02 野上とちなちゃん
初日の帰り道で、ふたりは彼氏彼女の関係ではないと宣言された。そういう誤解とからかいはやめてほしい、と。野上からきっぱりと。
そして、自分たちは「幼馴染み」なのだと説明された。小学校入学以来の「ただの」幼馴染み。
―――ああ、俺じゃないんだ。
心の中でぽつんとつぶやいた。あのときの淋しい気持ちは忘れられない。
野上が俺に気を遣わせないように言ったのだということはちゃんと分かった。けれど、俺はちなちゃんと俺の関係を無かったものにされたように感じてしまったのだ。
その説明のとき、ちなちゃんはただ控えめに微笑んでいた。野上に話を振られると簡単に肯定や否定をするだけで。そんな態度は、彼女の記憶の中に俺がまったく存在しない証拠だ。彼女にとっての「幼馴染み」は野上のことなのだ。
俺は感動の再会をひたすら想像していた自分の単純さに呆れて笑うしかなかった。
ふたりが恋愛関係に無いということについては、納得するのに少し時間がかかった。
だって、彼らは朝も帰りも一緒なのだ。行事があるときも欠かさず。そして、「ちかちゃん」「ちなちゃん」と呼び合っている。それは仲が良すぎるのではないだろうか。
いくら同じマンションに住んでいて、ふたりとも部活に入らずに生徒会役員になったからと言っても。小学校入学以来の友だちだったとしても。思春期を迎えると、異性と一緒にいることに抵抗や気恥ずかしさを覚えるものなのではないのだろうか?
でも、最終的には納得するしかなかった。
一緒にいるときの態度があまりにもさっぱりしているし、誰かにからかわれて否定するときも、過剰にムキになることも無い。休日に会っている気配も無い。そんなふたりをそれ以上疑うのは無駄なことだ。
だから……ちなちゃんはフリーだ。
そう納得できたなら、俺が名乗り出てもかまわないはずだった。俺が「もしかして、△△保育園じゃなかった?」と言ったら……という想像が何度も頭の中をよぎった。保育園が同じだったことくらいは普通の話題の範囲だとも思ったし。
けれど、言い出せないまま一年が過ぎた。
登下校時に一緒になることも――隣駅だし、彼女が野上と一緒にいるから――けっこうあり、少しずつ話もできるようになったにもかかわらず。
彼女が俺を覚えていないことにこだわって。
あの約束の1か月後には、野上が彼女の「ちかちゃん」になっていたことにいじけて。
そして……、自分が野上に負けているという劣等感で。
そう、負けている――男として。この敗北感はわりと大きな原因だ。
俺にはもともと特別な資質など無い。勉強もスポーツも性格も「そこそこ」という範囲に収まっている、本当にありきたりな十代男子だ。でも、今まで他人と比較して落ち込んだことは無かった。
誰かが模試で一番の成績を取ったとか、彼女ができたとか、部活で入賞したとか、友人を羨ましいとか「すごいな」と思ったことはあった。でも、それらはそれとして、俺は自分に満足していたのだ。
けれど、今回は違う。
野上のことは好きだけど、ときどき自分との差が気になる。言葉遣い。気配り。生徒会の経験も。授業が始まってからはその賢さも。ただの立ち姿までもがスマートに見える。そして、ふとしたときに、自分が張り合っていることに気付いたり、自分が敵わないことに落胆したりする。
―――こんな俺じゃダメだ。
夏になる前にはあきらめの気持ちが優勢になっていた。
だって、ちなちゃんはずっと野上と一緒だったのだ。ちなちゃんにとっては野上が男の標準に違いない。
それに、彼女も野上と一緒に生徒会役員になってしまった。
普段は内気なちなちゃんが壇上で堂々と演説する姿に俺はショックを受けた。隠されていた本当の姿を見せつけられたようで。なんだか彼女だけが順調におとなに向かっていて、自分は子どものまま成長が止まっているような気がして。
―――今さら俺なんかが名乗り出ても、彼女が戸惑うだけだ。
クラスでも部活でも目立たない俺。その他大勢の一人。そんな俺と保育園で仲が良かったことが、彼女にとって何の意味があるのか。
しかも、説明しても思い出してもらえない可能性だってあるのだ。そんなことになったらますます淋しい。
さらにもう一つ、致命的な問題があった。それは……、俺が恥ずかしがり屋だったということだ。
今まで目の前の女子には興味が無かったから気付かなかったけれど、ちなちゃんとは目を合わせるのが恥ずかしい。
幸いクラスが違うから、彼女との接点は野上が一緒のときに限られた。……と言うか、俺だけのときには彼女を避けていたという方が正しい。
とは言っても、野上とは入学当初の予感どおり一番仲良くなり、しかも、野上はちなちゃんと一緒に俺の隣駅からの電車通学だ。だから、俺が彼女と話す機会は少なくなかったというのが本当のところ。でも、野上がいてくれれば、ちなちゃんと直接向き合う必要がなくて安心していられた。
