婚約者が十九度目の約束破りで病弱な幼なじみを優先したので、二十度目はありません
十九度目の約束が破られた夜、私は婚約者の席札を裏返した。
王宮南棟の控え室には、春星夜会の音楽がかすかに届いている。
遠くの広間では、もう楽団が調弦を始めているはずだった。
銀の燭台。
白い薔薇。
王妃宮の女官たちが整えた夜会用の席札。
その一つに、ルーカス・レナートという名が書かれていた。
私の婚約者。
今夜、王妃殿下の前で、私の隣に立つはずだった人。
私はその席札を、裏返した。
白い紙の裏には、何も書かれていない。
それが、今の私たちにふさわしいと思った。
「エレノア様」
王妃宮の女官長が、静かに私の名を呼んだ。
彼女の手には、先ほど届いたばかりの伝言がある。
封蝋はレナート侯爵家のもの。
差出人は、婚約者であるルーカス本人ではなく、彼の従者だった。
「お読みになりますか」
「いいえ」
私は首を振った。
「内容は分かります」
女官長は、少しだけ目を伏せた。
そして、感情を抑えた声で読み上げる。
「リリア様が強く不安がっておられるため、ルーカス様はメルヴィル男爵邸へ向かわれました。春星夜会には遅れて参列されるとのことです。エレノア様には、少しだけお待ちいただきたいと」
「少しだけ」
私はその言葉を繰り返した。
口の中で、もう味のしない飴のように転がる。
少しだけ。
ルーカスはいつも、そう言った。
少しだけ待ってほしい。
少しだけリリアのそばにいてやりたい。
少しだけ不安を落ち着かせてから行く。
けれど、その少しは、いつも私の時間から取られた。
王宮舞踏会の日。
両家の晩餐の日。
母の追悼礼の日。
王妃殿下への初挨拶の日。
そして、今夜。
私の二十歳の誕生日であり、王妃主催の春星夜会で正式に婚約者として紹介されるはずの日。
「十九度目です」
私は言った。
女官長の視線が、静かにこちらへ向く。
「今日で、十九度目になります」
「数えておられたのですか」
「数えたくて数えたわけではありません」
私は手元の小さな箱を開けた。
中には、未使用の招待状の控えが入っている。
破られた約束ごとに、一枚ずつ残してあった。
責めるためではない。
いつか自分が、これは大したことではないと思い込まないためだった。
「最初は、体調の悪い方を責めてはいけないと思っていました」
「はい」
「二度目も、三度目も、ルーカス様はお優しいのだと思いました」
「……」
「十度目を過ぎた頃から、私は自分の予定を先に諦めるようになりました」
箱の中で、白い招待状が重なっている。
どれもきちんと保管されていた。
きちんと保管していなければ、きっと私は自分の痛みをなかったことにした。
リリア様は病弱なのだから。
ルーカス様は優しい方なのだから。
私が少し待てば済むのだから。
そうやって、自分の時間を何度も後ろへ下げた。
「でも、今夜は違います」
私は箱を閉じた。
「今夜は、私一人の予定ではありません。王妃殿下が主催し、両家が参列し、王妃宮が婚約披露の場として整えてくださった夜会です」
「その通りです」
「ルーカス様は、それを知ったうえで行かれた」
「はい」
「では、もう十分です」
私は立ち上がった。
夜会用の薄青のドレスが、足元で静かに揺れる。
母が選んでくれた真珠の髪飾り。
父が不器用に褒めてくれた白い手袋。
すべて、今日のために整えられたものだった。
その今日を、私は待合室にはしない。
「女官長」
「はい」
「本日の婚約披露は中止してください」
女官長は、驚かなかった。
ただ、まっすぐ私を見た。
「レナート侯爵家との婚約については」
「エルディア公爵家より、正式に婚約解消を申し立てます」
「承知いたしました」
女官長が一礼する。
その姿を見て、胸の奥にあったものが少しだけほどけた。
叫ばなくてもいい。
泣き崩れなくてもいい。
正しい形で、終わらせればいい。
それだけのことだった。
ルーカス・レナートとの婚約は、三年前に決まった。
私はエルディア公爵家の長女。
彼はレナート侯爵家の嫡男。
