2「大人の世界と面接試験」
2話の後半部分を追加しました。
<2015.7.18>
一話に引き続き、後書きに蘊蓄コーナーを設置しました。
2「大人の世界と面接試験」
旨い話などある筈が無いのだ。
リオのカーニバル宜しく夕闇に主張する極彩色のネオン達を前に青年は茫然と立ち尽くしていた。
BAR ARICE
ショッキングピンクに光るネオンで名前が書かれた其の店は、いかがわしい飲み屋にしか見えない。
ビラの番号に電話した時の対応や其の後送付された面接についての手紙では、そんな不審な要素など何処にも無かったのに・・・。
いや、面接時間を夕方の9時に指定してきた時に気付けば良かったのだ。
しかし、日給三万で何をしようかとウハウハ舞い上がっていた彼の頭は、狂牛病でスカスカになった牛の脳よりもスカスカしていた。
・・・・帰ろう。
ようやく動き始めた青年の脳はそう判断した。
もし、ここが傷物の人達の店なら命は無いかもしれない。もし、運悪くオカマバーだったとしたら色々なものが無くなるだろう。
幸いな事に履歴書は面接時に持ってくる事になっていた為、相手は自分の住所や学校は知らない。怪我をしたとかなんとか適当な理由を見繕って電話で丁重に断わってしまおう。今なら引き返す事が出来るのだ。
青年はダンスのステップの様にくるりと軽く踵を返し、一歩を踏み出した。
『お待たせしてすみません。面接にいらっしゃった三国有子さんですね』
「・・・・・・・・・・・」
店のドアから掛けられた声に、青年の背中を冷たい汗が流れた。
やばい。気付かれた・・・。
今にも引き攣りそうな表情筋を抑えつけ、油の切れたロボットの様にぎこちなく首を回せば、扉の横に付いた古めかしい伝声管が『どうぞお入りください』と入場を促している。
閉まっていた筈の扉は何時の間にか開き、両側に大小様々な形のドアが並んだ長い廊下が奥へと延びていた。
逃げようか・・・。
体育の成績は悪い訳ではないが、足がそう速い訳でもない。逃げ切る自信は無かった。
其れ以前に、足が竦んで競歩すら難しい。
一寸の間に青年の頭の中では使える限りの脳細胞が一生に一度の大会議を開き、諦めるという結論に達した。
・・・父さん、母さん、先立つ不幸をお許し下さい。
青年は観念し、扉を潜った。
それにしても、どこまで歩くのだろう。
何十個目かのドアを横目に通り過ぎた頃だというのに、一向に目的の場所に辿り着かない。
両脇に立ち並ぶドアには全てCLOSEDのプレートがかかっている。今より少し前にドアを幾つか開けてみようと試したが、全て鍵がかかっていた。
天上を這う伝声管の方向からすると目的の店のドアは最奥部にある様だが、建物の外観からは想像出来ない程に長い廊下の先に果たして辿り着けるのか甚だ疑問だ。
しかし、引き返そうにも後ろを振り向けば、それ程離れていなかった筈の入口は、何時の間にか目的地と同様に遥か遠くに在り、帰る事もままならない。
永遠に続く一直線の迷路の様な廊下は、まるで異界だった。
前に進むしかあるまい。一人分の靴音を床に響かせながら青年は再び歩き始めた。
バタン・・・・
歩みを進めてから幾許もしない内に遠くで音がした。入口があった方からだ。
ふと気になって振り向いたが、見るべきではなかったと思う。
目の端で捉えたのは、それまで開く事の無かった無数の扉が周囲の壁ごと開き戸状に抉れ、通路を塞ぎながら迫り来る様であった。
・・・・潰される。
思うが早いか、笑っていた足は今世紀一番の走りを見せた。
人は生死が懸かると色々凄いようだ。
しかし、気力による脚力の底上げも長くは続く筈も無く、両者の距離が詰りだした頃、廊下の果てに木製のドアが見えた。
ノブを引き、開いた隙間からすり抜ける様に店内へ逃げ込むと、後ろも見ずにドアを閉め、背で抑えつける。壁にあの勢いで戸を突き破られれば元も子もないが、袋小路の此の空間では気休めであってもそうせずにはいられなかった。
5、4、3・・・と壁が到達するまで凡その時間を数え、待つ。
ドン、と扉の直ぐ向こう側で一度だけ音がしたが、それきり壁が戸を叩き付ける衝撃も何も無かった。
