第一節 冬の夜空に舞う蛍
ムスカリア編とは分けて短編を形成しています。
なので、説明文に重複している部分があるのは仕様です。
空気が肌に乾燥と寂寥感を与える季節になってきた。
風が吹けば首筋を通り過ぎる冷気が体にしみるようで、自然、人を覆う布の量は増える。ずっしりと重そうないでたちが目立つ街並みで、しかしその娘は両肩を晒す薄布一枚の軽快なドレスに身を包まれていた。
何かのキャンペーンガールだろう……と、ショッピングモールで彼女とすれ違う人々は一様に思っている。世間はもうクリスマスに染まっているから、そんな赤と緑の季節であることも相まって、彼女の鮮やかな緑のシルエットが意外に気にされないですんでいた。
しかし彼女は表面上、ほとんど緑色をしていない。
ヘッドドレス他、末端にやや緑は見られても、ドレスのコルセットとロングブーツ、そでの大きく開いたアームカバーは黒だし、スカートと髪の色はしいたけのような茶だ。
それでも彼女を見れば皆、その印象を「緑」と答えるだろう。それだけの理由がある。
彼女はショッピングモールを抜けると、おもむろに左手に持っていた一本の棒のようなものを腰掛けるような位置(尻の下)にあてた。ブナの幹をやや奇怪な形に切り出して黒く染めたもので、やや反りの入った矢印の形といえば伝わるだろうか。
なにをしているのかと振り返る目もある中、彼女の身体を支える地面の辺りにだけ、強い突風が巻き起こりはじめる。
ほんの少しの間でその風を十分に蓄えたらしい。彼女の太ももが伸び上がるような動きをすると、彼女と矢印はその上昇気流に乗って一気に飛翔し、すぐに豆粒のようになって消えていった。
呆気にとられた見物人の目に映ってた色が、スカートの裏側に灯る蛍光色の緑と、彼女のかぼちゃパンツの黒であった。
静峰月夜。
今、空を飛んでいる少女の名前だ。
彼女はキノコ妖精(キノコの娘)の一人で、ツキヨダケの精霊であった。ツキヨダケは細胞系の毒を有し、口に入れたものの中には死亡者もいる。暗闇で発光する特性があり、月夜にもそれが受け継がれているために、地味な表側をめくると鮮やかな裏側を覗かせる特徴があった。
彼女は、……正確には彼女を含めた毒キノコの妖精たちは今、とある"競争"を強いられている。無作為に選び出された100人を探し出し、自分の毒で捉えなければならない。
負ければ存在を消されてしまう。自分の種を残すため、毒キノコたちはみな望まぬ戦いに臨んでいた。
彼女たちは"ターゲット"を探すのに、周波数を合わせながら街を往く。ラジオのチューニングのように周波数を変えながら歩くうちに波長が合えば、それがターゲットだということがわかる仕組みだ。
波長が合わないといけないので、極端な例を言えば目の前に"ターゲット"がいても気づかないこともある。逆に目標の発信している波長が強ければ、多少遠くても捕捉が可能であった。
つい今しがた月夜が人目もはばからず冬の夜空へ飛び出したのも、"ターゲット"を発見したからに他ならない。
「そんなに強い波長で呼ばないでよ。他の子にもばれちゃうじゃないの」
ターゲットを捉えるのは早い者勝ちだから、うかうかしていると他のキノコに横取りされてしまう。
彼女は、いっそうの上昇気流を従えて飛ぶ速度を上げた。長いスカートや髪がはためき、裏地の緑がより鮮やかに乱れる。その緑は夜光色であり、街を横断していく彼女を目撃した者には、さながら流れ星のように見えたかもしれない。
その"流れ星"が降り立った場所はとある高層マンションのふもとだった。
本当はもう少し別のところに降り立つ予定だったが、周辺がなにやら騒がしい。そんな喧騒の真ん中に降り立つことの面倒は知っているので、月夜はその人集りからやや距離を開けた場所に着地して後は歩くことにした。
"ターゲット"は、相変わらず強い自己主張をしている。目指すマンションにいることは間違いないのだが、この人集りはなんなんだろう。
宵の口だと言うのにマンションの敷地の中庭のような場所には人があふれ、パトカー、消防車までが出動している。クリスマスシーズンとはいえ、まだサンタクロースが来るには早いはずだが……。
「あ、空千代」