家格としては私の家の方が上だが、レナート家は王都の南方街道を押さえる有力家門で、政治的な釣り合いは悪くなかった。
ルーカスは、初めは誠実な青年に見えた。
少なくとも、私にはそう見えた。
柔らかい金髪。
穏やかな青い目。
誰にでも優しく、弱い者を放っておけない。
その優しさに、私は少しだけ惹かれていたのだと思う。
リリア・メルヴィル男爵令嬢は、彼の幼なじみだった。
幼い頃から体が弱く、社交の場にはあまり出ない。
だが、ルーカスの名を聞くと安心するらしい。
最初にそう聞いた時、私は気の毒に思った。
病弱な方が不安になるのは、仕方のないことだ。
婚約者である私が、ルーカスの優しさを狭めてはいけない。
そう思った。
一度目は、王宮舞踏会だった。
ルーカスは、リリアが熱を出したと言って途中で帰った。
私は一人で舞踏会を終えた。
二度目は、両家の晩餐だった。
リリアが夜に不安を訴えたという使いが来て、ルーカスは食後の挨拶をせずに席を立った。
三度目は、観劇の日。
四度目は、慈善市。
五度目は、王妃殿下への初挨拶の打ち合わせ。
六度目は、私の母の追悼礼。
その日、ルーカスは言った。
「リリアは、亡くなった母上のことを思い出して泣いているんだ。君なら分かってくれると思った」
私は、その時初めて、分かることと許すことは違うのだと知った。
けれど、言えなかった。
母を亡くした私より、リリア様の不安を優先したのですね、と。
言えなかった。
それからも、約束は破られた。
十度目。
十二度目。
十五度目。
十八度目。
いつも理由は同じだった。
リリアが不安がっている。
リリアが泣いている。
リリアには自分が必要だ。
そして、最後には必ずこう言った。
「君なら、待っていてくれると思った」
私は待った。
何度も。
だから今夜まで来てしまった。
十九度目まで。
春星夜会の広間へ入ると、視線が集まった。
王妃宮の女官長が、私の少し後ろに立っている。
ルーカスはいない。
私の隣には誰もいない。
けれど、私は背筋を伸ばした。
空いた隣を見られることより、空いた隣を埋めるために待ち続けることの方が、もうずっと恥ずかしかった。
父は、広間の端で私を見つけると、すぐに近づいてきた。
エルディア公爵である父は、いつもは感情をあまり表に出さない。
けれど今夜は、目元が少しだけ険しかった。
「エレノア」
「お父様」
「ルーカス殿は」
「メルヴィル男爵邸へ向かわれました」
父の表情が硬くなる。
「またか」
「はい」
「お前はどうする」
「婚約解消を申し立てます」
父は一瞬だけ黙った。
それから、深く頷いた。
「分かった」
「反対なさらないのですか」
「反対する理由がない」
その言葉だけで、胸の奥が熱くなった。
父は、私が待ち続けていたことを見ていないと思っていた。
けれど、見ていなかったわけではなかったらしい。
「十九度目だろう」
「……ご存じでしたか」
「全部ではない」
父は苦い顔で言った。
「だが、十分すぎる」
私は小さく息を吸った。
十分すぎる。
その言葉を、ずっと誰かに言ってほしかったのだと思う。
王妃殿下が、広間の奥の玉座に近い席から私を見ていた。
淡い金の髪を結い上げた、美しい方だ。
けれど、その目はただ優しいだけではない。
王妃として、多くの婚姻と家の関係を見てきた目だった。
女官長が、王妃殿下へ低く報告する。
王妃殿下は頷き、私を招いた。
私は父とともに進み出る。
「エレノア・エルディア」
「はい、王妃殿下」
「本来なら、今夜はあなたとルーカス・レナートの婚約披露を行う予定でした」
「はい」
「ルーカス・レナートは、今ここにいません」
「はい」
「あなたは、この場で婚約披露を中止し、婚約解消を申し立てるのですね」
「はい」
声は震えなかった。
王妃殿下は、しばらく私を見ていた。
それから、静かに言った。
「婚約披露を中止します」
広間に、低いざわめきが広がった。
王妃殿下はそれを気にしなかった。
「エルディア公爵家からの婚約解消申し立てについては、王妃宮が受理の立会いを行います。レナート侯爵家には、正式な説明を求めます」
「ありがとうございます」
