「助けて」のサイン
愛里は、マンションの屋上の柵にもたれ、広がる灰色の雲を見ていた。
(小さい頃は、あれに乗っておばあちゃんに会いに行けるって思ってたっけ?)
愛里はそう思い苦笑した。
(そろそろ行こうか…)
愛里は一旦柵の外を覗き込んだ。そして、遺書をポケットから取り出そうとした時、後ろで非常階段を駆け上がる足音がした。
愛里はぎくりとして振り返った。
「あれ?先客があったか。」
若い男性だった。…若いと言っても、中3の愛里からすれば、おじさんに入るか入らないかの年代に見える。
愛里は遺書をポケットに押し込み、ニコニコして歩きよってくる、ある意味厚かましい男を見た。
「悩み事?」
男が愛里の横に立ち、柵に手を乗せながら言った。
「え…はい…」
「俺も」
愛里は目を見開いて男を見上げた。
「俺、ホストなんだ。」
「えっ!?」
「見えないだろ?」
男はそう言って笑った。
「ほとんど、裏方だけどね。年も年だし、そろそろやめようかと思うけど、生活考えたらさ。」
「おいくつですか?」
「四捨五入して30。」
「……」
「無理があるだろ?」
「え…いえ…」
愛里はうつむいた。男が言った。
「君は何の悩み?」
「え?…あの…」
愛里はしばらくためらっていたが「いじめ」と呟くように言った。
「いじめ?…いじめられてるの?」
男が驚いた目で愛里を見ながら言った。
「…はい…」
「たとえば、どんなこと…」
その時、人が階段を駆け上がってくる足音がした。愛里は驚いて振り返った。男も振り返り「ありゃりゃ…」と呟いている。
「こんなところで何してるんだ!」
警備員がそう怒鳴りながら、こちらに駆け寄ってきた。
「ここは、非常時以外立ち入り禁止って、貼り紙見なかったのか!?」
「すいません!」
男がそう言って、頭を下げた。
「あんたも、若い女の子を連れて何をしてるんだね!」
愛里は目を見開いた。男は頭をかきながら「いやその…」と言葉を濁している。
「違うの!」
愛里が言った。
「私が自殺しようとしてたのを、この人が助けてくれたんです!」
愛里はポケットから遺書を取り出し「ほら!」と警備員に差し出した。警備員と男は、同じように驚いた目で「遺書」と書かれた封筒を見、愛里を見た。
……
「…西条基樹…」
愛里は、自室で名刺を見ながら呟いた。屋上でホストだと言っていた男だ。
名刺には「フリールポライター」とある。
「本業はそっちなんだけど、なかなか稼ぎが厳しくてね。」
警備員と共に非常階段を降りながら、男は愛里に名刺を差し出して言った。
「良かったら、メールして。」
愛里はこくんと頷いた。
……
自宅に帰った西条は、携帯電話にメールが入っていないのを見て、ため息をついた。
「まぁ、おじさん相手に本気で悩みを打ち明けたりしないかな…」
西条はそう呟いた。
…西条がマンションの屋上に行ったのは、もちろん悩んでいたわけじゃない。
西条は自宅のあるマンションに向かって歩きながら「雨が降りそうだ」と空を見上げた。…その時、そばのマンションの屋上に、少女が立っているのが見えたのである。
灰色の空の下に長い髪をなびかせている少女の姿は、正直、異様な光景だった。顔色も真っ白に見えた。
西条は戦慄を感じた。慌ててそのマンションに飛び込み、エレベーターで最上階まで上がると非常階段を駆け上がって屋上へ出た。そして上がる息を抑えながら、得意(?)の「たまたま立ち寄っただけで、別に助けに来たわけじゃないというさりげない感じ」を装い、少女に近寄った…というわけである。
だが…少女が警備員に遺書を差し出した時は、本当に驚いた。
まさに、危機一髪だったわけだ。
もし雨が降りそうな空じゃなかったら、西条は少女に気づかず、そのまま通り過ぎていただろう…。
「いじめだって言ってたな」
西条はそう呟きながら、何も反応しない携帯電話を見つめていた。
……
その頃、愛里は父親に怒られていた。…母親からの電話で、残業を切り上げて帰ってきたのだ。
「お前は、人様に迷惑を掛けるようなことをして!」
父親は、愛里の部屋に入るなりそう言った。…この父親はいつもそうだ。世間体を先に心配する。
(家の中で、こっそり首でも吊ってたら良かったのかな…)
愛里はそう思った。母親は、父親の後ろでおどおどして何も言わない。
「…どうして自殺なんてしようとしたんだ?」
「…いじめられてるから…」
愛里は無気力にそう言った。前々から、両親にも言っていたことだった。父親がため息をついて言った。
「前にも言ったが、それくらいのことは父さんたちにも経験のあることだ。態度が気に入らないというだけで、人のいないところに呼び出されて殴られたり、クラス中から無視されたり…。それでも、父さんたちは耐えてきたんだ。お前にどうしてそれができない?」
「……」
愛里は黙り込んだ。そんな風に言われたら何も反論できない。だが愛里が受けているいじめは、そんなことだけじゃすまなかった。最近では「○○ページを開きなさい」と先生に言われて、教科書を開こうとしたら開かない。よく見ると、ページを糊で固められていた。それを必死にはがそうとするが開かない。…結局、先生に怒られたのは愛里だった…。誰がやったのかもわからない。クラス中の皆がにやにやして愛里を見ているように思えた。
