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三葉

この声は、この声は!

僕はこのとき、坊主という言葉が気にならなかったわけではない。

怒りを感じなかったわけでもない。

でも、それ以上に僕は驚きでもう何も考えられなかった。

信じられない思いで僕はゆっくり後ろを振り向いた。首がロボットのように動きが鈍い。

(やっぱり!)

そこには、かすかに笑ってブルース2号を見ているあいつがいた。

僕は遠くからしか見ることができなくて、ずっと近くで見たいと思っていた、あの笑顔だ。

「そ、そうだよ。」

僕の慌てようをあいつに気づかれたくない。

僕の想いをあいつに知られたくない。

僕はきわめて冷静に話そうとした。

(落ち着け、落ち着け・・・)

そう自分に言い聞かせても、自分の心臓は期待を裏切るようにその鼓動を速めた。

それは当たり前かもしれない。

ずっと話ができたらいいなと思っていたから。

僕という存在に気づいてほしいなと願っていたから。

うれしかった。

思わぬところで自分の願いがかなったから。

僕は空を飛んでいる感覚を味わった。地面に足がついていないような気がする。一生懸命、その場に立っていようと足に力を込める。でも、だめだ。足が震えている。あぁ、自分はなんて情けないんだろう。

どうしよう。どうしよう。

心が慌てるばかりだ。

あいつはそんな僕の様子に気がつかない。ブルース2号に気を取られている。

どのくらい時間が経ったのだろう。僕には分からない。ただ、あいつが口を開くまでずっとあいつの横顔を見ていた。

「さわってもいい?」

一瞬何を言っているのか分からなかった。

さわってもいい?何を?

あいつは僕の返事を聞かずにその場にしゃがもうとしている。

あぁ、いつの間にか僕らに近寄ってきたブルース2号のことか・・・ってブルース2号!?

やめたほうがいい。

僕はあいつのやろうとしていることに気がついて、慌てて言おうとして言葉を飲み込んだ。

もう、遅かった。

あいつの手はすでにブルース2号の口の中にあった。

僕の愛犬、青いブルース2号は賢い。賢い故に人見知りする。そのため、彼にとって知らない人間の一部を彼の口の中に入れようとする。一種の威嚇なのか。

僕はいつか警察に訴えられそうな彼の癖を直そうとした。えぇ、しましたとも。

でも、彼はやめてくれなかった。唯一ブルース2号が変えてくれたことは、今まで思いっきり噛んでいたのを甘噛みにしてくれたことだ。

その証拠にあいつは叫ぶということをしなかった。でも、僕はあいつの顔が信号機みたいに赤から青に変化するのをみた。すごい顔。

かわいそうだなと思わなかったわけではないが、哀れみより面白さがまさった。

「あはは!」

僕はいままで緊張していたことも忘れ、腹を抱えて笑った。あいつのあんな顔を見るのは初めてだ。あいつのさまざまな表情を見れて僕は少しうれしく思った。

あいつがいまだ笑っている僕の方をはじめてみた。微笑んでいる。なんか裏がありそうな笑みだ。やばいな。僕はそう思ったけど、逃げられなかった。逃げるより前にあいつが僕の頭の両側をこぶしでぐりぐりおした。

「いたい、いたい」

別に痛くはなかった。僕はあいつのあまりの近さに驚き逃げようとしてとっさに出た言葉だ。

でも、あまり激しく抵抗するとあいつは僕が本気で嫌がっていると思ってしまう。だから、僕は弱弱しい抵抗であいつから離れることができなかった。

心臓がさっきよりももっと速く動く。あいつに気づかれないだろうか。顔が熱くなるのを感じる。思考がぐるぐる頭の中で回り、もうまともに考えることができなくなって、僕は思わず右手を振り上げた。

振り上げたときは、あ、やばいかな、と思わなかったわけでもないけれど、本能的にやってしまった。もう、僕の手は制御がきかない。

僕の右手はあいつのあごをとらえた。

アッパーカットだ。

これをアッパーカットとよばずに何をアッパーカットと呼ぶのだろう。

それほどすばらしいアッパーカットだった。

運動能力が並以下である僕のどこにそんな力があったのだろう。あいつはこまのように回りながら遠くまで吹っ飛ばされた。

あまりのすばらしさに僕は一瞬ほれている相手に暴力を振るった事実を忘れ、決めポーズを決めようとした。要するにこぶしを高く上げるだけだか・・・。

僕ははっとした。

(やばい!)

どこに好きな人を吹っ飛ぶぐらい殴る女子がいるだろうか。

(嫌われる!)

ゴリラみたいだと思われるかも。小猿並みな身長は人の目を欺くためだったのかと思ったりして。

もう、頭が真っ白になってまともな思考を持っていない。僕はその場から逃げ出した。ブルース2号が僕の後をついてくるのが視界の端で見えた。

僕の顔は赤と青が入り混じった色をしているだろう。

恥ずかしいのと恐ろしいのとで。

そんな感情が心の中で渦巻いているのを感じつつ走っていたら、後ろから声がした。

「またな。」

あいつは僕の攻撃から復活したようだ。

快活な声だった。

(やばい、うれしい。)

顔の体温が上昇したような気がする。心の中にさわやかな風が吹き、今までの感情がすべて吹き飛ばされてしまった気がする。あいつの言葉はきっと魔法の言葉だ。こんなにも僕の気持ちを上昇させてしまったのだから。

「うん、またね!」

僕は振り返り、笑顔で手をふった。そして、また走り出した。ブルース2号もついてくる。


今日の景色はいつも散歩で見る景色よりも数倍、数十倍もきらきら輝いているように見えた。

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