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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

シックス・フィート・アンダー

作者: 城岩 碧海


※第5回創元SF短編賞で第1次選考を通過、第2次選考で脱落した作品です。所属している文芸同好会の部誌、文芸部交流会で散文部門にも出しました。一部修正してあります。部誌掲載時、交流会提出時のタイトルは「メモリアル・オブ・ザ・デッド」でしたが、あまりにもB級ゾンビ映画風なので変更しました。

※ゾンビものですので一応R-15にしましたが、それほど残酷な描写はないと思います。

丘を登りきると海が見えた。

 濡れた芝生の緑と、その上に散らばる幾つもの白く小さな墓石の向こう。そこに広がる水平線は夜中の空の色だった。まだ明け方であるのと、昨日からのぐずついた天気のせいで、ここから見える景色に清々しい青色はなかった。

 紺碧という言葉は美しすぎて、風で泡立つどす黒い波を表現するのには似合わない。人間の血が青色だったなら、体外に流れ出して乾き果てた血溜まりは、こんな色なのかもしれない。

 波は岸壁にぶつかりながら生臭い潮のにおいを巻き上げる。下にあるどす黒い海との境界があいまいな空は、きれぎれの灰色の雲に覆い尽されていた。

 まるで魚の腹だ。ささくれ立った、鮮度のない鱗。海は残り半分の、かろうじて色彩を残すぬめった背だ。魚は浜辺に打ち上げられて死んでいるのだろう。まさか背泳ぎはしないだろうから。

 僕は陰鬱な海から目を逸らし、今来た道を振り返った。

 ここまでの道のりは舗装されてはいるものの、長い間手入れをされず、獣道になっていた。僕は靴にへばり付いている湿った芝生をはらってから、墓地の奥へと足を進めた。空気は湿気と埃の匂いを含んだまま、いくつもの大理石にぶつかってすっかり勢いをなくしたように滞留していた。

 両端の墓石はどれも静かに画一的に並び、殉職した戦友を敬礼で見送る兵士たちのようだった。

 硬く冷たい墓標の列の先にそびえ立つ塔があった。

 鉛色の空と青黒い海を背に立つ巨大な白い塔。側面には数えきれないほどの名前が刻まれている。それは慰霊塔だった。

 僕は冷たい平面に彫りこまれた祈りの凹凸に指を這わせた。

 複雑に曲がったくぼみから、昨夜に溜まった雨水が流れ出す。墓標が涙を流しているかのようだ。長いこと誰にも悼まれなかった亡者たちが、久々の柔らかい感触に気付き、とたんに痛みや悲しみを溶け出させている。聞いてくれ、聞いてくれと。

 今通ってきた墓石の群れの中で、実際に骨が埋められているものは少ない。そのほとんどが墓標に書かれた名前の持ち主の遺品の服や、貴金属、思い出の品などだ。

 その中にもわずかながら最後まで人として死ぬことができた幸福な人々の骨があるかもしれない。

 しかし、この慰霊塔の下には無数の骨が埋められている。人としての記憶や理性を失い、生きていたころの面影をなくして変わり果てた姿のまま、最後はごみ山のようにまとめて燃やされた骨たちが。僕はあの災厄の中、どうにかしてこの肉を骨から引きはがされずにここに立っていられる。

 そのとき、


「朝から珍しいな」

 僕は声をかけられるまで、後ろに人がいたことにすら気がつかなかった。あの頃はすべての音が実体をもって僕らを追い詰めてくるように感じたというのに。

 声の方を見るとひとりの老人が立っていた。僕が彼に愛想笑いを向けようとすると、彼はそれよりも早くしっかりとした足取りで僕の横を通りすぎ、慰霊塔に対峙した。

 老人は犠牲者たちの名前の列を仰ぎ見た。古いガラスのように曇った瞳は壁面の白をフィルターに、とてつもなく遠いところを見つめているようだ。僕はただその痩せた背中を眺めていた。

