第三節 月の夜に
「公園にいろっていったよね?」
どす黒いフィルムが車窓に張られているバンが、駅から遠ざかるように走っている。
運転手は見覚えがないが、後部座席、隣にいる男は、先ほど強盗を働いたこの男と何度も会っている。二週間に一度、15万円近く取り立てに来る男だ。大柄で長髪、顔などまったく笑っていないのに声だけは陽気……というのがぱっと言える印象である。
「いったよなぁぁぁ!?」
「はい!!!」
「それがなんであんなとこ歩いてたのかなっ? かなっ?」
「いえ……あの……」
「かなっ!? かなっっ!?」
「す……スミマセン!!」
脂汗でしぼんでしまいそうな彼はうつむいて小さくなったまま一心に謝っている。
「ったくさぁ……たまたま通った道で見かけたからよかったものの……ちょっとイラっとしちゃったよ」
「はい! スミマセン!!」
「いいよ。で、お金は?」
「……」
「心配かけさせられた分、チップも弾んでほしいくらいだけどね」
「……」
「早く出そうね」
「あの……ありません」
「ん?」
「実は……なくしてしまいました……」
そんな言葉が車内に流れた途端、陽気ににやけていた男の動きが、まるで置物であるように動かなくなる。息さえも止まっているのか、彼から音が消えたようになり、車内には一定のスピードで走っているのであろうエンジン音と、ときより対向車線の車が風を切っていく音だけがしばらく煙った。
そのまま……対向車が何台通り過ぎただろうか……。
「なんだとぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!??」
取り立て屋の声はその静寂を壊すなり、怒涛となって男に襲い掛かった。
「おい! 実家教えろや! 今から足りねえ分取りに行くぞ!!」
「いや、それは……」
「早くしろぉぉぉぉぉ!!!」
その男の声に呼応するように速度と道を変えるドライバー。
そちらは薄ら寂しい山道に続く道がある。
今日、これまでにこの男は何度死神に手招きされただろうか。
車の時計を見ると9時だから、長い長い夜が始まって3時間もたっていない。普段ならその時間はパチンコ屋にいるかテレビを見ているかはずなのに、今日に限っては自分は何度三途の川と自分のいる場所を往復でマラソンしているかのようであった。
今も、沸々とした時間が、静かに流れている。
体から脂汗が止まらない。その汗で全身の毛が流れ落ちてしまうのではないだろうか……?凄まれていたときも恐ろしかったが、沈黙と、人の気配が消えていく風景がもたらす恐怖というのは先ほどと比べ物にならなかった。
もし明日の太陽を見ることができれば、新たな人生のつもりで働こう。賭け事や娯楽などには一切手を出さず、ただひたすらにがむしゃらに、与えられた仕事をこなすことを、男は今、誓っている。
明日に現実逃避をすることが、今を生き抜く唯一の手段であった。
車は、勾配のある道に差し掛かった。峠道に入るようだ。
運転者はこの道に慣れているらしく、大型のバンだというのに恐るべき速度で勾配を駆け上がってゆく。
「気が変わった……?」
闇の車内にぽつりと浮かぶ暗い声。その冷たさに、まるで背中に氷の塊でも滑り込まされたかのように男の身体が大きく震えた。
「実家……?」
「そうそう」
「実家……」
男の頭が下を向く。
家族には知られたくない……というのが、闇金に手を出す者が皆一度は行き着く堤防であった。
しかし取立て屋にしてみればそんな債務者の心理には慣れているわけで、終始目元に微笑をたたえたまま、たっぷりと時間を与えた後に、楽しげにつぶやいた。
「冬の峠は、寒いぞーー」
「……」
男の脳裏に一瞬、暗い崖に裸で横たわっている自分が浮かぶ。
苦しみなどは想像もつかないが、ただただ、寒いだろうな……とぼんやり思っていた。
その時、車を一匹のホタルが通り過ぎた。
いや、ホタルよりもはるかに大きな光だ。緑色に発光する"それ"が、高速で左右に蛇行する峠道を駆け登る車を右から左から、物色するように併走し始めた。
「なんだありゃ……」
やたら光るものがちらつくわけで程なく気づいた取立て屋だが、まさか女が飛んでいるとは思わない。隣で小さくなっていた男が、声に反応して顔を上げた。そして、
「あ!!」
驚きを、男はドライバーと同時にした。
フロントガラスに一際近づいた月夜がヘッドライトに照らされて、確かな姿を浮かび上がらせたのである。
「なんだぁ!!」
ドライバーの急ブレーキがタイヤのスキール音となって誰もいない峠の闇を切り裂く。その白い車の巨体はやや後輪を滑らせながら、道幅いっぱいに広がって止まった。対向車線に後輪を残して、道路を塞ぐような形だ。フロントガラスからは白く浮かぶガードレールの向こうに、黒く広がる夜の谷底が見える。
