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クローゼットの蜂

作者: 浅瀬

――クローゼットには何が入ってる?

 いろいろな服。たとえばクリーニング屋のビニールに包まれたままの冬のコート。奮発して買ったけど、着る機会のないドレスに毛皮のショール。靴もあるわ。箱に入った靴。箱に入れたまま開けることもなくて、何年も置き捨てられているような靴。たまにそんな箱を開けると、こんな靴いつ買ったんだろうって思うような靴が入ってるの。

――そこにあるのは全部あなたの物?

 私の部屋のクローゼットならそうだけど、他の部屋ならもちろん違う。両親の寝室にあるクローゼットなら、中にあるのは両親の物だわ。

――あなたはそれを見たことがある?

 もちろん。それどころか、子供の頃は一人でお留守番をしているとき、こっそり両親の部屋のクローゼットを開けて中の物を眺めるのが好きだったわ。

――そこにはどんな物があった?

 両親の服。とくに母の物を見るのが好きだった。父親の、どれも黒や灰色をしたスーツや上着なんて、小さな娘の目を楽しませてくれるようなものではないでしょ。母も普段はそんなにお洒落な人ではなかったけれど、よそいきの服はたくさん持っていた。

――それはどんな服?

 まず学校の式典とか、授業参観によく着てきたセットアップ。上品なベージュ色の生地で、銀のボタンには花の模様の彫刻があって、襟元には小さなフリルがついてる。スカートはきれいなフレアの裾で、いつも皺ひとつなくアイロンがかけられてた。

 あとピアノの発表会によく着てきたツインピース。生地の厚い、紺地に白の格子柄の。いつも胸につける金のブローチは、化粧台の引き出しに入っていた。

 ええ、化粧台の中も覗いたことはある。でもクローゼットほど私の興味を引かなかった。口紅、おしろい、ビューラー、シャドー、肝心の使い方がわからないし、所詮あれらは道具で、当時の私の鑑賞に堪えるものではなかったからだと思う。

――お母さんの服は鑑賞に堪えるものだったの?

 服というのはハンガーに掛けられて吊されている姿だけで絵になるものじゃない? とくに母のよそいき達はそうだった。

 クローゼットの中から一着取り出しては眺め、仕舞い、また別の一着を取り出しては眺め……。私はお人形遊びをしない女の子だったけれど、考えてみれば私の場合はあれがそうだったのかもしれない。お人形の服を眺めているような気持ちだった。

――眺めているだけで満足した?

 こっそり着てみたことがあったかということ? そんなことはしなかった。ハンガーから外そうとしたことすらないわ。母の服達はどれも入念にクリーニングされ、プレスされ、完璧に整えられた形でクローゼットに収められていた。母以外の誰かの手でハンガーから外したりしたら、取り返しのつかないことが起こりそうな気がするくらい。それにうちはなかなか躾の厳しい家だったの。子供の頃の私にとっては、両親がいない間に寝室に勝手に入って、クローゼットの母の服を鑑賞するだけで精一杯の冒険だった。いつ表から両親の車が庭に入ってくる音がしないか耳をそばだてていたわ。

――特にお気に入りだった服はある?

 そうね……クローゼットの服は、それを着る頻度によって順番に並べられていたわ。着る機会が多い服ほど右側に、左へ行くほどあまり着なくなっていって、つまり一番左端には母が若い頃に着ていた服が並んでいたの。私はその左端の服達が好きだった。

 特にワンピース。一面に咲き誇るように黄色いデイジーが描かれたもの。白地に黒糸で、風に散るようなバラの花が刺繍されたもの。赤や橙のブロックが重ねられた幾何学的な模様のもの。色鮮やかな様々な柄は見るたび私の目を楽しませたけれど、最も私を引きつけたのは、一番左端に吊るされた一着だった。

 薄水色のワンピース。

 生地はサテン、形はシンプルなノースリーブで、柄も飾りも一切ついていない。

 青でもなく白でもなく、薄い水色。中途半端な色でしょ。全身水色の服装なんて、現実的にはなかなか様になりそうもないものね。小さな子供か、それこそお人形の服の色だわ。

 でもそのワンピースはとても素敵だった。

 さっき私はクローゼットの中の服はハンガーから外そうと思ったことすらないと言ったけれど……いいえ、そのワンピースにも、実際には一度も袖を通さなかった。

 私は想像しただけだった。光沢のある水色の、滑らかな生地の手触り、素肌にさらりとなじむ裏地の感触、走ると膝の周りで裾が翻り、涼しい風が通り抜けていく。

 大人になった自分を想像したの。薄水色のワンピースを着た自分の姿を。

――その姿は若い頃のお母さんに似ていると思う?