 長い沈黙のあと、老人は踵を返して歩み寄り僕の隣に並んだ。僕が今更ながら何か言おうと必死に頭を働かせていると、彼が唐突に口を開いた。

「あんた、よそ者だろう。今更墓参りか」

 せっかくの助け船だったのに、僕はしどろもどろだった。

「すみません、今日は私の知り合いの命日だったので」

 昔は、自分のことをなんと言っていただろう。とりあえず使った「私」という言葉が妙に白々しい。そういえばここ最近に人と話した記憶はない。最後に仲間と交わした言葉は何だったろうか。老人は僕の言ったことには何も答えず、少し黙ってから切り出した。

「あんたも、生き残りか」

 老人は身体を海に向けたまま唇を噛みしめていた。

 肌の白い痩せた老人が身じろき一つしない姿は骨格標本のようで、目尻と乾いた唇だけが赤い。その中で喉仏だけは老人に寄生した別の生物のように上下に動いていた。

「忘れてくれ」

 僕が何か言う前に老人がつぶやいた。僕は首を横に振り、いえ、と答える。それからさらに言葉を続けたのは、誰かと話がしたかったからなのだと思う。


「気がついたときにはもう、周りは奴等だらけでした」

 僕の言葉に老人がうなずく。

「私たちはわずかな生き残りを集めて、廃工場に籠城しました。時間の経過でどうにかなるあてはありませんでしたが、動き回れば殺されるということは分かっていたので」


 僕らはみな見ず知らずだったが、誘い合わせたわけでもないのに自然と同じ場所に集まっていた。鮫が血のにおいで獲物を嗅ぎ分けるように、僕らも生き延びている者同士の恐怖と痛みとわずかに残っている希望を嗅ぎつけたのかもしれない。

「あの工場の中に全部でどれだけの数がいたか、正確には覚えていません。私たちはある程度集まった時点で入口に鍵をしました。分厚い扉を閉めたときにサイレンの音が遠のいて、それだけで安全が約束されたような気がしました」

 錆びたドラム缶と埃の匂い。僕らは夜明けにみずからの棺桶にふたをする吸血鬼のように、鉄製の扉に錠をおろした。


 僕は、黄ばんだセロハンでとめた、古いモノクロ写真のような記憶を遠くへ押しやって、老人に視線を戻す。

「儂もそうだ」

 老人は言った。

「儂は自分の息子の嫁と孫を連れて逃げた。そのとき会社にいた息子とは半年経ってから安置所で再会したよ。右腕しかなかったが、指の火傷痕で息子だとわかった。儂らはとにかく夢中で逃げた。そして孫娘を抱えて郊外でバリケードを組み、籠城しているグループに転がり込んだ」

「では息子さんの奥さんは」

 僕は考えるより早く尋ねてしまってから、後悔した。答えが想像できても訊いてしまうのはなぜだろう。

 老人は表情を変えずに短く言い切った。

「逃げる途中で奴らに噛まれ、我を見失い、自分の娘に喰らいつこうとしたところを警官に撃ち殺された」

 僕は謝ることも忘れていた。

 普通に生活していた人間たちの中で一体誰が想像できただろうか。死者が生き返って腐臭を放ちながら生きたものを食う世界を。それに噛まれたものもまた生者の肉を求めて歩き回り、街には常に煙とアスファルトの焼ける臭いと悲鳴がうずまき、そこかしこにごみと血痕が散らばっていた。

「あんたが謝らなくてよかった」

 老人は、喉からしわがれた声を出して少し笑った。悲しみを乗り越えたわけではない。あの中を生き残った人間はみな狂ってしまわないように鈍感になっていったのだ。何度も叩きつけられれば傷口が醜く固まり、血も流れなくなるように。


「始めは上手くいっとったんだ。だが後から次々問題が生じた」

「私のところもそうです」

 僕らは、扉のすぐ向こう側の声におびえながら肩を寄せ合っていた。連中から逃げ切れたのは奇跡だったというように頷き合い、そこに来るまでに手足をやられたのもいて、互いに傷を舐め合っていた。だが悲しみの血膿で腹は膨れない。食料を取りに行けるわけもなく、飢えに乾き、閉塞感と終わりの見えない恐怖、僕らはしだいに焦燥していった。