・・・助かった・・・・。
足から力が抜け、青年は戸から擦り下がる様にへたり込んだ。心臓は二十日鼠並に脈打ち、膝は抑え続けていた反動で大爆笑。こんな無様な状態で面接など出来るのであろうか。取り敢えず息を整えるべく深呼吸をしかけた時だった。
「いらっしゃい。・・・それとも、こんにちは、かしら?」
「えっ」
唐突に掛けられた声に顔を上げれば、カウンターに女性が一人寄り掛かり此方を見ている。
年の頃は二十代後半か。絹糸と見紛うしなやかな長髪を結い上げ、右側に長く伸ばした濃いブロンドの前髪から覗くのは、長く濡れた睫毛と茶の強い切れ長な臙脂色の瞳。濃く赤い口紅が艶やかに唇を飾り、白く抜けた肌の上を柔らかな薄い象牙色のドレスが覆う。
他に店員が居ない事から鑑みるに、彼女が此の店の主なのだろう。やや暗い照明の店内に佇む其の姿は大人の香りを放っていた。
・・・なんて事だ。
今の自分と言えば、冷や汗の引かぬまま腰が抜け、床に尻を着いている。あまりの醜態。時間を戻せるならばそうしたいのも山々だが、奇跡も糞も在った物ではない此の世界で「素敵な出会い☆テイク2」など望める筈もなかった。
「有子君。面接を始めるから此処に座ってくれる?」
青年の悶絶とした心中など意に介した様子も無く彼女は自分の前の席を指差した。
言われるが儘にカウンターの丸椅子に座り、死の恐怖に晒されながらも手放す事の無かった履歴書を提出する。
「よろしく・・お願いします」
先の失態を見られた手前、気不味さと羞恥心から挨拶が何ともぎこちない。
彼女は履歴書を手に取ると、さらりと目を通しただけでカウンターの上に置き、コルクで栓をした透明の瓶を取り出してこう言った。
「此の瓶の中の物が見える?」
からかわれているのだろうか。見えるも何も、彼女が指で摘まんで軽く振った瓶の中には黒くぬらぬらとした長細い生物が蠢いている。
「黒い・・蛞蝓ですか?」
「惜しい。視力0.5か・・・」
0.5とは失礼な。最近視力は落ちてきたものの、未だ0.9を保っている。
「まぁ、一次面接は通過かな。そうだ、ジュースでも飲む?」
そう言うと、彼女は履歴書をカウンター下に置き、グラスの置いてある棚の方へ歩いて行った。
志望動機も聞かれる事無く面接が終わってしまったが此れで良いのだろうか。
然も、雇われる側だというのに何だか持て成されている。妙に小心な為、好意に上手く乗るという行為が出来ず、少し肩身が狭かった。
「・・・?」
そういえば、この音、何だろう・・・。
先程から、かつかつと鳴るヒールとは異なった音がフローリングを鳴らしている。
青年は体を少し乗り出し、ちらとカウンター内の彼女を覗き見た。
見れば、整った身体のラインが思春期の目には眩しい・・・では無く、本来ならば在るべき彼女の左足は腿の半ばから下が無く、杖の代わりに銃剣で身体を支えて歩いていた。
「ん?ああ、之ね」
青年の視線に気付いたのか彼女は包帯に巻かれた膝上のみの足を少し上げた。
「昔、事故でね。あっ、それとも驚いたのは銃の方かな」
「・・・・・・・・・・・」
寧ろ両方ですとは言えず、青年は只閥が悪そうに黙る事しか出来なかった。
「祖父が戦時中に使っていた遺品なの。前は杖を持っていたけど、転んだ拍子に折ってしまって・・・。新しい物が来るまでの代用品の心算が、意外とお客さんに好評だったから此の儘使っているの」
お爺さんの思い出の品を杖代わりに使うのも如何なものかと思うが、物置で埃を被っているよりは彼女の足の代わりに役立った方がいいのかもしれない。
しかし、此の国では列記とした銃刀法違反である。
「あの、其れって未だ使えるんですか」
多分其れは無いだろうが、念の為に聞いてみる。
「まぁ使えるけど、これを使う事はそう無いから」
言い終わると同時に彼女は青年の肩より三センチ程高い所へ引き金を引いた。
・・・・今、使った。
ドン!と短く重い音を立て、弾が後ろの壁に突き刺さった。
怒っている・・・?自分は何か彼女の気に障る様な事をしただろうか。まさか、足元をちら見したのがいけなかったのか。いや、あれは男なら見るだろう。
