01 ちなちゃん
(同じクラス……?)
高校2年に進級した初日。昇降口前でもらったクラス分けのプリントを見て息をのんだ。
『2年1組』の枠の中。まん中よりちょっと上。
(小、坂、智、菜。やっぱり……そうだよな)
自分の名前を見間違えた可能性も考えて、もう一度、その列をたどる。
(……水澤力。やっぱりここにある……)
鳩尾のあたりが落ち着かない。これからの教室を想像すると――。
「水澤ー、何組?」
肩にかかった手に振り向くと、同じ剣道部の竹井だった。注意がそれたことに少しほっとした。
「1組。そっちは?」
「8」
「最初と最後か。離れたなあ。階も違う?」
「そうだな。ほかのヤツらは?」
一緒にプリントをのぞき込みながら、彼女の名前が視界の隅をかすめる。
―――小坂智菜。
やっぱり消えてない。
(こさか、ちな)
胸の中でそっとつぶやくと、いろいろな思いが湧いてきて絡み合った。
思い出の中の名前。ずっと会いたいと思っていた。けど……、この高校で再会してみたら、会わない方が良かったような気もして、この一年間、複雑な思いを抱えて過ごしてきた。
それは自分の性格のせいなんだけど……。
小坂智菜。彼女は「ちなちゃん」だ。保育園で一緒だった。
おとなしくて怖がりで、よくいたずらっ子たち――俺も含めて――にからかわれては泣きべそをかいていた。
でも、ちなちゃんが笑うと嬉しくて、俺はからかう回数よりももっとたくさん、彼女を笑わせようとした。そして……。
保育園最後の冬、俺は特別にちなちゃんと仲良くなった。
折り紙でぴょんぴょんガエルを何匹も作って、毎日飽きずに競争させた。誰かが加わることもあったけど、いつまでも飽きずに続けられるのは俺たちだけだった。俺はちなちゃんと二人だけのときが一番楽しかった。
卒園が近付いて、彼女とは違う小学校に行くのだと知ったときはとてもびっくりした。世の中に小学校がそんなにいくつもあるものだとは思っていなかったのだ。そして、「大変だ」と焦った。別々の学校に行ったら、自分がちなちゃんの一番の仲良しではなくなってしまうと思って。
そこで、俺はちなちゃんに何か渡そうと決心した。記念のものを渡すことに約束めいた意味を感じたのだ。
記念の品であるからには、それ相応のものでなければならない。自分の大事なもので、ちなちゃんが喜ぶもの。幼いながら、それが一番重要だと考えたのだ。そして、俺が選んだのは折り紙のカエルだった。
今でもはっきり覚えている。濃い青色で作った一匹で、俺が持っていた中で一番高く、遠くまで跳ぶカエルだ。そいつに勝てないちなちゃんが、悔しそうで羨ましそうな表情で見ていたやつ。
卒園式のあと、親や先生たちがガヤガヤしている保育園の庭で、俺はポケットにしのばせてきたそのカエルを渡した。驚いて「いいの?」と見返す彼女にうなずき、「絶対に、また遊ぼうな」と言って。会うのなんか簡単だと思っていたから。
ちなちゃんは受け取ったカエルをしばらくじっと見ていた。その姿が写真のように記憶に残っている。紺色の制服に白い襟。真面目な表情と左右の肩に乗った三つ編み。カエルを乗せた小さな両手。
「うん。遊ぼうね、絶対」
彼女は厳かな態度でポケットからハンカチを出し、俺に差し出した。
「これ、ちかちゃんにあげる」
クマの模様の小さなハンカチには平仮名で名前が書いてあった――。
あのときの安堵と喜びの入り混じった感情は、今でも俺の中に残っている。……いや、これは後から自分で付け加えたものなのか? 悲しいことや淋しいことがあるたびに、あのハンカチを取り出して勇気をもらってきたから……。
まあ……、要するに、俺の初恋なのだ。
そう自覚したのは中学に上がったころだ。それ以来、思い出に続きができた。想像という名の。
何通りもの、ちなちゃんとの再会シーン。驚く二人、懐かしさに輝く瞳、それから……彼女の頬が恥ずかしさに染まる。その中では彼女は一目で俺に恋をする。
学校で出会うどの女の子よりも、想像の中のちなちゃんは可愛い。控えめに見つめられると、本当に胸がドキドキしてしまう。再会の可能性は低いと分かっていたけれど、俺たちは見えない絆でつながっているという考えを捨て去ることができなかった。
…とは言え、もちろん俺の生活がそれ一色だったわけではない。
勉強もあるし部活もある。友達との付き合いもある。中学生はとても忙しいのだ。彼女を思い出すのはその中のわずかの時間だった。
でも、むしろそんな日々だからこそ、ちなちゃんへの想いは大切なものになっていった。一人になって未来を考えるとき、自分の存在を喜びと感じてくれる人がいるということは大きな励みになるものだから。
そして……去年の入学式。