その情景に、老人の声が重なった。

「儂のところでは、籠城からしばらくして食料が足りなくなってきた。陰での弱者からの略奪は当たり前。仲間内でも派閥ができ、リーダーを名乗る者もいたが結局は少しでも自分に有利に動きたい奴ばかりだ。自分の欲望のままに他人を襲う輩もでてきてあっという間に無法地帯さ。可笑しいな。結局、人類の敵がいたところで同種族のいがみ合いも消えない」

 僕は少しだけ顎を引いてうなずき、同意を示す。老人は続けた。

「儂はその中で少しでも規律をとり戻そうと、女子供や老人、ケガ人、わずかな理性ある者を集めて小さな組織を作った。正直、たった一人の孫娘をどうにかして守りたいという理由にかこつけたというのもあるんだがな。儂らは力を合わせて略奪に抵抗し、食料はみな均等に分け与えた。そうすると次第それに倣う風潮が出てきた。人の積み重ねてきた文明は一夜で消えるようなものではないのだとそう思った。嬉しかったよ」

 彼のくぼんだ眼窩に、少しだけ光を反射する水がたまっているのが見えた。この老人のまっすぐな背筋としわがれていても通る声。彼の正義漢ぶりは容易に想像できた。

 僕は素直にすごいと口に出していた。

「すごいな。私は何もできなかった。だから私たちのところは目立って荒れたことはなくても、何の改善もできず、ここに逃げ込んだときのまま変わらずにそれぞれ自分だけの恐怖に怯えて過ごしているだけでした」

 最後にあなたが居てくれれば違ったかもしれません、と少し冗談めかして言うと、老人は息を吐き出すように笑った。

 ふと、そういえば、と思い至る。僕のところにもいたのだ。どうしようもない状況をわずかでも変えようとした者が。忘れていたわけではないのに急に鮮明に思い浮かぶ、僕の唯一の友だち。


 南から雨上がりの生温かい風が吹いてきた。空が、先ほどよりは明度が増したように感じられる。

 老人が言った。

「略奪はほとんどなくなったものの、今度は食料そのものがなくなってきた。ついに備蓄は底を尽き、儂らは途方に暮れた。答えは出ていた。だがそれを認めたら終わりだった」

 今でも思い出すと恐ろしくなる。全身から熱がどんどん引いていくのに対して、脳だけは眩むように熱い。飢餓があんなに恐ろしいとは。

「お前たちもか」

 老人の乾燥した目蓋で、充血した瞳が覆い隠される。その表情は、答えないでくれと懇願しているように思えた。それでも僕は真実を叩きつける。

「はい」

 老人は目を閉じたまま、黙りこくっていた。

 

「ある日の明け方、工場に来る前から片足を失くしていた、背の低い男が倒れているのを見つけました。彼は階段から落ちて首を折り、発見した時にはもう動かなくなっていました」

 僕はてっきり、脅威という脅威はすべて外から来るともう長い間信じて疑っていなかったので、こんな終わりもあるのかとひそかに驚いた。

「男の身体はすでに硬くなっていて、私たちに残った問題はこの死体をどうするかでした」

 老人はその先を悟ったようで苦い表情をした。

 あの朝の死体を取り囲む間に漂う空気は乾きに満ちていて、いくつもの目が爛々とぎらついていた。

「彼らの中にはもう、ためらいはなかったんだと思います」

 もう自分の覚悟は決まった、あとはみんな早く承認してくれと、彼らの視線は語っていた。

「結局、最初が誰だったのかは分かりません」

 堰を切ったように彼らは死体に雪崩れこんだ。

「彼の上にひざまずいて蠢く仲間たちを、私はただ見ていました」

 僕はそのとき、呆然と立ち尽くすしかなかった。何だこれは、と。何だこの状況は。だって、ゾンビが人を食う、だから人はその前にゾンビを殺す、それは自然なことで、それだけ気をつけてればいい。そう思っていた。なんでこうなる。僕は唐突に吐き気をもよおしてうずくまったが、胃には何も残っているはずがなく、わずかな水分が涙と唾液となって、糸を引いて流れ落ちるだけだった。

