第三節 夕凪薫る海のパラソル
ジャンケンは多分に心理戦だ。
もちろん真正面から体当たりすれば運の要素も強いのだろうが、例えば連戦となったり、「俺、次グー出すから」などといい始めるところから駆け引きの要素が強くなる。
相手は「グー」を出すのなら、「パー」を出せば当然勝てるが、相手はそれを読んで「チョキ」を出してくるかもしれない。どこまで裏の裏を読むかが勝敗の決め手となる。
ちなみに奇襲で相手の体勢が整う前にジャンケンをさせると、出る手の種類は極端に偏るそうだ。
いずれにせよたかがジャンケンされどジャンケンといえる緊張感が、特に三本勝負の最終戦などになると生まれてくる。
シン……と静まり返る公園。野次馬たちは彼女たちの異様さに固唾を飲んで瞬きもしない。
「最後……」
褐色の髪を一度かきあげたアルゲンティは言った。
「あたいが何を出すと思う……?」
一方、日傘がなくなって太陽の光のまぶしさが気になってきたムスカリアは、それでも笑顔を絶やさずに首を傾けて考えるようなそぶりをした。
「グー……」
「グーか……」
「……か、パーかチョキだと思います」
「当たり前だろ!!」
昔からこのベニテングダケの娘は何を考えているのかわからないところがある。効率性と合理性をもとめるアルゲンティにとってこの天然はジャンケン勝負となると脅威であった。
グーを一番先に言ったことを考えるとグーと予想したか……。ならば相手はパーを出したがっているとして……自分が出すべきは……
「ジャンケン!」
三度目の勝負、あの女が今まで出してきたのはグーとチョキ!ならばここは!!
「ポイ!!」
チョキとパー
「なんでだよっっ!!」
「あは、勝ちました」
"下手の考え休むに似たり"とはこのことか。結局この勝負は勘だけで生きているムスカリアに軍配が上がったようだった。
「では、いいですね? あの人のことは狙わないでほしいです」
「しょうがないな……」
しかしアルゲンティの表情には不敵な笑みが浮かんでいる。
「保険をかけといてよかったよ」
「よかったですね」
その言葉の意味はわからなかったが、自分は勝ったのだから気にしない。
……わけにもいかなかったことを、彼女はすぐに知ることになる。
「あ……」
いつしか、ムスカリアから笑顔が消えていた。とろんと恍惚さを帯びた瞳と脱力した膝の関節がくの字に折れてその場にへたり込む。その腕はやや痙攣を伴って地面の石畳をなでていた。
「ごめんねぇ。あたいたちは何が何でも勝たなきゃいけないんだよ」
ジャンケンの距離は彼女のテリトリーであった。アルゲンティをとりまく黒いもやが知らぬ間にムスカリアの皮膚を通して彼女を冒していたのである。
「せめて傘があれば耐えられたかもだけどね」
見下ろされているムスカリアはそんな声が聞こえているのかいないのか……神経毒を注入され、薄い目の先に何を映しているのかもわからない。
「自分の生命線を簡単に渡しちゃう馬鹿はどうせ生存競争にも勝てないよ。おやすみムスカリア」
「はい、そこまで」
が、その時、不意に呼び止められた声に聞き覚えがあってアルゲンティは振り向いた。
「げ……お前……」
白いワンピース、つばの大きな帽子も髪の色も白。太陽と青空を縫って飛んでいたら天使と見紛う清涼感のある娘がアルゲンティと目が合うなりいたずらっぽくウィンクをした。
「でた、毒毒ゾンビ」
「ちがうわ!!」
腰の辺りに白い羽根まで生やしている天使。しかし実際はそんな幸せの使いなどではない。
「白い死神だっけ?」
「死・の・天・使!!」
欧米では"死の天使"と恐れられている猛毒キノコで、ドクツルダケの妖精、ヴィロサであった。おまけに隣には(一応)その妹であるクロタマゴテングタケの妖精、フリギネアもいる。もっともこちらは現れたわりにあさっての方向を向いてしまっていて、心はここにはなさそうなので問題ないが。
「なんだよー……なんの用だよ……」
先ほどとはうってかわって目の光に力を失うアルゲンティ。
「それは自分の胸に手を当ててよく考えてみなさいよ」
「あ、あたい結構巨乳だね」
「ごまかさない!!」
ヴィロサの瞳が一瞬燃える。つかつかとアルゲンティの前まで詰め寄ると脇で力なく揺れているムスカリアをペシリとはたいた。
「これに、こんなことをしていいのは私だけなの!!」
「……」
黒もやを背負ったキノコのほうがばつが悪そうに目を背ける。こんな昼日中、この猛毒娘相手では何をするにでも分が悪かった。
