18 ◇◇ 智菜:チカちゃんとの帰り道 その2
「何言ってるんだよ?」
強い声。チカちゃんが怒ってる。どんな顔をしてるのか、見なくてもわかる。でも、怖くは無い。チカちゃんがやさしいことを知っているから。
「だって、あたしがチカちゃんの自由を奪ってるんだったら申し訳ないよ」
「何だよそれ? 誰かに言われたの?」
「違うよ。さっき……、チカちゃんが水澤くんのこと気にしてたから……」
「え? 水澤のこと?」
「チカちゃんも彼女が欲しいんじゃない? だからミアと水澤くんのこと気にして」
そこでフッとチカちゃんが怒りを解いた。そして今度は苦笑い。
「そんなふうに思ったの?」
「違うの?」
「うーん、まあ、そりゃあ彼女は欲しいけど、誰でもいいってわけじゃないからね」
「そうだけど……、あたしのせいで出会うチャンスが減ってるかも知れないよ?」
チカちゃんが呆れたように首を振る。でも、思い切って続けた。
「チカちゃんと話してみたいって思ってる子がいるかもしれないよ? すごくいい子かも知れないよ?」
口に出したら止まらなくなった。いつも思っていたことだから。
「いつも一緒にいるあたしのことを、彼女と勘違いしてる子だっているかも知れないよ? それであきらめちゃってたらどうする? そんなの申し訳ないよ」
「智菜ちゃん……」
街灯の明るさにふと気付く。いつの間にか夜の景色に変わっている。チカちゃんの表情は穏やかで――。
「智菜ちゃんは……もうやめたいの、かな?」
落ち着いた声。いつもそばにいてくれた。
「そうじゃないよ。チカちゃんがいてくれるから安心して学校に通えてる」
「だったら」
「だけど、それでチカちゃんが不自由な思いをするのはいけないと思う。チカちゃんにだって、いろんなことを楽しむ権利はあるんだから」
「智菜ちゃん」
「あたしはチカちゃんの邪魔をしたくない。チカちゃんはもう十分やってくれたと思う。だから、あたしのことは気にしなくてもいいんだよ」
言いながらドキドキしてきた。ずっと考えてきたことだけど、実際に立ち向かうとなると、不安で胸がつぶれそうになる。
「智菜ちゃんは誤解してるよ」
静かな声がふわりと不安を払ってくれる。
「俺はべつに、今の状態が不自由だなんて思ったことはないよ」
「そう……?」
「面倒だとか、我慢だとか、そんなふうに感じたこともない。だって、同じマンションに住んでるんだよ? ただ学校に行って帰って来るだけじゃん」
「それはそうだけど……」
そっと見ると、チカちゃんはニヤッと笑った。
「俺、けっこう楽しんでるんだけどな、智菜ちゃんのボディーガード」
「ボディーガード……?」
「だって、そうだろ?」
「うん、まあ……」
そんなような意味ではあるけど……。
「最近、ネットの動画見ながら空手の練習もしてるんだ」
「え? 部屋で? 怒られない?」
うちはマンションだ。こんな大きな人が暴れたらうるさい。
「あはは、いくら何でもそこまでやらないよ。でも、ほら。構えはこう」
両手を拳にして足を踏ん張って、ポーズを見せてくれた。そんなチカちゃんに思わず笑ってしまった。
「わかった。もうしばらくは守ってもらう。ありがとう」
「そうだよ。おばさんにも約束したし、せめて高校を卒業するまではね」
お母さんのことを言われて、ほっとした胸がまた痛んだ。
「お母さんのことは……、もう気にしなくていいよ」
「そういうわけにはいかない。俺が決めたことだから」
「でも……」
チカちゃんの頑固そうな顔を見たら、言おうとした言葉が消えてしまう。その代わり、わたしの願いを伝えることにした。チカちゃんのやさしさにはその方が効果があると思ったから。
「あたしね、チカちゃんに我慢してほしくないの」
「智菜ちゃんと一緒にいるのは我慢じゃないよ」
「違うの。そういうことじゃなくて」
せっかくの機会。ちゃんと伝えなくちゃ。
「あのね、ほかにやりたいことがあるときもあるでしょう? そういうのを我慢してほしくないの。だって、我慢ばっかりしてたら、チカちゃんが壊れちゃうかも知れないでしょ? そうじゃなくても、我慢の原因のあたしを嫌いになっちゃうかも知れない。そういうのが怖いの」
「智菜ちゃん……」
「あたし、チカちゃんにはいつも楽しくしててほしいし、嫌われたくないの。だって、本当に感謝してて、とっても大事に思ってるから」
驚いてわたしを見ているチカちゃんを、今はまっすぐ見返して。
「だから絶対に我慢しないで。一緒にいることをやめたくなったり、休みたくなったら言って? そういうときは自分で何とかするから。チカちゃんが楽しくて元気でいることは、あたしのためでもあるの。だから、ね?」
「智菜ちゃん……」
最後まで言えてほっとした。今まで、どれほど感謝しているか伝える機会が無かったから。
