第三節 笑顔のあった街
一つ問題がある。
彼女は病院の医師と看護師をぶっ飛ばして帰ってきたのだ。このままですむはずがない。
もちろん、人間の街の片隅に悠斗をほっぽらかして帰ってくればいいのだが、それでは今のフリゴにとって、望む解決にはならない。
となると、彼と親族をつなげる糸口はあの病院しかなく、今言ったように、それは面倒を起こした人間たちと再び接触することを意味している。
しかし、ヴィロサにその旨を相談してみると、この姉には案があるらしかった。
「任せなさい。そこは何とかしてあげる。行くわよ」
「どこへ?」
「ちょっとお友達の家まで」
彼女のウィンクはフリゴをいつも助けてくれる。
「お邪魔しまーす」
そしてづかづかと乗り込んでいった先は同じキノコ妖精でもテングダケではなく、モエギダケ一族のテリトリーだった。
「かくかくかくかく……」
「あらキューベンシス。今日も元気そうね」
「かくかくかく」
瞳孔が開きまくって小刻みに震えているショートヘアの娘、シビレタケモドキの妖精、キューベンシスは直立した状態で首だけヘンな角度に曲がったまま、ヴィロサに向けてにへらと笑みを浮かべている。どう見てもトリップしているようにしか見えないが、意思の疎通が怪しいだけで彼女自身はちゃんとものを考えているという。
……と、誰かがそういってた気がする。自信はない。
それくらい圧倒的なトリップっぷりなのだ。その説を信じるには催眠術か何かが必要な気がした。
出迎えてくれた?彼女は素通りしても立ち尽くしたまま妙なリズムでゆれているだけなので、挨拶もそこそこに奥へ進むと、三人の先にはまた一人の娘がいる。
もっともこちらはヴィロサたちを見るなり、明らかにいやそうな顔をした。
「うへぇ……」
「うへぇってのはモエギダケ一族の方言?」
「共通語でいやな奴が来たときに出る心の叫びだよっ!!」
彼女の名前はシロシベ=アルゲンティ。モエギダケ一族の長女で、一応はキノコの山が設定した生存競争のライバルでもある。
「いいからネクラのあんたに頼みがあるのよ」
「な……なんであたいがお前の頼みを聞かなきゃなんないのさ!」
「あら? そういうことをいう?」
ヴィロサが一歩進み出る。
「うちのかわいいかわいいかわいいかわいいムスカリアに手をかけたあんたにもう一度お願いしてもいい? 頼みがあるの。ねぇ、頼みがあるのよ?」
このねちこい言い草。アルゲンティは顔をしかめるしかない。
その因縁は少し前の出来事だ。ターゲットをアルゲティとヴィロサの妹分に当たるムスカリアが争った際に、彼女を幻覚毒でこん睡状態に陥らせたことをいっている。
「あんたの幻覚毒、ちょっと借りたいのよ。お願い。えっと……ア……ア……アップルティ?」
「アルゲンティだぁぁ!!!!」
「あ、そうそうそうそう。度忘れよ度忘れ。アリエッティに近い名前だった気がしたのよ」
「ふざけんな!!」
何で名前も覚えてない奴にこき使われなければならないのだ。ここはモエギダケ一族のプライドにかけて断固拒否をしなければならない。
「お前とはライバルなんだぞ! 何でライバルに塩を送るようなことをしなきゃならんのよ! ふざけるのはやめろ!」
「あはは」
微笑むヴィロサ。その目が光った。
「じゃあふざけない」
「え……?」
一帯に、白いもやがかかっていく。特にそれに毒性はないようだったが、その中心にいる白い天使のようなドレスを身にまとったヴィロサが、大きなつばのある帽子に隠れて、ぶつぶつと何かをつぶやき始めた。
「名前も忘れない。未来永劫お前の名前を忘れない。手伝ってほしかったときに何もしてくれなかったことをお前が何度死んで何度生まれ変わっても忘れない……」
「ま!! まて!!!」
何もないのに、ゴゴゴゴゴゴという地鳴りがするような感覚にとらわれるアルゲンティ。
「うふふふふふふふ。モエギダケ一族……モエギダケね……かわいぃ名前だわぁ……」
ヴィロサはキノコ妖精の中でも、その毒性において他の追随を許さない。……それも恐ろしいが、何より恐ろしいのは彼女の持つドロドロの執念深さだったりする。
「まて!! 覚えるな!!」
「手伝ってくれなかったモエギダケ一族……。手伝ってくれなかったアルゲンティ……うふふふふふふふ……」
「ま、まて!! 手伝う!!! 手伝わせろ!!!!」