雑踏の中に一人、知った顔がいることに気づいた月夜は彼女のあだ名を呼んだ。
満天に星が瞬く文句のない夜空だと言うのに彼女は青いレインコートに身を包み、雨傘を握り締めて呆然としている。
「あぁ……月夜ちゃん……」
ゆっくりと振り返る彼女が控えめな声と目を向けた。
「空千代もターゲット見つけてここに来たの?」
「うん……一応ね」
なお、彼女の正式な名前は"空"という。イッポンシメジ科、ソライロタケの妖精であり、実際、毒があるかは不明なのだが、"競争"には参加させられていた。
毒もないかもしれないのに、どう"毒"で捉えるのか……。月夜はこの娘にやや同情している。この"競争"ではライバルだとしても、それ以前は気の合う仲間であった。
「他の子たちは来てる?」
「ううん……たぶん……来てないと思う……」
そうか。これほど強い周波を出していながらいまだに気づかれないのなら、しばらく独占して追うことができることは間違いない。
「どこにいるかわかった?」
「……」
空千代は、無言でマンションのほうを指差した。
「んん?」
指を差したといってもその角度が激しい。仰角にして50度くらいになるか。
「あぁ……」
あごも相当上がったところで、視線に入ってきた男がいる。月夜はそれですべてがわかった。アレでは確かに人だかりもできるだろう。
……マンションの屋上で、一人の男が今まさに飛び降りようとしていた。
屋上ではフェンスの向こう乗り出してしまった男を遠巻きに一人の刑事と三人の警官が取り囲み押し問答を続けている。
「死んじゃっちゃぁ何にもなんないと思うよ」
表面の笑顔とは裏腹に、内心では苦りきっている高成田という刑事が他の警官よりも一歩前に進み出て時間を稼いでいた。
下では落ちてきても衝撃を和らげるためのマットの手配や、その後の救急車など、あらゆる可能性に対する対処が進められている。すべての準備が終われば安心……と言うわけでもないが、少なくともその前と後では、この場を任されてしまった自分の責任は大分違う。
「うるせえ! もう終わりなんだよ!! お前らに捕まるくらいならもう俺は死ぬ!!」
マンションの縁に足を半分浮かせて、がなっている25,6の男。紺色のジャケットの内ポケットには十数万の札が乱暴にねじ込まれており、追い詰められた彼がここで助かったとしても、別の意味で助からないことを示している。
高成田はこの"犯人"が犯行後すぐに自分の脇を通り過ぎて言ったことを呪った。追い詰めるなりまさかこういうシチュエーションに陥ろうとは。
「君はたったそれだけの金で人生を捨てるつもりなのかい?」
「お前らが帰れば死なねえよ! 早く帰れよ!!」
経験上、こういう男は飛び降りない。説得に時間がかかるばかりで結局つまらない終わり方をする。面倒この上ないケースであり、この短気な警官にはこういう作業がニガテであった。
「わかったわかった。君の命のほうが大事だ。僕らは帰るから、安心させてくれないかな」
「安心?」
「そのフェンスからこっちに戻ってくるんだ」
「……」
男は一瞬、目の覚めることを言われた気がして静かになる。
「もう馬鹿はやめろ。僕らも君を殺したいわけじゃないんだ」
「……はい」
「君の安全が確保できたら、僕たちもおとなしく捕まえに行くから」
……………
「あ、間違えた」
「ふ……ふざけるな!!」
「あせっちゃだめです高成田さん」
背中からの後輩に耳打ちに後押しされ、ミスを確信する高成田。早く終わらせたい一心でつい口が滑ってしまった。気が焦るといつも答えが短絡的になる悪いクセだ。
「いいから帰れ!」
「だって君強盗しただろ? 僕たちも帰れないんだよ」
「じゃあ飛び降りてやる!!」
おかげで振り出しに戻る屋上。だが、まったくの"ふりだし"でないところで、高成田の集中力はすでに切れていた。
「死なれちゃ困るんだよねぇ……」
その証拠にこの男は手荒に頭を掻いている。周りの制服警官たちはこれが出たとき、彼が高確率で始末書を書かされることをしでかすのを知っていた。
高成田は先ほど耳打ちをした警官を手招きすると、おもむろにその男の腰に手を突っ込んだ。
「え!?」
戻ってきたその手には、拳銃が握られている。
