35 野上の苛立ちと良心
『生徒会であんな雰囲気になったのは初めてだよ』
スマホの向こうから野上のため息が聞こえてきた。
野上から電話が来るのは久しぶりだ。嬉しく思いながら電話に出たら、今日の生徒会の愚痴だった。後夜祭の出し物を決めようとしたら、出てきた提案を志堂が独断で却下したという。その態度に生徒会のほかのメンバーは何も言えなくなってしまったそうだ。
『笑顔なんだけど、相手が反論できないような言い方をするんだ。俺、そういうの嫌なんだよ。イライラしちゃったよ』
話を聞きながら、俺はそのときの志堂がどんな様子だったかありありと思い浮かべることができた。親切そうな微笑みで相手を見つめ、まるで先生か親が子どもに言い聞かせるみたいに、だ。
「はは、野上がイライラしたって言うんじゃ、よっぽどだな」
九重高校に入ってからずっと付き合ってきたけど、野上が誰かに対して嫌な顔をしているところなんて見たことがない。いつも一歩引いた穏やかな対応で、俺は「大人だなあ」と感心していたのだ。
『ほんとに嫌な感じだったんだよ。ああいう “自分はなんでも分かってる” みたいな言い方、すごく腹が立つ。みんなを馬鹿にしてるよ』
野上の不機嫌はなかなか収まらないようだ。
「一年のときもそんなふうに感じたことがあったよ。野上は覚えてない?」
『志堂さんのことは真面目な印象しか残ってないんだ。あんまり話したこともなくて』
「ああ、そうか。俺は席が近かったことがあるからな」
志堂は目立つ生徒ではなかったから、接点が無いまま終わったクラスメイトも多かったと思う。でも、控えめな性格というわけでもなかった。
「まあ、基本は “真面目” だよ、確かに。それはいいんだけど、融通が利かない感じかな。俺はちょっと苦手だった」
『何か言われたとか?』
「俺のは小さいことだけ。でも、いつも正しいことを真っ直ぐぶつけてくるから、なんて言うか……逃げ場がない感じ?」
『ああ、分かるな、それ』
一呼吸おいて、野上が続けた。
『でも、今日のは “正しいこと” じゃなくて、自分の都合がいいように、正しそうな理屈をこじつけてるだけだったよ』
「そうか。そりゃあ、腹も立つな」
こじつけだなんて、けっこう辛辣だ。野上はほんとうに腹を立てているらしい。俺が話を聞くことで野上の気持ちが落ち着くならいくらでも聞いてやる。そう思っていると、また野上のため息が聞こえた。
『うちの生徒会は、いつも自由な雰囲気で話し合うのがいいところだったんだよ。何かを決めるときにみんなが黙っちゃうなんて、今まで無かったんだ。なのにさあ……』
「ちなちゃんは?」
心配になって尋ねてみた。もしかしたら攻撃されたのではないかと。
『頑張ってくれた。俺が機嫌悪かったから』
野上の口調がやわらかくなった。
『俺だって、露骨に嫌な顔なんかしてないよ? でも、ちなちゃんには分かるんだ。で、俺の代わりに志堂さんの相手をしてくれて』
「そうか」
ここぞというときには苦手な相手にも向き合える。ちなちゃんにはそういう強さもあるのか。
『みんなが黙っちゃったから、ちなちゃんが気を遣って志堂さんに訊いたんだよ、何か案があるのって。そしたら校歌って言うんだよ』
うんざりした様子が伝わってきた。
「え? 校歌?」
校歌って、学校のあれだろうか。それを……?
『そう。俺たちがステージに並んで校歌を歌うんだって。それに合わせて全校生徒が一緒に歌ったら感動的だろうって』
「えぇ? みんな歌うかなあ?」
『歌わないよ』
野上が一言の下に否定した。
『だって、生徒会はみんなを笑わせて盛り上げるのが恒例で、みんなもそれを期待してるわけじゃないか。そこにぞろぞろステージに上がって校歌を歌うだけじゃ、野次は飛ばしても歌ってはくれないよ』
確かにその可能性の方が高そうだ。
『それにさあ、俺たちがトリじゃないんだよ? 次に軽音がミニコンサートをやるだろ? その前に生徒会が歌う校歌なんか聞きたいヤツいると思う? さっさと終わらせろって思われるに決まってるよ』
「まあ、そうかもな」
『後夜祭のステージは俺たちにとっても年に一度のお楽しみみたいなもので、ちょっとふざけたりしたいんだ。引退した先輩たちも楽しみにしてるんだよ。なのに校歌を歌うだけなんて面白くないし、企画の手抜き感が半端ないだろ? 先輩にも顔向けできないよ』
「うん、そうだな」
野上のもんくが止まらない。本当に、こんな野上はめずらしい。
去年の盛り上がり――あのおふざけを生徒会がやったということそのものが可笑しかった――を思い出すと、校歌の合唱は俺もがっかりだ。
『そういうことが頭にいっぱい浮かんできて、口に出さないようにするのが大変だったんだ。あの気分で何か言ったら攻撃的な口調になるに決まってるから』
「黙っていられて良かったなあ」