「うふっ、アルゲンティはショートカット、ネクラなシビレダケ……」
「話を聞けーーーー!!!」
ヴィロサのつぶやきは、それから実に1時間もの間続いたのであった。
「で、なにをしろってのさ」
人間の住む街。例の病院の前まで連れてこられたアルゲンティはヴィロサ、フリゴ、そして一応泣き止んでいる人間の子供を見た。ヴィロサは言う。
「この建物の中にいる人間たちに昼間のことはなかったことにしてほしいのよ。フリゴがこの男の子を病院に連れてくる前の状態の幻覚を見せてあげて」
もちろん病院の医師や看護師はフリゴのことをまだ知らないことになる。それからの行いがよければぶっ飛ばされた現実のほうが夢のように思えるだろう。
アルゲンティはもちろん本心から率先して手伝ってやりたいわけではない。
(フリギネアの奴が診察室で小便たらした幻覚でも見せてやろうかな……)
「間違ってフリゴが小便たらすような幻覚見せたら楽しいわよねぇ」
「ぶはっっ!!!」
ヴィロサは笑顔だ。
「楽しすぎて……私もつい手が滑っちゃいそうだわ……」
「て……? ど、どういうことだよ……?」
「気にしなくていいじゃないかしら。まさか私の友達がそんないたずらするわけないんだし」
「いつあたいがお前の友達になっ……はっ!!」
なぜか、ヴィロサの目はアルゲンティを通り過ぎて遠くを見ている。笑顔を作っているつもりのようだが、恍惚にとろけたその表情と、薄く微笑んでいる姿、そしてその両手がねっとりと怪しく蠢いている様子から想像できるのは紛れもない。白い天使ではなく、死路の天使だ。
……すでに心の中では"手が滑って"いて、それを楽しんでいる……。
そう思えてアルゲンティの背筋はシュンと寒くなった。
「心の友達よね……? 私達」
「お、おぅ……」
マニアックな言い方でこれをジャイアニズムという。
アルゲンティのきのこは通称「マジックマッシュルーム」とよばれ、かつては合法的に世間に出回っていた。
覚せい剤などに比べれば弱い幻覚作用があり、人にさまざまな夢を見せることができる。
今回はその力が活きた。医師や看護師は朦朧とした意識の中でそれでもはっきりと"フリゴが悠斗を連れてくる前の彼ら"に戻っている。
「ダメじゃないか。勝手に病院を抜け出したりしちゃ。お母さんも心配していたよ」
そして、この医師は前回と同じような反応を示した。
その口調に対しては、フリゴは前回同様に"イヤな奴……"と思ったが、今回は姉がいる。すべてを飲み込んで、何もせずに黙っている。
そうしてみると、状況も自分自身の頭も、冷静にまわっていくらしい。、
「ありがとうございます。この子は予防接種の予定だったんですが、嫌がるあまり、一瞬の目を盗んで病院を出て行ってしまいまして……」
「ちっくんいやだぁぁぁぁ!!!」
悠斗はその言葉を知っていたようで、聞くなり腰を引いて泣きながら後ずさりしようとした。
一方のフリゴは注射も分からなかったが、予防接種もわからない。あまり人間に興味がない娘なので、ちょっとツッコんだ専門用語はまったく知らないらしいことを、今日はじめて知った。
だが、悠斗がこんなに嫌がるのだ。気持ちの良いことではないのだろう。そして、そんなに嫌がることをするからには人間にはそれをしなければならない事情があるのだろう。
……ここまで思考が回ったとき、彼女は一つ、悠斗のためにできることを思いついた。彼女にとって、「ようやく」といっていい。彼に対して無力な自分ができること。
フリゴは視線を低くして悠斗の両肩をつかまえる。そして言った。
「ゆうと。あたしが先にちっくんしてあげる」
「え?」
声を上げたのは悠斗ではない。フリゴの背中で医師が呆気に取られた気持ちの表れだったが、フリゴは気にしない。
「ね、あたしもがんばるからお前もがんばんなよ」
「ちっくんいやだぁぁぁ!!」
「いやだじゃない!! 男でしょ! あたしがやったのにおとなしくやらなかったら本気で怒るからね!!」
その勢いに圧倒されて黙る悠斗。その返答も待たずにフリゴは立ち上がると、ずいっと白衣の男の前に仁王立ちになった。
「先にあたしにちっくんして」
「いや……そういうわけには……」
「ゆうとはあたしがやれば必ずやる。だからやって」
フリゴはヴィロサのように遠回りな言い回しはできない。直球のみでストライクを狙いにいく。
「しかし……」
「大丈夫。あたしはなんともなんないからやって」