 覚えているのは、手をついたコンクリートのざらついた感覚と、発酵した酢のような資材の臭い。彼らが肉を噛むときに立てる咀嚼音が、どこか湖の小さな波音のように静かな廃工場に響いていた。


「私は最後まで彼を口にはできませんでした。彼らに尊厳をとり戻してやることもできなければ、罪の共有もしてやれなかった」

 老人はもう一度固く目を閉じてから言った。

「お前さん自身の尊厳は守り抜いたじゃないか」

 僕は肯定も否定もできずに苦笑した。気がつけば、針のような雨がぽつぽつと降り出していた。

 あのとき――、その場に座り込んで仲間たちの後ろ姿が揺れるのをただ眺めていたあのときも、雨が降っていた。いや、そう思っていた。細かい衝撃がリズムを付けて固い物を叩く音がしたので、雨粒が工場のトタン屋根を叩いているのだと思ったのだ。でも、音はもっと近くから響いていた。

 僕が立ち上がり、涙腺が余分にひねり出した涙のせいでかすむ眼球で辺りを見回すと、いま餌になっている者が落ちた階段の上に、男が座り込んでいた。僕は食い続けている仲間たちから離れ、階段まで歩いて行った。

 そこにいたのは、仲間の一人だった。彼は腕を振り上げ、塗装の禿げた階段の鉄板を、何か硬いもので一心に何かで叩きつづけていた。僕が近づくと彼はひとり言のように、しかし少しだけ声を張り上げて言った。

「階段をさ。ひとが落ちたなら補強しておかなくちゃ、と思って」

 僕は、まともに話ができて、食欲にとらわれずに行動ができる者がいることに驚いていた。

 彼は何も言えないでいる僕に、さらに続けた。

「危ないからさ。他にも脚とか、怪我してる人も、いるし、ね」

 一言を話し、鉄に金属を振り下ろすごとに、彼が目元を拭っているのが、後ろ姿からでもわかった。僕が手伝うよ、というと彼は背を向けたままでもわかるように大きく頭を縦に動かした。

 

ぽつり、と雨粒が目に入り、僕は現実に引き戻された。それを待っていたかのように老人が話し出す。

「儂らのところには、こう言ってはなんだが……、都合よく死体になったものはいなかった。そうなると当然生け贄決めが始める。みな表立ってお前が肉になれとは言わないさ。だが今まで病人を看ていた者の目が、虎視眈々とうかがうように変わる。子供や私のような老人もここには必要なかったからな。いや、みな自分の命だけが必要なんだ」

 老人は乾いた唇をかみ締めた。そこから亀裂が入って割れてしまいそうなほどに。

 そうだろうか。僕は怒りで歪む老人の横顔を眺めながら思った。その肉を誰かに食べさせたい、と思った人間もいたんじゃないだろうか。みな、自分がどんなに空腹でも、周りの誰もが敵か食料かのどちらかにしか見えなくても、その相手の顔を見たとき、何よりも優先したいと思う人間が居たかもしれない。全ての人を――それには時に自分でさえも含まれるかもしれない――犠牲にしても、救いたい人物が。

 僕はそこで考えを止めた。老人は、僕の視線には気付いていないようで、一度咳払いをしてから言葉を続けた。


「ある日の夜、物音で目を離すと、隣で寝ていた孫娘の枕元に包丁を握りしめた男が立っていたよ。儂は近くにあった椅子でそいつの脚を殴りつけた。奴が呻いてのたうち回っている間に儂は孫を抱えてここから逃げることを決意した。当然だ、もうそんなところにはいられなかった」