「今手段を選んでる暇はないんだよ……」
そのままふてくされるように頬を膨らませるアルゲンティ。
「だいたいお前んとこはずるいんだよ! 一族多いし毒はみんな強いしお前自身は猛毒御三家の一人じゃん。曹操? ん? そーそー軍かお前ら。ん? 圧倒的強さでプレッシャーかけていじめっこかよ!」
「獲物のことはいってないわよね? 私は"これ"に"こんな"ことをしたことに"キレ"てんの!」
床に転がった妹の傍らにしゃがんで、頬を「""」のたびにベチベチと平手ではたきながらエキサイトしている姉。
「シャクだからあの獲物はお前にはやんない! もし手を出したら結婚するまでネチネチネチネチネチネチネチネチ追い回すわよ!!」
「おえ……」
アルゲンティも彼女の性格を知っている。追われることになった未来を想像するに、つい胃袋の中身が逆流しそうになった。
「わかったよ……」
と言わざるをえない。
「その代わりその子に毒入れたことはチャラな」
「いいから消えて! 日陰暮らしのアルゲンティ!」
「アニメタイトルを捩んなーーーー!!!」
夜と日陰を好んで発生する腐生菌であることを皮肉られて腹が立つが、とにかくここは分が悪い。震える手を握り締め、なおさら震わせて
「くっ……夜に会ったら只おかないよ! おぼえてろ!!」
すっかり悪役の台詞をはいたアルゲンティは程なく姿を消した。
「"これ"は"ここ"に置いときましょう。傘を取り戻さなきゃ。もうほんっとに……自分の傘を渡す"馬鹿"がどこにいるのかしら。あ、"ここ"にいるわね!」
「お姉、ムスカリアの顔の形が変わっちゃうよ……」
それにしてもこの姉妹はいつからいたのだろうか。やけに事情に詳しいようにも思える。
「フリゴはあっち探してね。わたしはこっちに行くわ」
「え……もう一回」
「フリゴはあっち」
「ごめん、もう一回」
「音量落としなさいーーー!!!」
相変わらずフリゴのヘッドホンは耳を覆いっぱなしだ。「耳と同化しちゃった」と以前この少女は冗談めいた事を言っていたが、それほどに彼女は音楽を肌身離さない。そのエピソードについてはいずれ話す事もあろう。
ともあれ、赤目の二人は左右に散った。何せあのような大型のパラソルだ。彼女らの足のほうが人間よりはるかに早いから、よっぽど上手に隠れているでもない限りは見つけ出すのに時間はかかるまい。
しかし……。
…………………
「灯台下暗し」とはよく言ったものだ。
「よいしょっと」
すべてが消えて静かになり、周りのギャラリーたちも映画の撮影と思っているためかだれも眠ってしまった少女のに近寄ってこない中で、巨大パラソルを携えた少年は坂道の死角をよじ登って戻ってきた。
要するに彼は逃げていなかった。そのフリをして、ぐるりと回って裏側の一角に身を潜めていた。なにせ幼い頃から馴染みのある公園だ。ここならたとえ警察に追われても何とかできる自信があった。
彼女たちが何をしていたかはよくわからない。ただ、日傘を借りた少女が高台で眠っていることはわかる。なにが起こっても不思議はないともはや思っている中で、それでもまさか死んでいるのではないだろうと言う楽観を胸に、彼は少女の脇に立った。
「蒸仮屋さん。大丈夫?」
反応はない。ただ、たまに小刻みに動いているのと、何か夢を見ているのだろうか、
「界面活性剤は怖いです。むにゃむにゃ」
などと意味不明なことを口走っている声がどこか気持ちよさそうなので、心配ながら安心はしていた。
ムスカリアが気がついたのはそれから15分くらいだろうか……が、たってからだった。
はっと目を開けたかと思うと、腹ばいに突っ伏してる自分と、彼が自分の傘を持っている姿を交互に見て、上体を起こした。
寝ぼけたような声がついてくる。
「……どうしてわたしの傘は寝てるんですか?」
「ちがうちがう、それを言いたいならなんでわたしの傘を俺が持ってるのか? と、わたしは寝てるんですか? だよ。混ざってる」
「あはは、そうでしたか」
にっこり。その笑顔は冗談抜きにかわいらしいと思う。妙な女であることは間違いないが、それを割り引いても無視ができず、その魅力にとり憑かれてしまっている様子が、この15分間、片時も離れず、隣で座っていた様子からも伺える。
「なんか……ほっぺた痛いです」
「それは俺じゃない」
「そういえばわたし、すごい幻覚を見ていました」
