174 決別
「いきなり聖水かけられてびっくりしたよ。でもボクが魔物かもしれないもんね」
「そうそう、とにかく確認しなきゃ! と思っちゃって……。あ、まだ私が魔物じゃないって証明できてないね。まーくんかりょーくん、渡した聖水はある?」
僕は偽シエルに襲われたときに使っちゃってた、けど龍牙は持ってたらしい。
「冷たいっ! けど、これで本物だって分かってもらえたかな?」
「ああ、勿論! 姉さんも無事で良かった。これで全員揃……って姉さん、血まみれじゃんか!」
よく見ると、確かにエリッツさんの鎧には血がついていた。黒っぽくなって固まってるし、戦闘があったのはかなり前かな。
龍牙は慌ててるけど、鎧の傷は少ない。十中八九エリッツさんの血ではないだろう。
「ううん平気、お姉さんは怪我してないよ」
「え、でも……」
「これは魔物の血なの。あまり汚さずに戦いたかったけど、視界も足場も悪かったから」
思った通りだ。龍牙が間違えて僕が正解した。少し嬉しい。
「それよりみんなは? どこか痛いとことか、ない?」
「俺とシエルは大丈夫。マコトは酷い怪我だったけど、街で治療したから今は元気だ……よな?」
龍牙が僕の方を見たので頷いておく。少なくとも体は健康そのものだ。
「良かった! お姉さんずっと心配だったの。みんな離れ離れになっちゃって、どこかで動けなくなってたらどうしようって」
僕は危うくそうなるところだったけど。あんなことになるなら事前に言っておいてほしかった……僕らの突入の仕方も悪かったのかな。
「ところで、街っていうのは何? 先遣隊の集落のことかな?」
「いや、魔族の街のことだよ。皆優しくってさ、俺たち今そこで冒険者みたいなことやってんだ」
魔族、と聞いた途端エリッツさんの顔色が変わった。
「……だめ」
「え?」
「あ、えっと、ほら。危険だよ? 魔族なんていつ裏切るか分からないもの。異界の存在は彼らの敵だし、分かり合うことはできないの」
「そうかなぁ、いい人も多いと思うんだけど」
今回ばかりは僕も龍牙と同意見だ。彼らの全員が裏切るとは思えないし、そもそも僕らと魔族では何か互いの認識にズレがあるような気がする。
でもきっとそれは重要じゃない。だめ、と口にしたエリッツさんの声は、驚くほど冷たかった。
「ずっと昔からそうだもの。今更変わるはずもない。もう街には戻らないで、今から出発しよう?」
「待ってよ姉さん、それは流石に急すぎる」
荷物は幸いほとんど持ち歩いてる。元々大荷物でもなかったし。
そういう意味では、今から出発でも別に困りはしないんだけど。
「お願い。今はお姉さんの言うことを聞いて」
「……分かったよ。でも全部終わったら挨拶に戻る。あの街の人たちにはお世話になったんだ」
「うんうん、そうしよう。そのときはお姉さんも一緒に行くよ。まーくんはそれでいい?」
「いいよ。保存食もいくらか持ってきてるしね」
シエルは少し反対してたけど、龍牙に説得されて折れたみたいだ。
ルインは相変わらずの無言。これは特に異論なしってことだと思う。
「それじゃ、早速少し歩けるかな? さっき先遣隊の人にすれ違って、魔王城近くに繋がる転移鍵を貰ったんだ」
エリッツさんによれば、それはどの扉からでも特定の場所にアクセスできる特殊な鍵らしい。先遣隊が苦労して、魔王城に付近の倉庫へのパスを繋いでくれたんだとか。
先遣隊は別行動、僕らが倉庫に入ったのを確認したら正門の方で騒ぎを起こすらしい。そうすれば警備も緩くなるし、侵入も楽になる。
暗い森を進んでいくと、いつか見かけたような小屋に辿り着いた。あれに比べれば幾分かは綺麗だ。少し壁に穴が空いているくらいで、柱が腐ってるようなこともない。
「少し待っててね」
エリッツさんは小屋の手前でそう言うと、扉に手のひらを押し当てる。数秒後、ドアノブに例の鍵を差し込んだ――カチリという軽い音と、静かな空気の震えがあった。
「多分、これで繋がったかな? お姉さんについてきて!」
エリッツさんが扉を開けると、そこにはボロ小屋の中とは思えない光景が広がっていた。
まず広さが全然違う。僕の住んでいた地域の体育館くらいはありそうだ。そして金属製の床、壁、天井。あの小屋はどこからどう見ても木製だった。