彼女は艶美な微笑みを絶やさぬまま、再び凶弾を青年の肩越しに放った。
!!!!!!!!!!!!!!!っ
酸欠の金魚が如くパクパクと口が声に成らない文句を必死に紡ぐ。
未だ水ものを摂取していなかったのが不幸中の幸いだった。危うく漢の尊厳を失くすところである。
「なっ・・・・何するんですか!」
ようやく声に出た抗議の台詞は捻りも何も無かった。
「伏せなさい」
「ぃでっ」
彼女は銃剣の柄で青年の頭をどついてカウンター下に頭を下げさせると、銃を構え直し、ばかばかと後方に向かって撃っている。
―――――自分に向けて撃ったんじゃ無い・・のか?――――――
弾幕と打ち抜かれた壁材が飛び交う中、頭を押さえながら自分の背後で展開している攻防を垣間見た。
黒くテロンとした海鼠の様な小動物が弾雨を巧みに避けながら壁や床を逃げ回っている。
はっきり言わなくてもキモイ事この上ない。
あの位置で撃ったという事は肩にアレが乗っていたという事だろうか。
肩を見ると、制服の上着に黒く粘り気のある染みが有った。然も臭い。最悪だ。斯くなる上は店主様に黒海鼠類似品を仕留めて欲しいところである。
青年は再び背後の戦いに目を移した。
黒い生物が逃げ、店主が銃を撃つ度に物が壊れて行く。
観葉植物は半ばで抉れ、ドガの踊り子のレプリカは其の顔に黒焦げた穴を開け、壁際に鎮座するマホガニーの食器棚は其の中に在るコペンハーゲンのカップと共に爆ぜた。
嗚呼、なんて勿体無い。貧乏性には辛い光景である。
店主は攻撃の手を緩める事無く、両者の間合いは常に一定の距離を保っていた。
黒海鼠は彼女が弾を込める一瞬を突いて前へ出ようとするが、近付き切る前に装填を終えた銃剣が牽制する。
繰り返される一進一退は当分続くかと思われた。
しかし、次撃で砲身から鳴る筈の銃声はせず、只ハンマーがカチッと鳴っただけであった。
カウンターの下から弾を補充する手も止まっている。
「ちっ、弾切れか・・・」
その言葉を理解したのか、逃げ走っていた海鼠は青年の方へ跳んで来た。
此れが走馬灯というものなのだろうか。全ての動きがスローモーションに見える。跳んで来る小動物に付いた夢海鼠の様な房状の口が放射状に開き、中からゴムパッキンに似てはいるが硬質の牙が覗いていた。
噛まれたら痛いどころの騒ぎでは無いが、横に逃げようにも床に据え付けられた丸椅子のパイプが邪魔で上手く身動きが取れない。せめて被害が少ない様に腕で主要部位を保護するしかなかった。
腕の隙間から見える海鼠の姿が次第に大きくなり、其の顔面を弾が貫いた。
べしゃり、と不快な音を立て水風船が割れる様に身が爆ぜる。
黒海鼠もどきはカウンターや床にタールの様な肉片を晒し、息絶えた。
「よし、上手くいった」
銃剣から顔を離す瞬間に、ぽそりと呟いた店主の言葉を不運にも青年は耳にしてしまった。
―――若しかして・・弾切れを装って自分の事を囮にしたのでは・・・。―――
助けて貰ったというのに何とも複雑な心境である。しかし、あの儘鼬ごっこを続けていても決着が付かないか、最悪本当に弾切れになるだけである。
「これ、何だったんですか?」
被弾する前は多分生き物であっただろう残骸を指差し、一先ず冷静に対処した彼女に訊ねた。
「狂気の塊」
常人であれば判りかねる問いに彼女は迷う事無く即答した。
この人は何を言っているのだろうか。狂気?其れは人の内面の感情の様なもので、物質としては存在しないものである。
真顔で言う彼女が嘘を吐いているとは思えないが、どう考えてもまともな話には聞こえなかった。
「じゃあ、次は下で面接を受けてね」
「下?」
青年が聞き返すのと粗同時に足元の床がぱっくりと開き、彼は悲鳴を上げる間も無く、暗く底の見えない奈落へと落ちて行った。
息苦しい・・・。
落下の際に生じる空気抵抗で呼吸はし辛く、風圧を少しでも抑えようと顔の向きを変えてみるが、余り効果は無かった。寧ろ息のし易さ云々(うんぬん)より自分が何の装備も無しに落ちている事の方が重大である。空中に居る間は生きていられるが着地すれば確実に死ぬだろう。
