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婚約者が十九度目の約束破りで病弱な幼なじみを優先したので、二十度目はありません

掲載日:2026/05/21

 十九度目の約束が破られた夜、私は婚約者の席札を裏返した。



 王宮南棟の控え室には、春星夜会の音楽がかすかに届いている。


 遠くの広間では、もう楽団が調弦を始めているはずだった。


 銀の燭台。


 白い薔薇。


 王妃宮の女官たちが整えた夜会用の席札。


 その一つに、ルーカス・レナートという名が書かれていた。


 私の婚約者。


 今夜、王妃殿下の前で、私の隣に立つはずだった人。


 私はその席札を、裏返した。


 白い紙の裏には、何も書かれていない。


 それが、今の私たちにふさわしいと思った。



「エレノア様」



 王妃宮の女官長が、静かに私の名を呼んだ。


 彼女の手には、先ほど届いたばかりの伝言がある。


 封蝋はレナート侯爵家のもの。


 差出人は、婚約者であるルーカス本人ではなく、彼の従者だった。



「お読みになりますか」


「いいえ」



 私は首を振った。



「内容は分かります」


 女官長は、少しだけ目を伏せた。


 そして、感情を抑えた声で読み上げる。



「リリア様が強く不安がっておられるため、ルーカス様はメルヴィル男爵邸へ向かわれました。春星夜会には遅れて参列されるとのことです。エレノア様には、少しだけお待ちいただきたいと」