「それから」
王妃殿下の声が、少しだけ柔らかくなる。
「今夜は、あなたの二十歳の誕生日でもありましたね」
「はい」
「ならば、今夜を待たされた夜だけで終わらせてはいけません」
その言葉に、胸が少し詰まった。
王妃殿下は女官長へ視線を向ける。
「エレノアの席を、私の近くへ」
「承知いたしました」
「婚約披露ではなく、二十歳を迎えた公爵令嬢として紹介します」
広間のざわめきが変わった。
婚約者に待たされた哀れな令嬢。
そう見られる前に、王妃殿下が場の意味を変えたのだ。
私は深く一礼した。
「ご厚情に感謝いたします」
「感謝は後でよいわ」
王妃殿下は、かすかに微笑んだ。
「まずは、あなたの夜を取り戻しなさい」
夜会が進むにつれ、私は少しずつ息がしやすくなっていった。
ルーカスはいない。
だから待たなくていい。
それだけで、こんなに楽なのだと初めて知った。
王妃殿下の近くの席で、私は来賓の挨拶を受けた。
父は横で静かに控えている。
誰も、私に同情の言葉だけを向けなかった。
王妃殿下がそういう場に変えてくれたからだ。
「エレノア嬢」
低い声がして、私は顔を上げた。
深い藍色の礼装をまとった男性が立っている。
オスカー・レーヴェルト大公子。
王妃殿下の甥であり、王宮儀礼の監督補佐を務める方だ。
年は私より少し上。
穏やかな顔立ちだが、目はよく動く。
王宮で何度か顔を合わせたことはあるが、ゆっくり話したことはなかった。
「レーヴェルト大公子殿下」
「今夜の進行変更は、王妃宮の記録に残ります」
「はい」
「あなたに瑕疵はありません」
「ありがとうございます」
「そして、あなたは捨てられたわけでも、置き去りにされたわけでもない」
私は少しだけ目を瞬いた。
オスカー様は、静かに続ける。
「十九度目で、待つことをやめたのです」
その言葉は、胸の奥へまっすぐ届いた。
慰めではない。
事実を正しく呼ばれた気がした。
「そう見えましたか」
「はい」
「私は、もう少し早くやめるべきだったかもしれません」
「それを決められるのは、あなたです」
オスカー様は、広間の中央を見る。
音楽が始まっていた。
春星夜会の最初の舞曲。
私が本来なら、ルーカスと踊るはずだった曲。
「踊りますか、と言うべき場面かもしれませんが」
オスカー様はそう言って、私を見る。
「今夜は、踊りたいですか」
その問いに、私は少し驚いた。
多くの人なら、ここで私を救うように手を差し出したかもしれない。
婚約者に置いていかれた令嬢を、別の男性が踊らせる。
絵としては、きっと美しい。
けれど、オスカー様は先に訊いた。
私が踊りたいかどうかを。
「……少し、疲れています」
「では、踊らない方がいい」
「よろしいのですか」
「あなたの夜です」
彼は、当たり前のように言った。
「あなたが踊るかどうかを、私が決めるものではありません」
私は思わず小さく笑った。
今夜初めて、自然に笑えた気がした。
「では、踊りません」
「承知しました」
「でも、お茶ならいただけます」
「それは良い提案です」
オスカー様が女官へ合図すると、王妃宮の小さな茶席が用意された。
広間の端で、音楽を聞きながら、私は温かい紅茶を飲んだ。
誰かを待つためではなく。
自分が飲みたいから。
たったそれだけのことが、妙に贅沢だった。
ルーカスが戻ってきたのは、夜会が半ばを過ぎた頃だった。
広間の扉が開き、乱れた礼装の彼が入ってくる。
額には汗。
息は上がっている。
その背後には、白いショールをまとったリリア・メルヴィル男爵令嬢がいた。
侍女に支えられてはいるが、自分の足で歩いている。
少なくとも、命に関わる発作の直後には見えなかった。
「エレノア!」
ルーカスが私を見つけて、まっすぐ近づいてきた。
その途中で、父と王妃宮の護衛が一歩前へ出る。
ルーカスは足を止めた。
「なぜ、婚約披露が中止されたんだ」
「あなたがいなかったからです」
「少し遅れただけだ」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「十九度目です」