 母と娘だからある程度は、と思う。それで思い出したけど、そういえばあのワンピースには、他の服と違っている点が二つあった。

 一つは、写真がなかったこと。うちは頻繁に写真を撮る家庭で、アルバムがたくさんあって、昔の両親の写真もたくさん残っていた。若い頃の母が、あのクローゼットの左の方のワンピースを着ている写真もあった。当然私はあの薄水色のワンピースを実際に着ているところを見たかったから、これも両親の留守中に何度も探したのだけれど、結局一枚も見つけることができなかったの。もちろんこんなことは、躍起になってかかるほど奇妙なことではないけど。

 二つ目は、ワンピースの中で、その薄水色のワンピースだけサイズが微妙に違っていたこと。他のと比べて若干、一回りくらい大きかった。まあ、母は普通より小柄だったから、ぴったりなサイズがなくて、それでもどうしても欲しくて買って、やっぱり着れなくて、だから写真もなかったのかもしれない。

 何にしても、どちらもそれほど気にするようなことじゃないわね。

――お母さんに聞いてみたことはないの?

 だからさっきも言ったけど、娘の私がクローゼットを勝手に開けているなんて両親に知れたら大変だったのよ。

――実際、大変なことになったことがあったの?

 一度だけ。いつものように母の服を眺めていたのだけれど、そのときは玄関の扉が開けられるまで両親が帰ってきたことに気づかなくて、大慌てで寝室を飛び出したから、ワンピースの裾がクローゼットの戸に挟まって、それを母が見つけてしまったの。

――娘がクローゼットを勝手に開けると、お母さんはそんなに怒るの?

 気に障って怒るというより、心配で怒るの。母は心配性だったから。私のことを、とても不注意で考えなしの子供だと思っていたの。

――心配するのは愛情ゆえだと思わない? 

 そうかもしれない。でもそうとわかっていてもそれが重荷になるときってあるわよね。

 たとえば子供の頃、両親と一緒に祖父母の家に行ったときの話。当時はそこに曾祖父もいたの。それで私はひいおじいさんの部屋までお土産のお寿司を持っていって渡す役になったのだけど、例によって母が心配して、落とすんじゃないわよ、気をつけるのよ、ほら落とすわよ、って横でしきりに言うものだから、体に変な力が入って、ついお盆をひっくり返してお寿司をぶちまけてしまったの。

 人間、気をつけろ気をつけろとしきりに言われるとかえって緊張して、簡単なことなのに失敗してしまうってことがあるわよね。

 でもそんなことが度々あって、母はそれで私が危なっかしい子だということに確信を得てしまったようなのね。

 それからというもの、私はことあるごとに母に心配され続けて、少なくない数、失敗してきたわ。

――今までどんな失敗をした?

 たとえば、鍵をなくした。母が家の鍵を紐に通して、首から下げていなさいと言ったんだけど、私は子供心に、そんな子供っぽいことしたくないと思って、鞄に入れておけばなくしたりなんかしないって言ったの。母はもちろん反対したけど、私は言うことを聞かずに紐のついた鍵を鞄に入れておいたの。でも案の定、その日の帰り、家に着いて鞄の中のどこを探しても見つからなくて、両親が帰ってくるまで玄関の前に座り込んでいた。すごくみじめな気持ちだったわ。

 もっとみじめだったのは、初恋の男の子も来るって聞いて、近所の子の誕生日会に行ったときのこと。おしゃれをして行きたくて、うちの親は流行りの服なんて買い与えてくれなかったから、友達の服を借りていくことにしたの。流行りの赤いタータンチェックのワンピース。でもわくわくしながら家で着て、鏡に映してみたら、なんだかしっくりこなかったの。おかしい、これは似合ってないかもしれないなって自分でも思った。でもそこへ母が部屋に入ってきて、私の姿を見たとたん、おかしいわよそれ、似合ってないんじゃない? 絶対に変よ、なんて言うものだから、私はむきになって家を飛び出して、そのタータンチェックで誕生日会に出席したの。そうしたら流行りの服でしょ、タータンチェックがもう一人いたのよ。その日の誕生日会の主役だったの。私なんかよりずっと似合ってる。しかも目当ての彼はその子とばかり喋っていて、私には目線一つくれない。本当にみじめだったわ。

――でも、その手の失敗なんて誰にでもあると思わない?

 もちろん思うわよ。このくらいの失敗は誰だってやったことがあるわよね。でも母は、こんな失敗は普通しない。あなたがドジだからって言うのよ。何をやってもトラブルばかりって。

――そんなことを言われたら何も出来なくなってしまうんじゃない?

 事実、いろいろなことを諦めてきたわ。事故を起こすに決まってるって言われて、車の免許は結局取らなかったし、友達の間で海外旅行の計画が持ち上がったけど、飛行機なんていつ落ちるかわからないって言われて私は行かなかった。もう言い合うのも疲れてしまったの。

――話を戻すけどクローゼットについては何を心配していたの?