「どんな?」
「わたしが人間になってるんです」
「はぁ?」
「そして、結婚式していました」
「ちょっとまて」
明らかにそんな内容の寝言じゃなかったぞ。いや違う、どこをツッコめばいい?人間になる?結婚式?……佐久夜は迷ったがこう返すことにした。
「だれと?」
するとその場に座りなおしたムスカリア。白くて細い人差し指を目の前の男に小さく突きつけて
「忠吉さん」
と言った。忠吉……もとい、佐久夜はなんともいえない表情を浮かべて目を泳がせる。
「あは、、は、そんな夢を見たのかぁ」
「不思議ですね」
無邪気に笑っている彼女が両手を差し出した。
「傘を……大事なものなんです」
「そうだった。ありがとう。おかげで止まらないで逃げられる勇気がわいたよ」
いいながら、この笑顔の妖精をじっと見つめる佐久夜。自分には今、この妖精に対して、昨日にはなかった感情があることに気づいている。
「あのさ、蒸仮屋さん」
「はい」
「もしよければさ……もうちょっと話さない?」
彼女にいろいろなことが聞きたかった。彼女のことをもっと知りたいと思った。
だがムスカリアの乾いた立ち上がり方は、それを拒絶するかのようにそっけない。
「忠吉さんがだめなら次のターゲットを探さないといけないのです」
「まって、その話も聞きたいんだよ」
慌てて立ち上がる佐久夜。
「俺がまだターゲットってやつだったらもうちょっと話してくれる?」
「いいんですか?」
……見つめあう二人の瞳が西日に照らされて美しく輝いている。互いに互いの姿を映し出し、少しだけその瞳で会話をしたのだと思う。
「……いいよ。蒸仮屋さんになら」
佐久夜は、この港の見える公園から海へ飛び込むような気持ちで静かにそう言い放った。もちろん、なにをされるかわかったもんじゃない。"毒"が本当なら只ではすまないだろう。
それでも佐久夜は踏み切った。
自分のことよりも、そう告げてみたらこのあどけなくも純粋な瞳の奥がどう揺れていくのかを、見てみたかった。
ムスカリアは、その瞳を瞬きもせずに受け止めていた。その視線が伝えてくるものを理解できるほど彼女の心は大人ではなかったが、今日今までの一連の出来事を経て、なおそういう決断を下してくれた佐久夜の気持ちの重さだけはなんとなく理解できた。
「ありがとうございます」
一度、大きく頭を下げる。再び目が合ったとき、彼女の笑顔は女神のようだった。
「わたしは鈍いから、たぶんそんなに成績は残せないと思います。だから、忠吉さんは特別な人になるでしょう」
「……えっとさ、その前に忠吉について謝らなきゃいけないことがある」
「なんですか?」
「まぁ、ベンチでも座ろうか。その日傘の下でゆっくり話そう」
港が夕焼けに染まってオレンジ色の光と、黒い影のまだらを作り出している。夕凪の穏やかな空気に身をゆだねて、妙な形の相合傘がほんの15分ほど、公園の風景となった。
目を開けると視界は見渡す限り黒い。
白い点々がところどころに散らばっている中に、一つだけ大きな丸い白がある。
「空じゃん」
佐久夜はそれが星や月であることはすぐにわかった。
「夜じゃん」
がばっと起きて辺りを見回す。公園にはポツリポツリと外灯がともり、土曜の夜に星の風景を求めたカップルたちが何組か一つになってくっついている。
「生きてんじゃん!!」
立ち上がった。生きてる。死ぬと言う認識も薄かったが、こんな形で夜空を見上げるつもりで彼女に覚悟を語ったつもりもない。いろいろ確かめるかのように腰を回してみたり屈伸をしてみたりと身体を動かしてみるが、機能が失われていることもない。まったくといっていいほど、昼間と同じだった。
「……」
しかしそうなってくると、先ほど起きた奇跡の痕跡がどこにもないことを知る。
あの不思議の国の妖精のような、浮世離れした少女との出会いを知るものなど誰もいない。後日知り合いにこのことを語っても、到底信じてもらえるとは思えなかった。
だがたとえそれが刹那の時だとしても、確かに二人はあの大きな日傘の中で会話をした。ムスカリアは苗字じゃないところから始まって、いろいろな話をして……自分はなおさら彼女のことが好きになった。
わからないことばかりだったし、教えてくれないことも多かった。でも、
「またいつか会えるかな」
という問いに対してあの笑顔の妖精は確かに
「会えると思います」
と言ってくれた。
あれは、すべて夢だったのだろうか……?