ルーカスの顔が強張る。
「何を」
「約束を破られた回数です」
「そんなふうに数えていたのか」
「数えなければ、自分が何度待たされたのか分からなくなりました」
「リリアは、本当に不安だったんだ」
「医師は?」
「え?」
「メルヴィル男爵家の主治医は、あなたがいなければ命に関わると診断なさいましたか」
「いや、そういうことでは」
「では、神殿医師は?」
「リリアは、私に来てほしいと言った」
「そうですか」
私は頷いた。
「なら、それは看病ではなく、選択です」
ルーカスの唇が止まる。
リリア様が、彼の背後から小さく声を上げた。
「エレノア様、わたくしのせいなのです」
「リリア様」
私は彼女を見る。
白いショール。
か弱げな顔。
潤んだ瞳。
彼女は確かに病弱なのだろう。
それを疑うつもりはない。
「あなたのお体が弱いことは、あなたの罪ではありません」
「では」
「ですが、自分の不安を理由に、正式な婚約披露の夜に他家の婚約者を呼び出したことは、別の話です」
リリア様の顔が白くなる。
「わたくし、そんなつもりでは」
「つもりがなくても、私は待たされました」
「でも、ルーカス様は幼なじみで」
「私は婚約者でした」
その言葉で、広間が静まった。
私は続ける。
「幼なじみであることは、婚約者の時間を奪う許可ではありません」
リリア様は何も言えなかった。
ルーカスが、ようやく声を絞る。
「エレノア。君なら待っていてくれると思った」
その言葉。
何度も聞いた言葉。
けれど、今夜はもう痛くなかった。
「ええ」
私は微笑んだ。
「だから、十九度待ちました」
「エレノア」
「二十度目はありません」
ルーカスの顔から血の気が引く。
「婚約を、本当に解消するのか」
「はい」
「私は、君を嫌っていたわけではない」
「存じております」
「なら、なぜ」
「嫌われていないことと、大切にされていることは違います」
ルーカスは黙った。
その後ろで、リリア様が泣き出しそうな顔をしている。
でも、私はもうその涙へ手を伸ばさなかった。
王妃殿下が、静かに口を開いた。
「ルーカス・レナート」
広間の空気が、また変わる。
「はい、王妃殿下」
「今夜の婚約披露は中止しました。エルディア公爵家からの婚約解消申し立ては、王妃宮が立会人として受理します」
「王妃殿下、私は」
「説明は後日、正式な場で聞きます」
ルーカスは唇を噛む。
王妃殿下は次に、リリア様へ視線を向けた。
「リリア・メルヴィル」
「は、はい」
「病弱であることを責めるつもりはありません。ですが、正式な王宮儀礼当日に、医師を通さず他家の婚約者を呼び出すことは、今後控えなさい」
「……はい」
「メルヴィル男爵家へも、王妃宮より注意書を送ります」
リリア様はうつむいた。
ルーカスは何か言おうとしたが、父であるレナート侯爵が彼の肩を掴んだ。
いつの間にか、侯爵夫妻も広間へ来ていたらしい。
「ルーカス」
侯爵の声は低かった。
「黙れ」
「父上」
「今夜、我が家は公爵家との婚約披露を欠席したのだ。弁明はここでするものではない」
ルーカスは、そこでようやく自分がどこにいるのかを理解したようだった。
ここはリリア様の寝室ではない。
私一人が待っていた小さな控え室でもない。
王妃主催の夜会であり、王妃宮の記録が残る場だった。
「エルディア公爵」
レナート侯爵は父へ深く頭を下げた。
「後日、正式にお詫び申し上げる」
「受けるかどうかは、娘の判断を聞いてからだ」
父の声は、静かだった。
「ただし、婚約解消については進める」
「……承知した」
ルーカスが私を見る。
青い目に、ようやく焦りではない痛みが浮かんでいた。
「エレノア」
「さようなら、ルーカス様」
「私は」
「どうか、これからは待たせない方をお選びください」
彼は何も返せなかった。
その夜、私は最後まで夜会に残った。
婚約披露は中止された。
けれど、私の誕生日の紹介は行われた。
王妃殿下がそう決めたからだ。
私は踊らなかった。
でも、お茶を飲んだ。
何人かの令嬢と話し、王妃殿下へ礼をし、父と一緒に馬車へ乗った。