 ああ、そうだったわね。

 母は、蜂があの中に入っていくところを見たというのよ。

――蜂?

 そうよ。おかしいでしょ?

 それで入っていくところは見たけど、出て行ったところを見ていないと。だからまだあの中にいるかもしれない。いいえ、あの蜂はもう死んでいるかもしれないけれど他の蜂がまた入り込んでいるかもしれない。だからうかつに開けて手を入れたりしたら、服の間に身を隠した蜂に腕を刺されるかもしれない、と言うの。

――お母さんは刺されたことがあったの?

 そんなことは起こらなかったわ。蜂に刺された人間なんて誰もいなかったのよ。でも例によって、母は私のことをすごく不注意で危なっかしい子供だと思っていたから、私はきっとそんな目に逢うにちがいないって信じていたみたい。

――お母さんを恨んだことがある?

 それはあるわ。母は私の災難は全部私がそそっかしいのが原因だと言ったけど、半分は母のせいでもあると思うもの。

――その気持ちは今でもある?

 今は……、こんなことになった今では、むしろ皮肉だと思う。あんなに私の身に起こる災難ばかり言い募って、結局あんなことが起こったのは母自身を含めて両親の方だったから。

 母はいつも私が楽しい未来を想像するたび、不吉な予言で灰色に塗り替えてしまったわ。でもこれからはそうじゃない。

――これからのあなたの未来は明るいものだと思う?

 だってそう思わなくちゃ。遺品の整理がついて家の中が落ち着いたら、飛行機に乗って旅行にでも行こうかと思ってるの。





 店を出たとたん相手の顔を忘れてしまった。

 とにかく私は家路を急いでいた。

 飛行機に乗って旅行に行く。

 不意に自分の口から出たこの言葉が頭の中から離れず、そのことしか考えられなかったのだ。

 スーツケースを用意しなくちゃ。どこにしまってあっただろう。

 家に着いた。玄関の鍵を開けた。誰もいない家の中は真っ暗だった。

 まず自分の部屋のクローゼットを開けてみた。でも、これではだめ。長旅の荷物を収めるには、これでは小さすぎる。父が生前使っていたスーツケース、あれなら足りると思うのだけど。

 私は両親の寝室に入った。

 両親の遺品に、私はまだほとんど手をつけていなかった。

 クローゼットには父の服が並んでいた。黒や灰色の、記憶で見たのとまったく同じ父の服。そうすると、自然に私の心は母の服達の方に向いた。

 左側の服。


 クローゼットの左側の戸を開けた。

 あの服。

 薄水色のワンピースは、昔の通り、私の記憶の中のまま、クローゼットの一番左端に掛かっていた。

 うっすら埃をかぶっていたが、薄水色のサテンは艶やかで、そっと手を触れると、ひやりとした生地がさざ波立ち、澄んだ光沢を放った。さわやかだった。

 両親はもういない、母はもういないというのに、私はあの頃のように、いつ両親の車が庭に入ってくるかびくびくしながら、なんだか急いでその薄水色のワンピースに袖を通した。

 姿見に映った自分を見て、まず私は、ほらやっぱり私にぴったりじゃないの、と妙に腑に落ちて思った。

 小柄だった母の服より若干一回り大きいワンピースは、まるであつらえたように今の私にぴったりだった。素肌を包むさらりとした生地の感触。私が動くたび、膝の辺りで軽やかに踊る裾。薄水色は私の肌色、髪の色に合わせたかのように見事に調和し、他の誰でもない私が着たことによって一層光り輝いている。

 運命的と言ってもいいくらいだった。今、このワンピースを着てようやく、私は自分自身の身体を取り戻したという気がした。

 気分が高揚した。




 

 確かに私は不注意だったのかもしれない。

 私は左側の戸を開けた。右側の様子は一度も伺っていない。

 しかしその右側に、私の視界の外の隙間に、誰かが忍び込んでいるなんて、そんなことをどうして考えついたりするだろう。そんなことが起こる確率はどれくらいなのだろう。

 母は心配性だったから、あんなことを言っただけ。私はドジでそそっかしい子供なんかじゃない。

 蜂なんているはずがない。

 クローゼットには何も潜んでいない。




 え?



 赤いタータンチェックよりずっと似合ってる?


 当たり前でしょ。


 だから自分でもそれは思ったんだって、さっき話したじゃない。 


 


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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章は二人称語りから一人称へと入り組んでいますが、母からの呪縛のような形で確執を持つ娘、その確執を、(恐らく)飛行機事故で亡くなった母のワンピースを着ることで乗り越えたと思ったところで、や…
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