」
「夏休みっぽいことを何か、どう?」
考えているちなちゃんを見て思う。今度は試合の日よりも積極的に行こうかな、と。
そのためには野上と話をした方がいいかも知れない。その方がお互いにより有意義な時間を過ごせるんじゃないだろうか。