そんな状態で、俺はちなちゃんへの気持ちをぐずぐずと抱いたまま一年を過ごしてきた。
何度もあきらめようかと考えた。でも、思い切れなかった。だって……。
俺を見上げる穏やかな瞳。そっと尋ねるように首を傾げるしぐさ。夏の暑さに上気した頬。雪の日にマフラーにあごをうずめる様子。どんな瞬間も記憶に残ってしまう。
ときどき見せる大人びた表情と話し方。言葉少なにぽつりぽつりと失敗を話しながらしょんぼりする姿。納得できないことに腹を立てて引き結んだ口許――そう、彼女はなかなか頑固なところもある。
彼女に「水澤くんは…」と話をふられるたびに、一抹の淋しさを感じつつも胸が温かくなる。俺の話で笑ってくれたりすると、嬉しくて俺も笑いがあふれてくる。彼女とならこの先ずっと楽しく過ごせるんじゃないか、なんて思ったり。
でも……前に進む勇気が出なかった。
立ち往生する自分に、これは本当に恋なのか、と問いかけたりもした。単なるロマンティックな思い込みなんじゃないだろうか、と。
懐かしさを恋だと勘違いして、偶然の再会を運命だとこじつけて、「彼女が欲しい」という本能的な欲求をカッコ良く飾り立てているだけなのではないか……と。
一人で落ち着いているときにはこの考えは有効だ。簡単に納得できる。でも、だからと言ってほかの女子にときめきは感じないし、彼女に会えると胸の中で鳥が羽ばたいているみたいで……。
そんな不安定な心理状態で、野上がいるから安心して彼女と接することができていた。でも、これからは。
(同じクラスか……)
野上は隣の2組だ。緩衝材的存在が無い状態でちなちゃんと向き合わなくちゃならない。
どのくらいの距離を保てばいいんだろう? うっかり「ちなちゃん」と呼んでしまったらどうしよう? この一年、これを口にしないために、彼女に何かを言うときには呼びかけないで済むような言い方を選んできたのに……。
不安だ。でも、期待がもこもこと胸の底を持ち上げてくるのも確かだ。もしかしたら保育園時代のように、特別に仲良くなれるかも。そして、ちなちゃんが俺を一番に思うようになってくれるかも――。
「おっはよ! 剣道部、おそろいで」
集まっていた剣道部の友人たちの後ろから野上の顔が割り込んだ。微かな後ろめたさが胸をよぎる。
「お〜、おはよ〜」
「お前は相変わらず爽やかだなあ」
「ああ、野上。俺、同じクラスだぜ」
あいさつを交わす隙に周囲を見回してみるけれど、一緒に来たはずのちなちゃんは見当たらない。もう校舎に入ってしまったようだ。
「綿貫と一緒かあ。退屈しないで済みそう」
「何言ってんだよ? 本当は水澤と離れて淋しいくせに」
野上は部活には入っていない。でも、俺を通してうちの剣道部員とも仲が良い。そして、野上と俺を恋人同士のように扱うのがうちの部員たちお気に入りの遊びだ。
「あ〜、分かる〜? そうなんだよ、なあ、水澤?」
「俺だって淋しいよ、野上〜」
「水澤〜」
「野上〜」
抱き合って泣きまねをする俺たちの周りで「暑苦しいぞ!」「浮気されるなよ!」と笑い声が上がる。俺も一緒に笑いながら、気になるのはやっぱりちなちゃんのことだ。
(俺がちなちゃんと仲良くなったら、野上はどう思うんだろう?)
彼女は俺のことを嫌ってはいないようだ。だとしたら……。
(あるのかも)
胸のあたりがざわざわする。
彼氏になるなんていうところまで期待するのはやめよう。でも、野上とちなちゃんみたいに、男女の親友だってあるわけだし。
(野上を見るみたいに俺のことを見つめてくれたら……)
信頼して、安心して、「この人がいれば何も心配いらない」みたいに微笑んで。そんな顔をされたら――。
(やっぱり嬉しいな)
ニヤニヤしてる場合じゃないのに。これじゃあ気色悪がられてしまう。まずは普通の友達になってから。でも……、もしかしたら……。
(運命の神様が俺を応援してくれてたりして?)
俺とちなちゃんは同じ高校に入学した。そして、入学した日に再会した。さらに今年は同じクラスになった。偶然がこんなに重なるなんてあるだろうか?
「ちなちゃんのこと、よろしく頼むよ」
教室に向かいながら野上が言った。
「ああ、まあ……俺で役に立てることならいくらでも」
(いいのか? 本当に)
野上の様子を確認してしまう。だってもしかしたら、野上からちなちゃんを奪うことになるかも……。
(っていうのはあり得ないよな)
二人の絆は簡単には切れないだろう。それを分かっていて野上は頼んでるんだろうし。
でも、頼まれたってことは、クラスでは俺に野上の役割を果たしてほしいってことだ。
つまり、俺は大手を振ってちなちゃんに近付いてもいいんだ。だけど。
(顔を見るのは簡単じゃないよなあ……)
どうして俺はこんなに恥ずかしがり屋なんだろう? それに、ちなちゃんだけに恥ずかしいってことは、やっぱり俺の気持ちは本物なんだろうか……。