「……わかったよ」
チカちゃんが微笑んで言った。
「我慢しないって約束する。それと、毎日を楽しく過ごす」
「うん」
「あと……大事に思ってくれてありがとう。俺にとっても智菜ちゃんは家族とおんなじだよ。今の俺でいられるのはちなちゃんのお陰だし」
「や、やだ、チカちゃん。あたしは何もしてないじゃん! あのとき助けてもらったのはあたしの方だよ?」
4年前の出来事。いくつかのことが重なって、結果としてわたしとチカちゃんは絆を深めた。
「見た目ではね。でも、救われたのは俺の方だよ。あれからずっと、智菜ちゃんは俺の心の支えになってくれてるんだから」
(チカちゃん……)
そんなふうに感じてくれているなんて知らなかった。わたしが一方的に負担を掛けているとばかり思っていたのに。
「あー…、もしかして、あたしの背が伸びないのは、チカちゃんがあたしを支えにしてるからかなあ? 自分ばっかりそんなににょきにょき伸びちゃってさ」
しんみりするのが照れくさくて、ふざけて言ってみる。するとチカちゃんも明るく言い返してくれて、ふたりで笑うことができた。
そう。わたしたちは本当に心から相手を信じて、心配して、幸せを願っている。チカちゃんが言うとおり、家族とおんなじなのだ。
そこでふと、チカちゃんが黙った。それから。
「うーん……、ちなちゃんがそこまで心配してくれてるんだったら、話しておいた方がいいかなあ……」
ためらいがちにそこまで言って、また黙ってしまった。
「話しにくいことだったら、無理に言わなくても……」
「うん、まあ……。いや、だけど、智菜ちゃんには知っておいてもらった方がいい気がする」
「そうなの? それなら聞くけど……」
チカちゃんの決心が固まるまで、そのまましばらく歩いた。そして。
「実は俺さあ……」
「……うん」
「気になってるひとがいるんだよね」
「え、そ、え? それって……好きなひとってこと?」
「うん……」
突然の打ち明け話。しかも、恋の!
「い、いたんだ? そういう人」
「うーん……、まあね」
「そ、そう。全然気付かなかったよ」
「はは、だよね」
「ええと……」
こういうとき、何を言えばいいのだろう? チカちゃんはどこまで話すつもりなのかもわからないし……って言うか、さっきはこういう可能性も考えたはずだったのに、こんなに焦っちゃうなんて!
「ああ……、相手は今はまだ……言う勇気が無いって言うか……」
「い、いいよいいよ、言わなくても。大丈夫だから」
わたしの方がドキドキしてるし。
「あの、でも、そしたら、いいの? そのひとと一緒に帰りたいとか、無いの? あたし」
「いや! いいんだ! 今のままで」
「でも」
「本当に。だって……、まだどうなるかわからないし。今のままの方がいいんだ」
「そう……?」
「うん。そうしてほしい。頼むよ。ね?」
こんなふうに頼むチカちゃん、久しぶりだ。今のままでいいっていうのは本心なのかも。
「それなら……いいんだけど……」
もしかしたら恥ずかしいのかな? チカちゃんは女子とも普通に話すけど、好きな子が相手だと違うのかも知れない。
「じゃあ……、気持ちが通じたら教えてね」
そのときは絶対に、わたしよりも彼女を優先するように言わなくちゃ!
「うん、そうする。あと、今の話は水澤には黙っててほしいんだけど」
「あ……、わかった。大丈夫」
仲が良くても言いづらいのね。でも、その心配は無い。こんなことを話せるほど仲良くなれていないから。
「うーん、上手く行ってほしいなあ」
今度はわくわくしてきた。チカちゃんに彼女ができるのかと思うと。きっと、すごく素敵なひとと素敵なカップルになるっていう予感がする。そうなったら嬉しいな!
「そればっかりは、俺の気持ちだけじゃどうにもならないからなあ……」
「そうだけど、チカちゃんなら絶対に大丈夫だよ! 断られるはずなんて無い。保証する」
「あははは、智菜ちゃんの意見は身びいきだから、当てにならないよ」
そんなことない。チカちゃんほどやさしくて強い心の人はいない。ずっと一緒にいるわたしが言うのだから間違いない!
(ああ、本当に良かった)
チカちゃんに好きなひとがいるということが。チカちゃんの心が自由だとわかったから。わたしがチカちゃんの自由を奪っていないとわかったから。
(いったい誰なんだろう?)
チカちゃんの想う相手って?
そのひとが、わたしのことも気に入ってくれたらいいな……と思うのは図々しいかなあ?
ゆっくりのんびりのお話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
ここまでで第2章「5月」は終了です。
次回から第3章「6月」に入ります。
引き続きお楽しみください。