「でも……」
「やって」
「だけど……」
「やって」
医者はそんなやり取りをしながら、なぜかこの娘に対して強気に出られない自分がいることに気づいた。
初対面のはずなのになぜか初めて会った気がしない。それどころか、自分はこの娘に"恐怖"を叩き込まれている気さえする。
「分かりました……」
なぜか実感のこもった身の危険がぬぐいきれず、逆らうのはやめようと思った医者のほうが結局折れた。ブドウ糖か何かを注射しておけばよいだろう。
「ゆうと、見ておきなよ。ちっくんなんてたいしたことないってとこ見せてあげるから」
「……」
悠斗にとってはなんだかよく分からなくなったが、とにかく黙っている。
「では、左手を出してください」
準備ができたようで、椅子に座らされたフリゴ。見守るヴィロサ、悠斗、アルゲンティ(←無理やり)。
アルコールで肌をなでた医者は、なにやら針のついたボールペンのようなものを右手にした。
「え……それ刺すの……?」
手順を見ながらやることが予想できたフリゴが動揺する。
「そりゃ、注射ですから」
つい、ヴィロサのほうへ振り返ってしまう。が、その視線の先には悠斗もいる。
「やって」
視線を医師に戻し、言い捨てて音楽のボリュームを最大に上げた。
目をつむり、いや、やっぱり刺さる瞬間見ていないと心の準備ができないから目を開けて、徐々に近づいてくる針に恐怖しながら音楽に身をゆだねる。
~~♪ いつか時が過ぎて僕が君を忘れることがあっても……
そして刺さってくるだろうタイミングが分かったので、やっぱり目をつむった。
~~♪ あの日に見た笑顔、喜び、寂しさ、痛み全部……
来る!
フリゴは身をこわばらせて、針が腕の皮膚をめくった瞬間を感じ……
「いっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!」
言葉にならない未知の痛みにフリゴは唇を噛み締める。それとともに、自分の中に何かが押し入ってくるようでそれが一ミリ一ミリ痛くて、痛くて、痛くて、フリゴの呼吸は今、止まってしまっている。
~~♪ なかったことにはしない
(なかったことにして!!)
痛みにまぎれて聞こえてくる音楽に毒づきながら、しかし悠斗の前では絶対に泣くまいと思う。
~~♪ それが"君といた"という証だから
~~♪ それが、初めから別れを感じていた君の たった一つの贈り物だから……
「ほら!!! 全然平気でしょ!!」
針が抜かれた腕を消毒もせずに立ち上がったフリゴが息を止めたまま悠斗の前まで小走りになって、それだけを言うと半ば抱きかかえるようにして悠斗を医師の前にいざなった。
~~♪ それが、一瞬でも君を愛した、僕の宝物だから……
注射も終わり、なんとなく白い時間が流れる中で
「あたい、もう帰ってもいいの?」
「うるさい。あんたは黙ってて」
アルゲンティを一蹴したヴィロサがフリゴを抱きしめてあげたい気持ちにかられている。こんな妹が、彼女は大好きなのだ。
そんな折、病院に悠斗の母親が舞い込んで来る。悠斗は激突せんばかりの勢いで走り寄って、盛大に泣いていた。
フリゴはその様を、しばらく見つめていた。なにを思っているのか、じ……っと、瞬きもせずに見つめている。
「帰ろ。ヴィロサ姉」
やがて、もう興味もないといった風にその二人を通り過ぎ、姉のことも通り過ぎ、部屋を出て行こうとした。
「あ、すみませーーん。この子の面倒見ていてくれたんですよね。ありがとうございましたぁ」
母親の声が背中からする。
「ほら、"ありがとう"言いなさい。あ、ほら、行っちゃうよ。ばいばいして」
ふりむけば、憑き物が落ちたようなすまし顔で手を振っている悠斗がいる。
「……」
フリゴは何も言わなかった。ニコリともせず、彼に視線を送って、部屋を出て行く。
それが彼と彼女が目を合わせた、最後だった。
帰路、アルゲンティはさっさと別の道を行ったから、フリゴはヴィロサと二人で歩いている。妖精たちの住む処。山……なのだが、彼女たちはどの山に分け入っても共通した入り口を知っており、そこから次元や時の流れが違う森へ向かう。
先ほど乙姫の話が出たが、彼女の住処、竜宮城のような、ある種の異世界である。
その間ヴィロサはずっと、妹の様子を伺っていた。