月夜はその少し前方の道に降り立った。その耳にバンッという車のドアが閉まる音が聞こえてくる。
「なんだてめえ!」
そういう声も聞こえてくる彼女と、車から降りてきた運転者の距離は5m。
「その子返してくんない?」
月夜が言う。
「その子だと?」
「ターゲットなのよ」
「なにをワケのわかんねえこといってんだよ。おめえも一緒にさらってやろうか」
飛んでいた気がしたのは不審だが、姿を現したのが小娘であることが運転者を安心させている。
彼は月夜に近づくなり、その左腕を乱暴につかんだ。
「なにこれ、セクハラ?」
「セクハラじゃねえ! ……あぁ、セクハラでもいいぜ。変な女だが相手してやろうか」
「え……? 変……?」
さっき"死神"の時もそうだったが、月夜はそういう言葉がとことん気になるタチらしい。とたんにきょろきょろと自分の容姿を気にしはじめた。
「嘘……どこか変……? ねぇ、私、ヘン……?」
「し、しらねえよ……」
妙な反応にやや狼狽するドライバーの男。それだけではなく、彼は彼女の腕を握りながら違和感を覚えている。
異様な"風"を感じるのだ。そんな風が吹いていないはずなのに、彼女の髪が、スカートが、自分を威嚇しているようにたなびいていた。
「とにかく来いよ!」
その不安を振り払うように強引に手を引こうとする。が、その男は突如、硬直したかのように直立すると、柱が倒れるように音を立てて崩れ落ちた。
「!?」
車内から窓の外を見ていた取立て屋の男にも、なにが起きたのかわからない。ヘッドライトの光軸がずれているせいでよく見えないことも手伝っているが、なにか、スタンガンのようなもので気絶させられたような倒れ方であることは確かだった。
「ふざけやがって!」
彼は後部座席のスライドドアを開けると彼女の前へ躍り出た。特別勇気があるわけではない。彼には気持ちの優位に立てる理由がある。
二発……男の手元が光った。
それに遅れて……人間には同時だが……二つ轟いたのが、銃声だった。
この暗がりのために二つの弾丸が月夜を貫くことはなかったが、彼女はそれが通り過ぎた後、本能的に空中へ舞い上がった。
「反則……」
"妖精"とはいえ、(一部の種を除き)人と比べて特別頑丈なわけではない。月夜は銃を知っているし、それに頭を貫かれれば生命が絶えることも知っている。
となれば、うかつには近寄れなかった。
銃はオートマチックらしい。その後もホタルを打ち落とさん勢いで、殺傷力を量産している。
「ちょっとぉぉ! ずるいよっっ!!!」
月夜も必死で旋回動作を行っていた。
「弾が切れたら怒るからねーーーー!!!!」
とはいえ何発あるかはわからないし、一発でも当たれば致命傷である以上、どうにも対処のしようがない。
実際、普通のキノコであればこの暗闇に溶けてしまえば姿をくらまし身を潜めて様子を見ることもできただろう。が、ツキヨダケの放つ光は、このうすら寂しい峠道には明るすぎた。
ヒュン!!
耳のすぐ横をかすめていく銃弾に、さすがの月夜の表情も硬くなる。
「こ……このきれいな髪に穴が開いたらどうするのよ……」
叫びたいが声がでない。一瞬、ターゲットを諦めることも考えたが、今彼を囲っているのはこんな無茶な男なのだ。嵐が過ぎ去った後、ターゲットが生きているかが怪しく感じられた。
「がんばれ私!」
しかし、そんな月夜の耳に、次に飛び込んできたのは銃声ではなかった。
非常に軽快なエンジンの回転音が、取立て屋たちを乗せてきたバンとは逆方向、くだりの道を滑り落ちてくる。一見、無関係に思えるその音が、状況を一変させた。
つまり、彼らの乗っていた車は、対向車線をまたがって横に止まっているのだ。青いスポーツカーが角を曲がって姿を現したとき、銃を乱射していた男はそれを思い出した。
「うわぁぁぁ~~~~~!!! ぶつかる!!!!」
反射的に対向車線ではないほうへ飛び退る男。次の瞬間、バァァン!!という、金属が触れ合う破裂音がして二台の車が逆方向へ爆ぜた。
それをほぼ直上でみていた月夜。ゴムが焼ける匂いと煙に彼女の姿はかき消されたまま、身を翻したその身体が急降下をはじめ、腹ばいに倒れている取立て屋の男に背中から襲い掛かった。
「うわぁぁぁ~~~!!!」
男の絶叫が終わる時、彼女の槍のような矢印の尖端が、男をわき腹から捉えていた。
それに遅れて聞こえてきたのが、パトカーのサイレンであった。
これだけの時間差があったのだから、彼女の飛行速度よりもパトカーははるかに鈍足だったわけだが、山道に入る左折まで月夜が気を使ったことが彼らを迷わせなかった。なんのかんの言っても親切な娘である。