落下を始めてから暫く、青年は長く暗い空間を落ち続けていた。電車の窓を開けた儘トンネルを走る時に感じる低い音や身体に纏わり付く生暖かい風が気持ち悪い。視界が全く無いのも、何時地面に打ち付けられるか分からず不安だった。
そんな折り、底から光が見えた。
明かりの中へ出た時、初めて自分が赤茶色の鉄骨で出来た、壁の無いエレベーターの骨組みの中を落下しているのに気付いた。
――――何だ、此れ・・・・・―――――
眼下には森や湖が広がり、湖畔には町の様な集落が見える。
何故地下に、こんな広大な空間があるのか。
遠くに霞む山々の様子から類推するに、此の空間は少なくとも三県を併せた広さは有る様だった。
いや、冷静に分析している場合ではない。
こうしている間にも身体は地面に近付いて行く。此の侭では車に轢かれた蟇蛙同様、べっちょりと色々なモノを外に曝け出すという結末は避けられない。
青年の周りを囲む赤茶の骨組みは、白いドームの上に開いた穴へと続いている。其の先に何か救いになる様な物が有る事を期待するしかなかった。
ドームの中へ落下した瞬間、極彩色の空間が視界を埋め尽くした。
原色が目に痛い。ショッキングピンク、蛍光オレンジ、カーマインレッド、レモンイエロー、ミントグリーンを中心に縞模様に染められた、球体状の巨大な茸型クッションをぼふぼふと弾み落ち、濃紅のベルベットが張られた床の上に顎から着地した。
「・・・・っ・・」
死を免れた上に大怪我も無かったのは奇跡的だが、体中が鈍い痛みを発している。特に顎への衝撃は堪えたのか目の端から涙が浮かんだ。しかし、流石に此の歳で泣く事は憚られ、心無い餓鬼に突かれる団子蟲の様に蹲って耐えていた所へ前方から声が掛かった。
「貴様が新入りか」
声の方へ目を向けると、10メートル程前方で女王様風の女が長椅子に横になっている。ハート型の穴が逆三角に九つ並んだ白い面当てを付けた顔からは其の表情を窺い知る事は出来ないが、不敵に笑う口元に何とも形容し難い威圧感を感じた。
その周りをAからKまでのハートのトランプ兵と銀盆にワインや葡萄を乗せて運ぶ異形の兎達が取り巻いている。
此の数分間で今までの常識では説明の付かないものを見てきたのだ。もう何も驚くまい。
「おい、何時まで其処にへばっている心算だ」
青年は、きつい口調で立たされた。
「此れから、ちょっとした検査を行う」
そう言うと彼女は横になったまま、気だるそうに手招きをした。
「こっちに来い。・・・・よし、其処で止まれ」
数メートル進んだ所で立ち止まるとトランプの3に丸スプーンの様な物を手渡され、離れた場所に小学校の保健室で見たような視力検査をする為の機材が運ばれて来た。しかし、普通の機材とは少し異なり、“C”の模様が描かれている場所には其々異なる中身の入ったシャーレの様な物が数列埋め込まれていた。
「棒が指したものを見た通りに言ってみろ」
彼女の言葉を皮切りに、検査は始まった。青年は片目を隠し、検査器具の横に置かれた椅子に立つハートの2が持つ指示棒の先を目で追った。
最初は目のでかい薄紫の胎児の様なもの、次は肌色のデカイ芋虫・・・と刺された順に答えていく。下に行く程、象形文字に似たぐじゃぐじゃの見た目になっていき、言葉で何と表現すれば良いのか分からず、後半はジェスチャークイズの様になっていた。
「多く見積もって0.5だな」
一通り答え終わると彼女はそう言った。
だから0.5とは何なのだ。皆ぼやけて見えていた訳では無いのに釈然としない。
「では其れを掛けてみろ」
青年は片目だけレンズの嵌められた視力検査用の眼鏡を3から渡され、言われた通り掛けてみる。
始めは視界がもやもやとしていたが、次第にくっきりとし始めた。
「?」
棒で指す役のトランプ兵が居ない。
レンズの無い左側は変わりがないのに、右の視界に映る世界は、さっきまでハートの2が乗っていた椅子の上に手足の無い只の紙のトランプが置いてあるだけに見えた。
「只のトランプになってる・・・」
思わず、そう呟いた時だった。
ぼん、と何かが弾けた音と同時にトランプ兵は古びたトランプに変わり、ひらひらと床に落ちた。