『ちなちゃんのお陰だよ』
野上の声がしみじみとしたものに変わった。
『ちなちゃんがフォローしてくれたから。ちなちゃんがあきらめないで頑張ってくれて、志堂さんのアイデアに質問しながら時間を稼いでくれたんだ』
「そうか。ちなちゃんらしいなあ」
『うん。ちなちゃんがいなかったら、俺、志堂さんに怒鳴っちゃってたかも知れない。偉そうな態度が許せないと思ってたから。怒鳴るまではいかなくても、きつい言い方をするとか』
「うーん、野上が大きな声を出すとか、想像できないけど」
そう言うと、野上は笑った。
『はは、最近は怒鳴ることなんて無かったからなあ。下手に怒鳴ったら収集がつかなくなってたかも』
明るい声が聞こえてきて、俺もほっとした。
「それで、結局どうなったんだ? 企画は決まったの?」
『いや、明日に持ち越すことにした』
きっぱりとした口調に野上が自分を立て直したことを感じる。
『話し合う雰囲気じゃなかったし、俺も怒鳴るのは抑えたけど、志堂さんに腹が立ってることに変わりなかったから、仕切り直さないとダメだと思って』
「そうか。うん、それで良かったんじゃないか?」
『うん。これもちなちゃんが『いつまでに決めればいいの?』って、助け舟を出してくれたからなんだ』
ここでもちなちゃんだ。クラスではおとなしい彼女は、生徒会では頼りになる存在なんだ。
それに、このセリフには生徒会長である野上に対していろいろな配慮が詰まっている。野上もそれをちゃんと受け取って。
――いいコンビなんだな。
微かな嫉妬が胸の中を通り過ぎた。
『ちなちゃんはこういうときにすごく頼りになるんだよ。困ったときに、どうすれば解決できるのか見通しを立てられるひとだから』
「じゃあ、生徒会は大丈夫だな」
『そう。ちなちゃんが俺に付いていてくれる限り』
俺が取っちゃうかもよ、と心の中で言ってみる。でも、今は生徒会の話だ。野上が言っているのは生徒会の仲間として必要としているという意味だ。
そう自分に言い聞かせながらも、野上とちなちゃんが並んで歩いている姿がくっきりと頭に浮かぶ。
傘をさしたふたりが真面目な表情で言葉を交わし、ときどきくすくす笑う。その様子に胸がちくりと痛む。信頼と安心に満ちたふたりの関係は――幼馴染み。
『ちなちゃんは自分からは前に出ないけど、みんなのことをよく見てて、感情とか性格とか、すごく感じ取るんだ。でも、自分の気持ちは言わないで、公平な意見を言ってくれる』
確かにそうだった。今日も奥津たちに同情して、シナリオを変えてもらえるように一緒に行ってほしいと言われた。自分がやられていることなど忘れたように。
『だから信用できるし、本当にありがたい。ちなちゃんのお陰で俺は生徒会をやっていけてるんだなあって思うよ』
「そういう……相棒と仕事ができるって、恵まれてるよな」
野上とちなちゃんの関係を表わす言葉に一瞬詰まった。「幼馴染み」は使いたくなくて、「友達」ではふたりには遠すぎる。
『相棒……、そうだな、確かに。でもそれよりも、俺の良心かな』
「良心?」
『そう。判断の基準、みたいな。ちなちゃんに判断してもらうっていう意味じゃなくて、ちなちゃんの存在そのものが』
「存在そのものって」
その言葉を軽く流せない。野上にとってちなちゃんがどれほど大きな存在なのかと――。
『生徒会だけじゃなくて、今、俺がこうやっていることも、ちなちゃんのお陰なんだ。ちなちゃんがいなかったら、俺は他人に迷惑をかけて、嫌われたり避けられたりする人間になっていたと思う』
他人に迷惑を? 嫌われたり避けられたり? 野上が?
思いがけない野上の言葉が耳に残る。
『だから信用してる。そして、ちなちゃんに心配させるようなことは絶対にしないって誓ってる。そんなふうに……大事なんだ』
電話の向こうから、野上がちなちゃんを大切に思う心が押し寄せてくるような気がした。
それらの言葉は野上の心の深いところから湧き上がってきた想いそのもののように胸に響いた。そしてそれは “幼馴染み” という言葉ではくくりきれない重みを持っているような気がして……気付いたら息を詰めていた。
「うん……そうか」
それ以上、何も言えなかった。
電話が終わってから考えた。「大事」って、どんな意味なんだろう、と。
野上が仲里に恋をしていると思ったのは勘違いだったのだろうか。ちなちゃんの存在は仲里よりも大きいのだろうか。そして。
ふたりの間にどんなことがあったのか。
ただ一緒に育ってきただけじゃないような気がする。ふたりの絆を強固にする何かがきっとあったのだ。無条件に相手を信じることができるほどの何かが。
進んだと思っていたちなちゃんと俺の関係も、野上の前では薄っぺらい紙切れのように思えて……、そっとため息をついたらひらひらと舞って床に落ちた。