 老人の視線はここにはない。その濁った瞳孔はかつての怒りに揺らいでいた。

「複雑に入り組んだバリケードの合間を縫って走っていると、あちこちで悲鳴や怒号が聞こえた。つねに絶やさなかったSOSの狼煙で目が潰れるようだった。遠くでは火の手が上がっていて、逃げ込もうかと考えた救護室からは血まみれの女が飛び出してきた。皮肉なことにな、こんなに荒れていたが、バリケードの中には一匹のゾンビだって入ってきていないんだ。なのにこの有り様だ。どれだけゾンビの対策をしようと結局は自分で勝手に破滅していくんだ」

 老人は吐き捨てるように言った。


 僕は思わず呟いた。

「なぜ人間は生き残るためにわざわざ生存率の低い行動をとるのでしょう。考えるのをやめ、他に手段などないと自分に言い聞かせて、短絡的な行為に走る」

 老人は初めてこちらにしっかりと顔を向けた。

「たしかにそういう疑問を持つのはわかる。だがな、あのとき未だに何が正解だったのか。あの場に戻れたとしても最適な行動などはとれんよ」

 僕はやっとこの老人の黄斑の浮いた目を正面から見据えた。

「人は愚かだ。だがそれでも必死に努力している。その結果が間違った行動につながったとしても、だ。たしかに自分の私欲のためにしか動かない輩もいる。だがな、危険を顧みずに我々を助けてくれた人々もいるんだ。現に儂も孫娘もそんな者たちに救われた。君はゾンビの方が善良だと思うかね。奴らは何も考えていない。ただ本能のまま食いものを探すだけだ」

「ゾンビは凶器を持って同胞を襲ったりはしませんよ。自分たちの居住区に火を放つこともしない」

「その知能がないだけさ」

 向かい合った体の表面で老人の怒りを感じる。なぜだか無性に笑いたくなった。

「それは人間があの混乱の解決策を思いつけなかったのと同じではないのですか。ゾンビは動き続けるために人を食べます。それを駄目というなら、人間が生きることも否定しているのでは」

 老人が声を荒げた。

「奴らがいなければこうはならなかった。たとえゾンビが元は人間だとしても、奴らと人は違う」

 僕が話すのをやめると、彼は身体をそむけ、静かに呼吸を整えた。


「すみません。これ以上この話はやめましょう」

 老人は答えなかった。むせ込む老人を眺めながら、僕はとり返しのつかないことをした後の背徳感とぼんやりとした後悔を感じた。僕に向けて丸められた背中は、さきほどまでの強い老人像と僕自身を両方否定されたようだ。僕はそのときはじめて、自分が老人に嫌われたくなかったのだと気がついた。言う前に気付けばよかったのだが、もう遅い。それに僕が認められたかったのは、こんな若造の言葉に煽られ、自分の身に持て余すほど怒りを覚える彼ではなかったような気がした。

 老人が口を開く。

「君はもうこの世に期待なんぞ持てないかね。すべてが忌むべきものか」

 そう呟いた老人の声はすでに芯の通った低い声に戻っていた。細かい雨は止み、灰色の雲は風になびいて薄くなり始めている。

「いえ。そうではないと、気付かせてくれた相手がいます」

 僕はさっきまでのささやかな落胆は忘れ始め、最初に慰霊塔で老人とあったときの気分、とにかく誰かと話がしたいような感覚を思い出していた。話さずにはいられなかった。絶望の中で希望そのものだった彼のことを。


「彼は唯一私が話せる相手でした。あの状況でしっかりと理性があったのは彼だけです。廃工場の中で共食いが起こっているとき、私と彼だけがそれをせずに見ていました」

 階段の上に腰掛け、僕らは別の世界でも鑑賞しているかのようにもぞもぞと這い回る彼らを見ていた。彼は僕に『君はやらないの』と聞いた。僕が『僕にはできなかった』と答えると彼は泣きそうな顔で笑った。

「彼は、しばらくその様子を眺めてから『みんながこんなこと、しなくてすむようにしなきゃいけないね』と言いました。その眼を見て、彼ならこの地獄を変えられると思ったんです」