それでも愛里は先生に何も言わなかった。…言えば、いじめが陰湿化するからだ。
最初は親にも言わなかった。だが、笑顔のない愛里を心配した母親に問い詰められ、とうとう言った。母親は驚いて父親に伝えた。だが父親は「本人の試練だ。社会に出たらもっと辛いことがある」と取り合わなかった。…母親はそれから何も言わなくなった。
いじめは毎日のように続けられた。どうして自分がそういう目に合うのかわからない。それでも先生には言わなかった。
「わかったな?愛里!」
父親のその声に、愛里ははっとした。何を言われていたのか、全く聞いていなかったが「はい」と答えた。
「2度と自殺しようとするなよ!自分の事だけ考えるな!周りの迷惑も考えなさい!」
父親はそう怒鳴るように言って、部屋を出て行った。母親は心配そうな目を愛里に向けて、自分も部屋を出て行った。
……
愛里は携帯電話を見つめた。そして、引き出しから名刺を取り出すと、書かれているアドレスをゆっくりプッシュした。
……
西条は携帯電話が鳴った音に、はっと目を覚ました。いつの間にか書斎の椅子で眠ってしまっていたのだ。慌ててよだれを拭き、携帯電話を開いた。
「あの子だ!」
西条はメールを開いた。
件名に「愛里です」とある。
『今日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。もう大丈夫です。心配しないで下さいね。
「T=£レナτ」』
(最後のは文字化けか?)
西条はそう思いながら、その文字をじっと見ていた。
「…!…」
西条は立ち上がった。
……
西条は、愛里のマンションに向かって走っていた。
(くそっ!俺が家の前まで送るんだった!!)
西条はそう思いながら、マンションの管理人室のドアを叩いた。
「すいませんっ!緊急事態なんですっ!開けて下さい!!」
窓から明かりが漏れているのを見ながら、西条はドアを叩き続けた。鍵が開けられる音がし、警備員が顔を出した。屋上に来た警備員だ。西条は「良かった!」と言ってから、警備員に事情を話した。
……
警備員はエレベーターの中で足踏みをしている。その隣で西条も同じように落ち着きなく、ランプの移動する階数を見つめていた。エレベーターは5階で止まり、ベルの音とともにドアが開いた。
警備員が先に飛び出して行った。西条がそれを追う。
「すいません!開けて下さい!!マンションの警備をしている者です!開けて下さい!」
警備員はインターホンを押しながら叫んだ。西条はいらいらしながら、ドアを見つめていた。
…その時…何か悲鳴のような声が聞こえた。
「!!!!」
西条は非常階段に向かって走った。そして、階段から下を見下ろした。
「愛里ちゃんっ!!」
…愛里が地面に横たわっていた…。
……
愛里の両親は、病院の処置室の前のソファーに座り、うなだれていた。向かいのソファーには西条と警備員が力なく座っている。
「どうして…どうしてあんなことを…」
父親がうめくように言った。
西条は思わず立ち上がり、両親の前に立った。
「愛里ちゃんがいじめられてたことを知らなかったのですか!!」
両親は驚いて顔を上げた。どうしてこの男がそんなことを知っているのだ?という表情である。
母親が「いえ…」と声を震わせて言った。
「知っていましたが…まさか、本当に死のうとするなんて…」
「今日、現に屋上から飛び降りようとしたじゃないですか!!それはご存じのはずですよね!」
「もう2度としないと約束したんです。だから…」
西条はいらだたしげに携帯電話を開き、何かの操作をすると画面を両親に向けた。
「?」
「愛里ちゃんからのメールです。…本文の最後を見て下さい。文字化けのような文字がならんでいるでしょう?」
両親は西条が何を言いたいのかわからないようだった。
「…よく見て下さい。…わかりませんか?…俺は見つめているうちに「たすけて」と書かれているのだと気付きました。」
両親は目を見開いて、携帯電話から西条へ視線を移した。
「…愛里ちゃんは、今までいろんなサインをあなた方に発していたはずです。どうしてそれを見逃したんですか?それとも見て見ないふりをしていたんですか!?」
母親が動揺したように父親を見た。父親はうつむいて何も答えなかった。
そもそも、自宅のマンションの屋上から飛び降りようとしていたことからしておかしい…と、西条は感じていた。そして、警備員にわざわざ「遺書」を見せたことも…。西条をかばうためとは言え、本当に死ぬ気なら「遺書」など人目にさらすことはないだろう。それだけでもう、2つのサインを出していた…と西条は思う。最後のサイン「T=£レナτ」はいわゆる「ギャル文字」と言われるものでわかりにくいかもしれない。だが、少し言葉を交わしただけの西条でも「何かがおかしい」と感じることができた。愛里はそれだけ強いサインを出していたのに、どうしてこの親は、今まで何も感じなかったのか…?