特に変わった様子はない。聞いてか聞かずか聞こえずか、音楽を聴いている彼女に二三言葉をはいても、満足な返事は返ってこないのもいつもと同じだ。
だが、ヴィロサは分かっている。この妹の黒いショートヘアをそっとなでると、
「もう、泣いてもいいんだよ」
と、言った。
その目は一度、ヴィロサを映した。ネチこくて執念深くて口が悪くて、それでもこの姉がフリゴは大好きだった。なぜなら、ネチこくて執念深くて口が悪いこの姉は、フリゴを初めとする一族の妹たちのことを本気で愛していて、誰よりも深く、気持ちを汲んでくれるから……。
ヴィロサの姿がモザイクがかかったようにかすんでゆく。涙でいっぱいになった瞳と、みるみる崩れていくフリゴの表情……。やっと泣けるという安心感が、彼女をヴィロサの胸に飛び込ませた。
「あーはーはーはーはーはーーーん」
「こらこら、意地張って笑ってないで、泣いていいんだからね」
「泣いてるのっっ!!!」
……結局、悠斗には何も伝わらなかった。あんなに彼に何かがしてやりたいと思ったのに。あんなに、愛そうと思ったのに……。
「馬鹿ねぇ」
姉はそんなフリゴをそっと抱きしめると、ポツリとつぶやいた。
「愛そうと思う気持ちが伝わらないわけないじゃないの」
フリゴがピクリと肩を震わせる。この姉は心でも読むのだろうか。
「私なんていつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもお前たちを心配してクドクドクドクドからんでるのに、お前たちは出来損ないだから、いつもいつも全然まったくてんで伝わらない」
言葉の悪い姉は「でもね」と言った。
「それでも、私がお前を愛してる気持ちだけは伝わってるでしょう? それでいいのよ」
何かを言ってそれが伝わったとしても、人はそのことでそうそう変わるものではない。でも、その人に対して一生懸命を振り向けたことだけは、伝わっているものだ。
「今日のこと、何もなかったらよかったと思った?」
フリゴの脳裏に今日一日が流れ込んでくる。それはセピア色ではなく鮮明な色みを帯びて、彼女の心をなでて通り過ぎていく。
……彼女は泣きながら首を横に振った。
そんな頭を再びなでてやるヴィロサ。
「……お前は偉かったよ。よくがんばった」
そして万が一、自分のしたことが何も伝わっていなかったとしても……伝わらなかったことを残念に思ったとしても……それに後悔がないのなら、"それ"は、必ずいい思い出になるのだ。
「それにしても、ちっくんは痛そうだったわ。見てても」
「あははははーーん。ちっくんはもうイヤだーーー!」
「ぷっ」
ヴィロサがとうとう吹き出した。
「なにがおかしいの!?」
「だってフリゴったら笑いながら泣いてるんだもん。こっちも笑っちゃうわよ」
「超真剣に泣いてるのっっ!!」
「あぁもぅ!!……かわいいんだからぁぁぁ!!」
ヴィロサはそんなフリゴがかわいらしくてたまらないらしいが、フリゴはこれだから、泣くのが大嫌いだった。
そういえば……。
フリゴの目指したあの街のターゲットはどうなったのだろう。
もはやどうでもいい感が漂うが、この話には一応のオチがある。
今回の話の舞台となった小児科。その院長、緒方健三が、実はターゲットだったのだ。
誰も波長を合わせようともせず、またそのこと自体を忘れていたので、それが明るみになったのは後日……アルゲンティにポイントが入ったことによる。
そう。毒でターゲットを捉えることがルールである"競争"において、いやいやながらに幻覚毒で夢を見せたことが、結果彼女に幸いした。
「こんの馬鹿フリギネアーーーー!!!何で気づかなかったのよーーー!!」
「お姉だって気づいてなかったくせにあたしのせいだけにしないで!!」
などと、阿鼻叫喚が遠くで鳴り響いているその影で、
「クックックック……」
アルゲンティは笑いが止まらない。彼女はその喜びを、毎日したためている日記、通称"恨みます通帳"に羅列していた。
「本日、憎き毒の天使を出し抜いてポイントをゲット。これも日ごろのアイツの行いの悪さだろう。ついでにもっと悪いことが起こればいいのに。カップやきそばのソースを間違えてお湯入れる前にいれてしまえばいいのに。買い物行ったら買い忘れがあって、もう一度店に行ったら売り切れていたりすればいいのに」
……それは、ネクラとよばれるアルゲンティの、本領を発揮する内容であった。