同じクラスに知り合いがいなかった俺は、隣の席で同じ境遇だった野上正誓と近付きになった。クセの無いさらさらした髪は変に恰好付けた様子が無く、落ち着いた横顔は親切そうな雰囲気を漂わせていた。この九重高校の昔ながらの黒い学生服が、当たり前のように馴染んで見えた。
どちらが先に話しかけたのかは覚えていない。クラスの顔合わせから入学式、ホームルームと過ごすうちに親しくなっていた。ほかの級友たちよりも大人びて見えた野上は、話してみたら気さくで、笑うと俺たちとちっとも変わりがないと分かった。野上も俺を気に入ってくれたらしいことが嬉しかった。家の最寄り駅が隣だという偶然は、俺たちの友情が続くことを暗示しているように感じた。
解散後、一緒に教室から出た野上が生徒でいっぱいの廊下の先に誰かを見付けた。中学からの友人なら、初日はそちらが優先だと考えて、俺はそこで別れようと思った。つきまとって「ウザいやつ」なんて思われるのは嫌だから。
でも、野上は俺が何か言う前に「来て。友達も紹介するから」と言って、生徒の間を縫って行ってしまった。俺は後を追いながら、野上の友達とも気が合うだろうか、とか、俺と一緒に帰るのは彼の中では決定事項だったのかな、とか、不安と嬉しさ半々だった。そこで。
「ちなちゃん!」
野上の声が聞こえた。
久々に耳で聞いたその名前。思わず足にブレーキがかかった。
前方で振り向いたのは女子生徒。振り返ったときにセーラー服の白いスカーフがふわりと揺れたのを今でも思い出す。
メガネをかけたその少女は駆け寄った野上に笑顔で応え、俺に合図をする彼の視線を追ってこちらを見た。
―――野上の彼女? 一緒に帰るのは気まずくないか? それに……。
止まった足が動かなかった。
「水澤!」
ぐずぐずしていたら野上に手招きされて、そうなったら、もう行くしかなかった。
―――まさか、あの「ちなちゃん」だなんてことが……?
「同じクラスの水澤。家が俺たちの隣駅だっていうから一緒に帰ろうと思って」
曖昧にあいさつする俺に控えめに微笑んだ彼女が小さく頭を下げた。それからそっと俺を見上げた……。
それはなんともかわいらしい女の子だった。
むっちりしたほっぺと丸っこいフレームのメガネ。メガネの奥のくりくりした目で恥ずかしそうに見上げる様子は、人見知りな性格を思わせる。背が小さめで、紺色のセーラー服の袖で手の甲がほとんど隠れてしまっているお陰でますます小さい子みたいだった。
見つめるその顔があのちなちゃんなのかどうかは分からない。大事にしていた記憶も突然、ぼんやりしてしまった。でも、「水澤」という名前に反応しなかった。ということは違う……?
「こっちは同じ中学出身のコサカチナちゃん。生徒会を一緒にやっていたんだ」
「生徒会? へえ」
平気を装って言葉を返す。でも、体の芯が震えていた。
―――コサカ、チナ。
野上の説明に彼女があわてた。肩にかかる黒髪が、俺と野上を交互に見ながら揺れる。
「あ、あの、生徒会って言っても、あたしは端っこで雑用してただけだから……」
困った顔で謙遜する彼女を密かに観察しながら、大きくなりすぎた鼓動で体が揺れているような気がした。
―――コサカ、チナ。
どこにでもある名前じゃない。そして、この困った顔。
―――間違いない。あのちなちゃんだ。
一気に過去の記憶とつながった。
口数の少ない内気そうな様子は、俺の想像とほぼ一致していた。メガネは想定していなかったけれど、丸顔に少し大きめの赤いメガネは彼女のやさしい雰囲気に合っていた。
でも、喜んでいいのかどうか分からなかった。だって、今のちなちゃんは野上の彼女かも知れない。それに、俺のことを覚えているのかどうかも――。
「あの、ちかちゃん」
心臓が大きく跳ねた。彼女の顔を凝視する。だって……、それはあのころの俺の呼び名だったから。
俺の下の名前、力の「ちか」。みんなが俺のことを「ちかちゃん」と呼んでいた。
でも……。
俺は何も言えなかった。なぜなら、彼女の視線は俺に向いていなかったから。
野上正誓。俺の新しい友人。
ちなちゃんにとっての「ちかちゃん」は野上のことだったのだ。
俺は現実を思い知った。保育園時代の約束を覚えていたのは俺だけだったのだ、と……。
読みに来てくださってありがとうございます。
最後までしっかり書いて行きたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
折り紙の「ぴょんぴょんガエル」は正式名称ではなく、力たちが使っていた呼び名として出しました。
我が家でもよく遊んだカエルで、お尻の部分を指で押して弾くとぴょーんとジャンプします。