もう驚く事は何も無いと思ったが、まだ有った様である。
「馬鹿者!思った事を其の儘口に出す奴が有るか」
訳も分からず怒られた。先程の呟きに何か原因でもあったのか。しかし、言霊思想にしては、此処は西洋的過ぎるのだが・・・。
「・・・何が起こったんですか」
恐る恐る聞いてみる。
「説明はアイツに丸投げするつもりだったが仕方ない。最低限の情報を掻い摘んで話してやるから、其の他の質問やら補足が必要な所は後から来る教育係に聞くように」
そう言って彼女は面倒臭そうに語り始めた。
「貴様の眼は真眼と言って、具現化した狂気の核となる姿を見通し、言葉という枷で本来在るべき姿に固定する特殊なものだ。古くは幻視者やシャーマン、此の国では巫女や陰陽師、修験者等に此の目を持つ者が多少は居た様だが・・・。まぁ、そう言う者共も九割以上は詐欺師か壮大な妄想癖の持ち主だ。只でさえ少なかった真眼は、今では絶滅危惧種以上に少ない。現時点で分かっている所有者はお前と、お前が此れから就く役職の先代となるアリス位な物だろう・・・」
長椅子で気だるそうに話しながら、彼女は気を紛らわせる様に長煙管を銜え、ゆったりと煙を燻らせている。
「真眼の力が強ければ狂気を無力化する事も出来る。先程、貴様が私の僕を只のカードに戻した様にな」
彼女は床に落ちた儘の古びたトランプを他のトランプ兵に持って来させ、指先に挟んで玩ぶ様にゆらゆらと動かした後、不意に中空へ弾き飛ばした。
すると、動く事の無い普通のカードだったトランプは細長い手足と額烏帽子の様な頭部が付いたトランプ兵に戻り、ひらひら床に着地した。
「貴様が上の店で見た海鼠と一緒で、こいつ等も弱い狂気で出来ている。まだ素となる実体が残っているから直ぐに戻せるが、そうでない奴等は中々元には戻らん。無暗矢鱈に見た物を口に出さない事だ。しかし、今の様子では弱い狂気には対処出来ても、其れ以上のレベルの物は外郭の形すら正確に掴めないだろうな・・・」
採用すべきか如何するか、こんな棒きれの様な表六玉で本当に大丈夫であろうかと、本人の居る前で傷付く事をずかずかと口に出しながら一刻ばかり思案した女王は、最終的に〝他に適任が居ないから″という理由で青年を採用する事に決めた様だ。
「ふむ、眼鏡を付ければ使えん事もないか・・・。まぁ良いだろう。貴様のお守兼教育係が来るまで時間が有る。其れまでに真眼の正確な視力を計測して来い。計測場所は、そいつに付いて行けば分かる」
何時の間にか有子の足元にハートの3が見上げる様な形で立っている。
トランプ兵は彼が自分に気付いたのを確認すると、ててて、という表現が似合いそうな足取りでホールの外へ続く廊下へ小走りに向かって行き、青年も其れに追随した。
「お前達、電話を持って来い」
気球の様な丸い身体から、申し訳程度に摘まみ出した様な手足が付いた異形の黒兎達の一匹が、所々金で縁取りを施された象牙製のダイヤル式電話を銀盆と深紅のクッションに載せて運んで来た。其のすぐ後ろでは、もう一匹の兎が電話線を延長する為の機材を背負っている。
彼女は恭しく差しだされた電話の受話器に手を伸ばし、赤く塗った爪の先でダイヤルを回した。
<二話に含まれるアリスの要素に関する解説及び蘊蓄>
今回の話で使用した要素は「廊下」と「穴に落ちる」、「女王」、「トランプ兵」、「イギリス」です。
最初の二つの要素はアリスが兎を追いかけて穴に落ちた事と、その後にたどり着いた奥に小さいドアのある廊下が元ネタで、本作中ではバーに続く長く無数のドアのある廊下とドッキリカメラの様に開いた床の穴として使用しています。
次の二つは解説するまでもありませんが、元ネタのアリスに登場する人物達です。
最後の要素は、アリスが制作されたのがイギリスという事にちなんで、此の話に登場するアリスの出身地はイギリスで、彼女が持っている銃剣は第二次世界大戦にイギリス軍が戦争で使用したリーエンフィールド型というものになっています(只、今後の話では少し触れる予定ですが、今はまだ作中で明言していないので判りにくいかもしれません)。