扉を閉めたあと、試しに軽くノックしてみる――当然のごとく跳ね返ってきたのは金属音だった。
「わ! 広いねえ」
「ちょ、シエル、大声はまずいって」
慌てて口を押さえるシエル。可愛いな。こんなときでも癒される。
幸い倉庫内は無人みたいだ。置いてある木箱はところどころ埃を被ってるし、あまり使われることもないのかもしれない。
「まずは成功だね。ここからは警備の魔族も多くなるし、注意していかないと」
僕らは本当に魔王城の近くまで来てしまったらしい。扉の外からは、いかにもといった様子の城が見えた。
まだ魔界に着いて一ヶ月と経ってないのに、もうラスボスに挑もうとしてる。足が震えてきた。
「……あのさ、やっぱり姉さんは魔王を殺すつもり?」
「うん、そうだよ。お姉さん頑張っちゃう」
龍牙も不安なのか、エリッツさんにそんな質問を投げかけていた。それもそうだ。僕もルインも、そして恐らく龍牙もシエルも、実力は魔界に来る前と変わっていない。
「何も魔族と敵対する必要はないんじゃないかと思うんだ。戦う以外の道もあるような気がしてさ」
「でも、それだとお姉さんの目的は果たせないの」
実はね、とエリッツさんは続ける。
「お姉さんがここまで来たのはそんな綺麗な理由じゃないんだ。皆にはシレンシアのため……ううん、このヘルデスの大地に生きる全ての生命のため、なんて大きなこと言っちゃったけど」
魔王を殺すのは世界のためになるのかな。僕はそうじゃない気がする。それは人族だけの都合だ。……多分。
「合図まで少しありそうだし、少し昔話」
エリッツさんはぽつりぽつりと話し始めた。
「……お姉さんにはね、婚約者がいたの。彼の周りにはいつも笑顔が絶えなかった。争いごとが嫌いで、自然を慈しむ素敵な人。今は憎み合っている魔族ともいずれ分かり合える、って言ってて……お姉さんもそう思ってた」
そう思ってた、ってことは、今はそうじゃないってことだ。何が起こったのかは聞かなくても大体分かる。
「でもね、ある日彼のいる村が魔族に燃やされたの。一夜にして、全て。お姉さんが到着したときにはもう生存者はいなかった。彼がどこにいたのかも……転がる黒焦げの死体のどれが彼なのかも、結局分からなかった」
分かったのは彼が死んでしまったということだけ、と静かに呟く。
「そこには魔族王家の紋章が残されていた。お姉さんは魔族が、そして魔王が許せない。ここに来たのは復讐のため」
エリッツさんの言う「復讐」には重みがあった。その瞳には憎悪の炎が燃え上がっているように見えた。
――と、城の方から爆発音が聞こえた。
「少し暗い話になっちゃった。ごめんね。今のは先遣隊の合図だから、お姉さんたちも向かおうか」
「……姉さんの考えが聞けて良かった。でも、納得は難しい」
龍牙の言葉に、エリッツさんは眉をひそめる。
「どうして? 魔王はそれだけのことをしたんだよ? 分かりあえる可能性を潰したのは向こうなの」
「最後まで聞いてよ、姉さん。納得できないからこそ尊重したいんだ。姉さんは姉さんのやり方で、俺らは俺らのやり方でやればいい」
「まーくんは? まーくんなら分かってくれるよね?」
「……僕は」
脳裏にネァハたちの笑顔が浮かんだ。彼らも正しく人だった。僕らと同じ。
「僕は、龍牙たちと行くよ。魔族が全員悪い人だってわけじゃないって、そう思うんだ」
「……そう、残念。それじゃ私はもう行くね。くれぐれも邪魔はしないで」
そう言い捨てると、エリッツさんは走って行ってしまった。本当に良かったのかな。分からない。なんで断ったんだろう。ネァハやツィラがそんなに大事? エリッツさんよりも?
龍牙があんなことを言い出さなければ、僕はエリッツさんと一緒にいたはずだ。なんで僕に選択を強いるようなことをしてくれたんだ。
早くも後悔し始めた。今からでも追いかけようか。うん、そうしよう。それがいい。僕はエリッツさんといられるなら、魔王くらい喜んで殺す。
でも、既に見える範囲にエリッツさんの姿はなかった。そして不幸なことに、それでも追いかけようと思えるほどの勇気も、僕にはなかった。