「彼の名前は何といったんだ」

「覚えていない、とだけ言っていました。考えてみれば私たちは名前で呼び合うことなどなかったのだと思います。それぞれの仕事や役割分担も決めていなかったので連絡の必要もありませんでしたし、狭い所なので近寄って話せば済みましたから。まあ、話すこともありませんでしたが。僕は彼を(ズィー)と呼んでいました」

 僕は、彼がいつも着ていたTシャツのロゴからとったんです、と付け加えてから笑ってみせたが老人は表情を変えなかった。


「Zは外に食料を取りに行くことを提案しました。危険だとわかってはいても、これ以上仲間同士が崩れていくようなことは止めようと言ったのです。私たちは長い間同じ場所にいて、そのとき初めて協力しました。それからは定期的に数人で外に行き、食料を調達しました。思った通り外はそこかしこに敵がいて、常に息を潜めて行動しなければならず、失われた命もありましたが、意外にも上手くいくことの方が多かった」

「そういう手段もあったか」

 老人は呟いた。彼は大理石の慰霊塔をフィルターに遠い過去を見つめている。その瞳に映りこむ真っ白な壁は後悔に揺らいでいた。

「儂らには規律はあっても勇気はなかった」

「Zは、階段から落ちた友人にあそこにいた全員が群がっていたら、希望なんてなかっただろうと言っていました。一人でもその光景に吐き気を催しているとわかって救われたんだと」

 青年とも少年ともつかない、Zの照れ隠しのような笑い方が脳裏に浮かんだ。自分は、その笑顔に救われたのだと思う。

「すべてが上手くいくような気がしていました」

 静かな海の上、雲の色は紫がかった白に変わっていた。墓地全体が昼白色の光で明るみ出す。

「でも、外から奴らが来たんです」


 薄壁一枚を隔てて聞こえる声と騒音。ようやく活路が見え始めた安寧の地が、外界からいとも簡単に突き崩される。忘れていた恐怖が色を帯びて僕らを打ち付ける。僕らはどうすることもできずにただ狼狽えていた。

「Zは外に出ようと言いました。ここにいても奴らに殺されるだけだ、とにかく逃げて生き延びるんだ、と。みなZに従いました。私たちは廃工場から飛び出しました。ずっと見ていなかった日光のせいで上手くものが見えず、何かにぶつかりながら、血にまみれて猛り狂う奴らの間をひたすら走りました。奴らに捕まり、何人も殺されました。逃げ切れないとわかり、せめて奴らを道連れにと奴らの中に飛び込んでいった者の、逃げてきた方向へ振り返って一瞬立ち止まった後ろ姿が忘れられません。私は仲間の血と絶叫を背に走り続けました。足を負傷して立てなくなったZの手を引いて」

 

「それで。お前さんがここにいるということは逃げ延びたのだろう」

「はい。僕は何とかあの大群の中を逃げきり、近くまで来ていた人間の救護団体の避難所に紛れ込みました」

 僕はそこで言葉を区切る。次に老人が何を聞いてくるかは予想できていた。それは、僕にとっても思い出したくない忌まわしい記憶。老人は視線をこちらに戻して、少し早口で聞いた。

「Zは、Zはどうなった」

「Zですか……彼は死にました。殺されたんです」

 老人は絶句した。

 思い出す。

 奴らの波をどうにか逃れ、廃工場の裏に身を隠したときのことを。太陽に照り付けられ、ひび割れた土には古くない血に濡れて輝く。廃材の山の隙間には小さな雑草が芽吹いていた。地面の上にうずくまったZをなんとかして立ち上がらせようと考えていると、後ろから粗暴な足音がいくつもひびいてきた。振り返ると奴らが立っていた。血まみれで息を切らしながら、それでも体中にこれでもかというほどの殺意を滾らせて。Zは僕を見ると、初めて話したときと同じ、泣きそうな顔で笑った。