…その時、処置室のランプが消え、医者が出てきた。
母親が駆け寄ると、医者は「大丈夫ですよ」と微笑んで言った。
……
翌朝、どのチャンネルも愛里の自殺未遂を報じていた。また「いじめによるもの」だということも報じられ、愛里の通っている中学校の校長が頭を下げていた。
「見事なバーコードだな。」
西条はスクランブルエッグを食べながら、まだ頭を下げている校長の頭頂部を見ながら言った。
妻の美幸が、コーヒーの入ったマグカップを西条の前に置きながら言った。
「…今さら頭下げたって、どうしようもないのにね。」
「…だな…」
「いじめって…こんなことになってから、初めて問題になるじゃない。…どうして、その前になんとかできないのかしら。」
「学校は、どっちかというともみ消しにかかるからなぁ。」
西条は知ったような口を利いた。
だが、これで学校もいじめに対して本腰を入れるだろう。愛里は、2度といじめられることはない。もしあったとしても、西条にメールをくれることになっていた。
…西条は、このことをレポートにしようとも思っていたのだが、武勇伝を語るようで恥ずかしいので、結局書かないことにした。
電子音が聞こえ、美幸が「あ、洗濯物…」と呟いて、リビングを出て行った。
…しばらくして、美幸が戻って来た。何か険しい表情をしている。
「…基樹さん。」
「ん?」
西条はコーヒーに口をつけながら、美幸を見上げた。
「これ、どういうこと?」
「え?…!…えっ俺の携帯っ!?」
西条は、美幸に自分の携帯電話を開いて見せられ動揺した。
(…そう言えば、さっき洗面所でメール確認して、置きっぱなし…)
携帯電話の画面に、メールが表示されていた。件名に「愛里です」という文字の横に、ハートマークが踊っている。そして本文の最後には「T=〃レヽ£(≠」とあった。西条はぎくりとした。
「いや、その…」
「「昨日はありがとうございました。私の事をわかってくれて嬉しかったです。「だいすき」」ってあるけど?」
「えっ美幸、ギャル文字わかるの!?」
西条の驚きに美幸はちょっと恥ずかしそうに「わかるわよ」と言った。
「すごい!俺は解読するのに5分はかかったよ!(※嘘です)さすがだなぁ…。俺よりひとつ年上には思えない!」
西条のべた褒めに、美幸ははにかんで「それほどでも…」と呟くように言ったが…
「…って、基樹さん!?」
と、机を叩いた。西条は「はい」と肩をすくめた。
実は、愛里のことを美幸には言っていなかった。昨夜も「ホストクラブからヘルプの要請が来た!」と言って、家を飛び出したのだ。前のメールは、病院から家に帰る前に消しておいたのだが…。まさかすぐにお礼のメールが来るとは思っていなかった。
…別に、美幸に言っても良かったのだが、説明するのがめんどくさい…と西条は思っていた。…それがまずかった。
美幸は、西条の携帯電話を音を立てて閉じながら言った。
「ギャル文字なんて使うってことは、ホストクラブのお客さんじゃないわよね?」
「はい」
「じゃぁ誰?」
「…正直に言うけど、信じてくれる?」
「もちろん、信じるわよ。」
「ほんと?」
「ほんと。」
「じゃぁ言うけどさ…。」
西条は本当の事を言った。だが、美幸の顔が徐々に赤く変化するのを見て「やばい」と思った。
「基樹さんっ!!作り話もいい加減にしてっ!!!」
…美幸が本当だとわかってくれたのは、それから1週間経ってからだった…。
(終)
……
このお話は完全フィクションです。病院内では携帯電話の電源を消しましょう。(ごめんなさい)