……静寂だけが公園に漂っている。どこをいくら見回しても、嫌なくらいにいつもと同じ高台の夜景であり、自分はただ一人でうたた寝していただけの男であった。
ため息一つ。徒労に腰を折られ、力なくベンチに座りなおす佐久夜。
「ん?」
身体を支えた右手に何かが触れた。
「これは……」
"それ"が、しばらく彼の視線を釘付けにしている。
日傘だった。赤い地に白い斑点模様。これは確かにあの娘の持っていた日傘、のミニチュア?いや……
「キノコ?」
正確には、彼女の日傘を模したような大きな傘を持っている真っ赤なキノコだった。
それはベニテングタケ……ムスカリアが宿っているキノコであり、洗礼を受けてくれたことに対する彼女なりの礼だったのだろう。キノコの毒としては決して強くないが、間違って食べたりすると下痢や嘔吐に終日悩まされることになる。
……もちろん、それでも彼のインスピレーションは「彼女が"キノコの娘"だった」と言うゴールには行き当たらないし、そもそも彼女が置いていったものかもわからない。
ただ、そのキノコをまったくの偶然とはしなかったことは、彼がそれを持ち帰って煮て食べてみたことでもわかる。
いうまでもなく、その週末はゲリ一色で染まったわけだが・・・。
「えらいえらいムスカリア!! 大好きよぉーーーー!!!!」
キノコの住む場所では先ほどからしきりに長女ヴィロサがはしゃいでいる。
「やっぱお前はやる子だと思ってたのよーーー! えらいわムスカリア! キスしてあげちゃう!!」
さっきからずっとこねくり回されてさすがにふらふらのムスカリアは笑顔だが、どちらかと言うとそれは苦笑いに属すだろう。
「でもわたし、毒であの人を殺さなければいけない競争だったらできなかったと思います」
人間を毒で捉えればよかった。議会も多くの"娘"たちも、殺すことなど望まない。それはルールというよりも、彼女たちに古来から染み渡っている温厚さだった。
彼女らは毒をもっている。でも、それは決して相手に危害を加えるためのものではない。人間たちがそれに気がつかなくても、だ。
「でもさ、ムスカリアったら自分の苗置いてって、あんなの食べちゃったらどうするの?」
その隣ではフリゴがややあきれている。礼のつもりで置いていったのであろうあの毒キノコ……人間にとっては完全に「恩をあだで返す」ようなものだ。
それに対してムスカリアはちょっと得意げに胸を張る。
「万が一そうだといけないと思って、タケの中でも一番おいしいのを選んで置いておきました!」
「そういう問題じゃないでしょ……」
思慮深いけどズレている。でも、フリゴもそんなムスカリアが嫌いじゃない。
「佐久夜さんはいい人でしたから」
「へーー、ほれちゃった?」
「いえ、ぜんぜん」
顔色一つ変えずに言い放つムスカリア。嫁になる夢(幻覚)を見たとてこのマイペース娘には関係ないようだ。なお、佐久夜がほのかに抱き始めた感情にも彼女はまったく気づいてはいない。
「でも、いつか会いたいと言われたので、また会うと思います」
「……その時のプレゼントはシメジかナメコにしてあげなよね」
「いやです」
「そういうと思った」
こんな性格の彼女にそれほどの毒がなくてよかったと思う。ヴィロサがこんなだったら人間の死傷者はさぞ多かろう。
フリゴはにこりともせずにそんなことを考えていた。
「とにかく!」
ヴィロサはその輪に入りたくて仕方ない。
「貴重な一ポイントゲットよね! テングダケ一族の存続のためにこの調子でがんばろーー!! ……あーーーもう一回キスしちゃう!!」
「もういいですーーー!!」
そんな喧騒も華やかなテングダケ姉妹の住処。毒キノコの存亡をかけた妖精たちの"競争"は、まだ始まったばかりだった。