「大丈夫ーー?」
月夜は後輪側が大破しているバンの中を覗き、声をかけた。中ではあの男が枯れ果てている。
「さ、私は付き合ったから後は付き合ってもらうわよ」
ゆっくりと振り返る男。ギシギシと、油の切れた操り人形のようにきしむ首を彼女に向けると、小刻みに何度もうなずいた。この不運な男はもはやなにを言われているのかもわかってないのかもしれない。
男の手をとって外へ……そこには、高成田の姿がある。制服警官は一人が高成田の裏につき、あとの二人は事故処理や闇金業者の二人にとりついていた。
「あ、そっちに眠ってる子。銃持ってるからよろしくね」
男を探ればなるほどそのとおりのようだ。とくに外傷もないが、毒にあたったかのようにすっかり気絶している。
実は月夜の毒の注入はあの矢印で行われる。木製だし矢印の先端はそこまで鋭利ではないので、突き刺しても殺傷力などないに等しい。が、代わりに彼女のもつ毒が回る。その毒は非常に強力で、ほんの数秒の接触で対象を気絶せしめる威力がある。
「ねぇ、私、どこか変……?」
月夜はこの中年に聞くことにし、一度髪の毛を手ぐしで整えると少し不安そうな表情をした。
「変じゃないわよね……? 結構おしゃれな感じよね……?」
そのままくるりと回ってみたりして、結構必死にアピールしているこの少女が、高成田には本当にわからない。
「君、とりあえず社会に危険だから逮捕されてくれないかい?」
「高成田さん、あせりすぎです……」
後輩に言われ我に返った高成田の目はしかし、泳ぐことなく彼女を映している。
常に上向きの風を従えてほんのり緑色に発光しているこの少女を後日知らぬ者に説明するとして、どう説明したら信じてもらえるだろうか。
「教えてくれないか? 君はいったい……」
「人の質問に答えないでよく質問するよね」
人間は本当に身勝手だと思う。高成田が慌てて「なんだっけか」とあごに手を当てているが、
「もういい」
月夜にしてみれば矢印の後ろに放心男を乗せたから、もうこの場に用はなかった。
「待ってくれ! その男をどうする!?」
「さぁ……」
首をかしげながら、浮いている矢印に腰を下ろした月夜が、「まぁ……」と続けた。
「明日になったら普通に生活してるんじゃない?」
人間に侵されても人間を侵さない……妖精たちのルールであった。
そして、二人で飛んでも十分なだけの風を蓄えた月夜は、
「さよなら」
といいかけてやめた。代わりに、やはり自分のことを言っておくことにする。
「私はね。死神なわけがないし、変でもない、ちょーラブリーーでパンツがセクシーーな女神様だよ。……いい? 覚えた?」
月夜は先ほど男が苦し紛れに吐いた"女神様"が気に入っている。その、なぜか得意げな娘に、高成田の表情がはじめて緩んだ。
「ははっ」
「なにがおかしいのよ……」
「いやいや」
この娘の笑顔の中の必死さが愛おしく見えたらしい。それがこの中年刑事の心に、年甲斐もなくときめいた。
「わかった。そういうことにしておくよ……だが」
高成田は下腹部を指差していった。
「そんなパンツじゃ興奮するわけないだろう! 脱いでけ! 置いてけ!! 僕によこせ!!」
「うろたえすぎです高成田さん!!!」
後輩警官はツッコむことを忘れなかった。
男が正気を取り戻した時、そこは見知らぬ場所だった。
気がつけば自分はロープでぐるぐるまきにされている。もはや逃げるのも億劫であり、こんなことをする必要などないのに念入りなことだ。
思いつつ、耳を澄ますとどこからか女の声が聞こえてくる。
「……いいの? ホントに……」
シャコシャコ
「いいよ。どうせ空千代、まだ一ポイントもとってないでしょ?」
「うん……」
シャコシャコ
「あのターゲットはあんたが先に見つけたモンなんだから、もらってよ」
「でも……悪くない?」
「いいんだってば。私もう何ポイントかとってるし、クリスマスプレゼントだと思って……ね?」
「ありがとう……月夜ちゃん」
シャコシャコ
「うんうん。あいつは散々手間かけたんだし、煮ても焼いてもいいからね」
「あはは、月夜ちゃんったら……」
そんな月夜は、空千代がたった今浮かべた、弱弱しくも柔らかい笑顔が大好きだった。
一方、この最後まで名前すら明かされなかった男は覚悟を決めている。
……どうやら自分は妖怪女に食われるらしい。そもそもあの会話の途中に聞こえてくるシャコシャコってなんだ。……きっと自分はあのシャコシャコで殺されるに違いない。
今日は何度も命を拾ったのに、最後の最後に気持ちをなぶられて死を待たなければいけないとは……。
悪いことはするもんじゃない。きっと来世ではまじめに生きてやろう。きっとそうしよう。
男の、人生最悪の夜は更けてゆく……。