帰りの馬車の中で、父が言った。
「よくやった」
「婚約を壊した娘に言う言葉でしょうか」
「自分を壊す婚約を続けるより、よほどいい」
私は窓の外を見た。
王宮の灯りが遠ざかっていく。
十九度目の夜。
それは、私が待つのをやめた夜になった。
「お父様」
「何だ」
「もっと早く、相談すればよかったです」
「そうだな」
「怒っていますか」
「少し」
「私に?」
「自分にだ」
父は、苦い声で言った。
「お前が十九度も数える前に、気づくべきだった」
私は何も言えなかった。
ただ、馬車の揺れに合わせて、手袋の上から自分の指を握った。
今夜、私は失った。
でも、取り戻したものもあった。
自分の時間。
自分の夜。
自分が、もう待たなくてよいのだという感覚。
それは、思っていたよりずっと大きかった。
婚約解消は、十日後に正式に成立した。
レナート侯爵家からは、謝罪状と違約金が届いた。
ルーカスはしばらく王都の社交から離され、侯爵家の代理業務も停止されたと聞いた。
リリア様のメルヴィル男爵家には、王妃宮から注意書が送られた。
今後、正式な王宮儀礼当日の呼び出しについては、医師または神殿を通すこと。
私的な不安を理由に、他家の婚約者や式典関係者を呼び出さないこと。
それは罰というより、線引きだった。
病弱であることは責めない。
だが、誰かの人生を自分の不安の支えにしてよいわけではない。
その線が、ようやく文書になった。
私には、いろいろな噂がついた。
十九度も待った哀れな令嬢。
婚約者を夜会で切った冷たい公爵令嬢。
王妃殿下のお気に入り。
大公子と茶を飲んだらしい。
人々は好きなように話した。
以前の私なら、気にしていたかもしれない。
でも今は、あまり気にならなかった。
噂は、私の予定を決めない。
そう知ったからだ。
春星夜会から一月後、オスカー様から招待状が届いた。
王宮の小庭での茶会。
同席者は王妃宮の女官長。
時刻は午後三時。
所要時間は一刻程度。
都合が悪ければ、別日程を三つ提示する。
そこまで丁寧に書かれていて、私は思わず笑ってしまった。
招待状というより、予定確認に近い。
けれど、それがとても心地よかった。
急に呼び出されない。
待たされない。
私の予定を、私のものとして扱ってくれる。
私は返書を書いた。
午後三時に伺います、と。
ただし、二刻以上は滞在できないこと。
その日の夕方には、父との約束があること。
翌日、オスカー様から短い返事が届いた。
承知しました。
二刻以内に終えます。
お父上とのお約束を優先してください。
私はその文を、しばらく見つめていた。
優先してください。
その言葉が、こんなに温かいものだとは知らなかった。
茶会の日、オスカー様は開始時刻の少し前に庭にいた。
早すぎず、遅れず。
私が到着すると、彼は立ち上がって一礼した。
「お時間どおりですね」
「あなたも」
「待たせたくありませんでした」
「待つかどうかは、私が決めます」
「そうでした」
オスカー様は、少しだけ笑った。
「では、今日はあなたが来てくださると信じて、時間どおりに来ました」
「それなら、悪くありません」
「光栄です」
茶は穏やかだった。
王宮の噂話ではなく、今読んでいる本の話をした。
王妃宮の花壇の話。
最近、王都の孤児院で始まった読み書き教室の話。
父との約束の話。
オスカー様は、私が話す時に急かさなかった。
自分の話へ無理に戻さなかった。
ただ聞き、必要なところで答えた。
「エレノア嬢」
茶会の終わりに、彼は言った。
「次も、お誘いしてよろしいでしょうか」
「予定を確認してからなら」
「もちろん」
「急な呼び出しは困ります」
「しません」
「もし、やむを得ず遅れる場合は」
「事前に知らせます。理由も伝えます。代替日も出します」
あまりにも真面目な返事に、私は笑ってしまった。
「完璧ですね」
「努力しています」
「なぜ、そこまで」
オスカー様は、少しだけ考えた。
「あなたに、また待たされた夜を思い出させたくありません」
胸の奥が、静かに揺れた。
甘い言葉ではない。
けれど、私には十分だった。