「高成田さん!!」
仲間たちが呆気にとられている中で高成田は仁王立ちになり、銃口を男に突きつけると眉間にしわを寄せて吼えた。
「死にたくなかったら死ぬのをやめろ!!」
「ええええーーーーーー!!」
場は騒然である。
その混乱に輪を駆けたのが、月夜だった。
彼女は、そんな現場に文字通り空から降ってきた。
警官たちと自殺未遂男の真ん中に上昇気流を従えたまま降り立ったため、スカートと髪の毛が煽られて裏地の夜光色がまぶしい。当然その異様な姿はこの場にいる全員を驚かせた。
「あれ?」
だが驚いているのは彼らだけではない。月夜にもこの光景は意外らしい。
「何なのあんたたち」
「それはこっちの台詞だ!!」
「こっちの台詞って言うと……私がなんなの? ってこと?……なんなのって言われてもね……」
月夜は黒い矢印を両手で抱いたまま、きょろきょろと辺りを見回し、ターゲットがやはりフェンスの向こうで目を丸くしている男であることを確認すると、歩き出した。
「わぁ!! いくな!」「わぁ!! くるな!」
前後から似たような台詞が飛んでくる。月夜は一度立ち止まって「どっちかにしてよ」と言ったが、「いくな」と「くるな」は別に矛盾していない。
「君は誰なんだ!」
高成田が叫ぶように言った。
先ほどショッピングモールを歩いていた時にキャンペーンガールと間違われていた時とはワケが違う。彼女は強盗事件の現場に異様な姿を持って、ビルの屋上よりもさらにはるか上から落ちてきたのだ。寒さに凍って幻想的に輝く月の下、淡い光に包まれた少女は、月からこぼれてきた一滴のしずくのようにも見えた。
「誰なのって言われてもね……」
彼女らは自分がキノコ妖精であることを人間に明かしてはいけないことになっている。答えずに歩き出すしかない。
「待て! それ以上動くと警察を呼ぶぞ!!」
「うろたえちゃだめです高成田さん!」
この刑事はうろたえるとわけのわからないことを叫び始める。拳銃を奪われて足を踏まれている後輩警官はしかし、彼が拳銃を突きつけていることを止めもしないまま同じように叫んでいた。
拳銃に暴発されてはかなわないし、この刑事の行動にはいつも驚かされても、取り返しのつかない結果を残したことはないことを知っている。
「そうだった! 警察は僕たちだ! 君! それ以上動くと公務執行妨害だぞ!」
「そういうことは人間に言って」
「なに!?」
「くるなぁぁ!!!!」
なおも近づく女に半狂乱になって叫ぶ男。フェンスにかかっている手をバタバタと動かして女から少しでも遠ざかろうとする。
「飛び降りるぞ! ホントだぞ!!」
(まずい……)
と思ったのは高成田だ。この男、足を踏み外すかもしれない。銃口の先を向ける方向を変えてもあの娘を止めるべきか。
この中年刑事は迷ったが、答えが出る前に女の口から寒空に白く結晶するため息が舞った。
「飛び降りてもいいけどね」
風が、一際強くなる。
「私が殺すまで死ぬんじゃない!」
「ええええーーーーー!!!! あ!!」
その風の圧力に一瞬気を取られた男がぐらりと体勢が崩れるのを、数多くの視線がスローモーションのように捉えていた。
男はビルの縁で、一瞬くの字に折れ曲がったようになった。
手をばたつかせたのも空しく、フェンスの少し先の宙をつかんで手ごたえもないまま、腰から落ち始めた。
ふもとでは野次馬たちの悲鳴が群がり起こる。決してそれが悲嘆によるものではないことが彼らの目がある種の期待感を込めて顛末を追っていることでわかるが、それらが次の瞬間映したものは惨劇でも決死の救出劇でもなかった。
ホタルが舞った。
……ように見えた。
暗がりのキャンバスに緑色の光が迅った。
それは逆さまに落下する男をはるかに越える速度で追いつき、一瞬の接触を経てそのまま中空へ消えた。
はるか遠くの野次馬たちにはそれがまさか空を飛ぶ娘による所業とは思わない。まるで大掛かりなイリュージョンを見せられたかのように声もなく、ただ呆然と立ち尽くして中庭に散らばっている。
屋上のフェンスの向こうでは中年でやや髪の薄くなった刑事が顔を覗かせているが、近くでそれを目の当たりにした彼もまた、似たような表情を浮かべていた。