「悔やまれるな」

 老人が目を伏せ、呟いた。

「彼のような者もみなゾンビに」

「いいえ、違いますよ」

 老人の言葉を僕はさえぎった。自分でも驚くほど明瞭な声で。

「Zは人間に殺されたんです。大混乱が下火になってからやっと動き始めた軍の特殊部隊の奴らに撃ち殺されたんです」

 老人が僕を見た。視線から彼の戸惑いが空気を通して伝わってくる。僕は姿勢を正してから、老人の脳に正確に届くよう静かにゆっくりと問いかける。

「もしも、知能があって、見た目も生きた人間と変わらないゾンビがいたとしたら、どうでしょう。彼らは複雑な思考にも堪えうる上、会話もできる。良心の呵責もあるし、ときには他人のための自己犠牲もいとわない。人間とどう違うでしょうか」

 うろたえる老人にかまわず僕は続ける。

「けれど、僕は彼らと人間が一緒だとは思いません。当然だ。それは、今までゾンビが人を食ったからとか、人がゾンビを殺したからなんてこととは関係ない。もっと根本的な話です。あなたもどんなに思慮深いゾンビがいたところで、自分と同じ種族だとは思えないでしょう。それと同じです。人間が一方的にゾンビを嫌っていいなんて思い違いもいいところだ」

 老人が、自身の戸惑いが恐怖に変わり始めたのに気付かぬよう、言葉で彼の思考を縛り付けるよう、僕は話し続けた。。


「Zは僕を逃がすため囮になりました。彼に押されて走り出した時、背中でいくつもの銃声を聞きました。僕は振り返れなかった。けれど、後ろから何かが飛んできて僕の頬にへばりついたんです。最初は雨粒かと思いました。でも空は快晴だったし、拭った手の甲は赤くぬめっていました。その中に混じっていた白い欠片、それがZの脳です」

 老人の顔は蒼白で、陸地で必死に水を求める魚のようにしきりに唇を動かしていた。

「Zは僕に言いました。一人でも生きていてくれれば自分たちはまだ終わりじゃない、と。『君は俺たちの希望だ』と。僕はそれに応えようと思います」

 老人が危険を感じて動き出そうとするその前に、僕は手を伸ばし、その細い首を掴んで引き倒す。彼の骨ばった喉が鳴るよりも早く、しわの寄った薄皮を突き破りそうに浮かんだ頸動脈に食らいついた。絶叫も痙攣も僕には届かない。僕に託された亡者たちの切望を滴らせ、体内の血の流れに乗せて、老人の核まで届かせるために、僕は深く深く歯を刺し込む。

 

 気づくと老人はもう動かなくなっていた。僕は首筋から唾液の糸を垂らして離れる。老人は一度痙攣してうねるような動きでゆっくりと起き上がる。

 老人の目は腐った卵のような黄みがかった白目しかない。その眼はもはや何も見ていなかった。やっぱり彼も駄目だったかと思う。仕方ない。僕やZのように知能あるゾンビが生まれるのは奇跡的な確率なのだから。

 どうしてだろう。あの頃、知能のない彼らの宙を泳ぐような視線には恐ろしさと軽蔑しか感じなかったのに、今だけはたまらなく懐かしい。

 老人はふらつき、ぼろ布を引きずるように己の両足を持て余すように歩き出す。彼はこのまま向かうのだろう、愛しい孫娘の待つ家に、その柔らかい腕や腹を食いちぎり、頭がいを砕いて、小さな額に開いた穴から脳をすするために。

 そしてもう一度僕らの世界が再建される。


 海は穏やかにさざ波を立て、空は雲の切れ間から光が差し込んでいた。

 天使の梯子と呼ばれる光景。

 そこから死者たちが降りてくるのだ。おぞましい声と腐臭をまき散らしながら。しばらくは肉を貪るしか能のないゾンビしか現れないだろう。やがて知性あるゾンビが生まれたとしても、彼のようなものが強い意志に満ちたものが現れるのにはどれだけの時間がかかるかわからない。だがそれでもいい、と僕は思う。僕はずっと待ち続けるだろう。Z、またいつか君に会うまで。


 僕は、朝日にそびえる慰霊塔に背を向けて、墓石の列の間をゆっくりと下った。

 

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