「私はもう、ただ待つ女ではありません」
「存じています」
「私の時間を軽んじる方とは、お付き合いしません」
「当然です」
「あなたは、それでよろしいのですか」
「むしろ、安心します」
私は首を傾げた。
オスカー様は、穏やかに言った。
「ご自分を軽んじる相手から離れられる方なら、私も軽んじないよう努力すればよいだけです」
「簡単におっしゃいますね」
「難しいことですか」
「人によっては」
「私には、難しくありません」
その返事が、あまりにもまっすぐだった。
私は目を伏せ、紅茶の残りを見た。
琥珀色の水面に、小庭の春の光が揺れている。
「では、次の招待状をお待ちしています」
「はい」
「でも、私が返事をしない限り、予定は決まりません」
「もちろん」
「それから、私もお誘いすることがあります」
オスカー様の目が、少しだけ明るくなった。
「それは、ぜひ」
「待っていてくださいますか」
「待つと決めたなら、待ちます」
私は笑った。
待つことそのものが悪いのではない。
自分の意思を奪われたまま、当然のように待たされることが苦しかったのだ。
待ちたい時に待つ。
待ちたくない時には離れる。
その選択を、私はようやく取り戻した。
茶会は、予定どおり二刻以内で終わった。
オスカー様は、私を父との約束へ遅れさせなかった。
それだけのことが、ひどく信頼できることに思えた。
半年後。
私は王宮の秋星夜会に出席していた。
春星夜会と同じ広間。
けれど、今夜の私は誰かを待っていなかった。
ルーカスは、別の地方領へ移されたと聞いた。
リリア様は療養を続けているらしい。
彼らがどうなったのか、詳しくは知らない。
もう、私の予定に関わる人たちではなかった。
オスカー様は、約束の時刻に来た。
早すぎず、遅れず。
私の前で一礼し、手を差し出す。
「今夜は、踊りたいですか」
その問いに、私は微笑んだ。
半年前、彼は同じように訊いた。
あの時、私は踊らなかった。
今夜は違う。
「はい」
「では、一曲いただいても?」
「喜んで」
私は彼の手を取った。
広間の中央へ進む。
かつて、私はこの場所で空いた隣を見られるのが怖かった。
今は違う。
隣に立つ人はいる。
けれど、もし彼がいなかったとしても、私は自分の足で立てる。
それを知っているから、手を取れる。
音楽が始まる。
オスカー様は私の歩幅に合わせた。
急がせない。
置いていかない。
ただ、同じ音に合わせて進む。
それが心地よかった。
「エレノア嬢」
「はい」
「私は、あなたに待っていてほしいとは言いません」
「はい」
「ただ、あなたが選んでくださるなら、これからも予定を重ねたいと思っています」
私は少しだけ笑った。
「それは、求婚に近いお話でしょうか」
「今は、正式な交際の申し込みです」
「段階を踏まれるのですね」
「あなたの時間を勝手に進めたくありません」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
私は半年前の自分を思い出した。
控え室で席札を裏返した私。
十九枚の招待状を見つめていた私。
もう待たないと決めた私。
あの夜があったから、今この手を選べる。
「では、正式な交際をお受けします」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「予定は、二人で決めます」
オスカー様は、少しだけ笑った。
「もちろんです」
音楽が続く。
秋星夜会の灯りが、広間を柔らかく照らしている。
私はもう、誰かの不安のために、自分の夜を差し出すだけの令嬢ではない。
待つかどうかは、私が決める。
約束をするかどうかも、私が決める。
そして今、私はこの人と次の約束をしてもよいと思っている。
十九度目の約束破りは、私の終わりではなかった。
二十度目を作らなかったから、ここへ来られた。
私はオスカー様の手を、ほんの少しだけ握り返した。
待たされるためではなく。
選んで歩くために。
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