「少しだけ」


 私はその言葉を繰り返した。


 口の中で、もう味のしない飴のように転がる。



 少しだけ。


 ルーカスはいつも、そう言った。


 少しだけ待ってほしい。


 少しだけリリアのそばにいてやりたい。


 少しだけ不安を落ち着かせてから行く。


 けれど、その少しは、いつも私の時間から取られた。


 王宮舞踏会の日。


 両家の晩餐の日。


 母の追悼礼の日。


 王妃殿下への初挨拶の日。


 そして、今夜。


 私の二十歳の誕生日であり、王妃主催の春星夜会で正式に婚約者として紹介されるはずの日。



「十九度目です」



 私は言った。


 女官長の視線が、静かにこちらへ向く。



「今日で、十九度目になります」


「数えておられたのですか」


「数えたくて数えたわけではありません」



 私は手元の小さな箱を開けた。


 中には、未使用の招待状の控えが入っている。


 破られた約束ごとに、一枚ずつ残してあった。


 責めるためではない。


 いつか自分が、これは大したことではないと思い込まないためだった。



「最初は、体調の悪い方を責めてはいけないと思っていました」


「はい」


「二度目も、三度目も、ルーカス様はお優しいのだと思いました」


「……」


「十度目を過ぎた頃から、私は自分の予定を先に諦めるようになりました」


 箱の中で、白い招待状が重なっている。


 どれもきちんと保管されていた。


 きちんと保管していなければ、きっと私は自分の痛みをなかったことにした。


 リリア様は病弱なのだから。


 ルーカス様は優しい方なのだから。


 私が少し待てば済むのだから。


 そうやって、自分の時間を何度も後ろへ下げた。



「でも、今夜は違います」



 私は箱を閉じた。



「今夜は、私一人の予定ではありません。王妃殿下が主催し、両家が参列し、王妃宮が婚約披露の場として整えてくださった夜会です」


「その通りです」


「ルーカス様は、それを知ったうえで行かれた」


「はい」


「では、もう十分です」



 私は立ち上がった。


 夜会用の薄青のドレスが、足元で静かに揺れる。


 母が選んでくれた真珠の髪飾り。


 父が不器用に褒めてくれた白い手袋。


 すべて、今日のために整えられたものだった。


 その今日を、私は待合室にはしない。



「女官長」


「はい」


「本日の婚約披露は中止してください」


 女官長は、驚かなかった。


 ただ、まっすぐ私を見た。



「レナート侯爵家との婚約については」


「エルディア公爵家より、正式に婚約解消を申し立てます」


「承知いたしました」



 女官長が一礼する。


 その姿を見て、胸の奥にあったものが少しだけほどけた。


 叫ばなくてもいい。


 泣き崩れなくてもいい。


 正しい形で、終わらせればいい。


 それだけのことだった。




 ルーカス・レナートとの婚約は、三年前に決まった。


 私はエルディア公爵家の長女。


 彼はレナート侯爵家の嫡男。


 家格としては私の家の方が上だが、レナート家は王都の南方街道を押さえる有力家門で、政治的な釣り合いは悪くなかった。


 ルーカスは、初めは誠実な青年に見えた。


 少なくとも、私にはそう見えた。


 柔らかい金髪。


 穏やかな青い目。


 誰にでも優しく、弱い者を放っておけない。


 その優しさに、私は少しだけ惹かれていたのだと思う。



 リリア・メルヴィル男爵令嬢は、彼の幼なじみだった。


 幼い頃から体が弱く、社交の場にはあまり出ない。


 だが、ルーカスの名を聞くと安心するらしい。


 最初にそう聞いた時、私は気の毒に思った。


 病弱な方が不安になるのは、仕方のないことだ。


 婚約者である私が、ルーカスの優しさを狭めてはいけない。


 そう思った。



 一度目は、王宮舞踏会だった。


 ルーカスは、リリアが熱を出したと言って途中で帰った。


 私は一人で舞踏会を終えた。



 二度目は、両家の晩餐だった。


 リリアが夜に不安を訴えたという使いが来て、ルーカスは食後の挨拶をせずに席を立った。



 三度目は、観劇の日。


 四度目は、慈善市。


 五度目は、王妃殿下への初挨拶の打ち合わせ。


 六度目は、私の母の追悼礼。


 その日、ルーカスは言った。



「リリアは、亡くなった母上のことを思い出して泣いているんだ。君なら分かってくれると思った」



 私は、その時初めて、分かることと許すことは違うのだと知った。


 けれど、言えなかった。


 母を亡くした私より、リリア様の不安を優先したのですね、と。


 言えなかった。



 それからも、約束は破られた。


 十度目。


 十二度目。


 十五度目。


 十八度目。


 いつも理由は同じだった。


 リリアが不安がっている。


 リリアが泣いている。


 リリアには自分が必要だ。


 そして、最後には必ずこう言った。



「君なら、待っていてくれると思った」



 私は待った。


 何度も。


 だから今夜まで来てしまった。


 十九度目まで。




 春星夜会の広間へ入ると、視線が集まった。


 王妃宮の女官長が、私の少し後ろに立っている。


 ルーカスはいない。


 私の隣には誰もいない。


 けれど、私は背筋を伸ばした。


 空いた隣を見られることより、空いた隣を埋めるために待ち続けることの方が、もうずっと恥ずかしかった。



 父は、広間の端で私を見つけると、すぐに近づいてきた。


 エルディア公爵である父は、いつもは感情をあまり表に出さない。


 けれど今夜は、目元が少しだけ険しかった。



「エレノア」


「お父様」


「ルーカス殿は」


「メルヴィル男爵邸へ向かわれました」


 父の表情が硬くなる。



「またか」


「はい」


「お前はどうする」


「婚約解消を申し立てます」



 父は一瞬だけ黙った。


 それから、深く頷いた。



「分かった」


「反対なさらないのですか」


「反対する理由がない」



 その言葉だけで、胸の奥が熱くなった。


 父は、私が待ち続けていたことを見ていないと思っていた。


 けれど、見ていなかったわけではなかったらしい。



「十九度目だろう」


「……ご存じでしたか」


「全部ではない」



 父は苦い顔で言った。



「だが、十分すぎる」


 私は小さく息を吸った。


 十分すぎる。


 その言葉を、ずっと誰かに言ってほしかったのだと思う。



 王妃殿下が、広間の奥の玉座に近い席から私を見ていた。


 淡い金の髪を結い上げた、美しい方だ。


 けれど、その目はただ優しいだけではない。


 王妃として、多くの婚姻と家の関係を見てきた目だった。



 女官長が、王妃殿下へ低く報告する。


 王妃殿下は頷き、私を招いた。


 私は父とともに進み出る。



「エレノア・エルディア」


「はい、王妃殿下」


「本来なら、今夜はあなたとルーカス・レナートの婚約披露を行う予定でした」


「はい」


「ルーカス・レナートは、今ここにいません」


「はい」


「あなたは、この場で婚約披露を中止し、婚約解消を申し立てるのですね」


「はい」



 声は震えなかった。


 王妃殿下は、しばらく私を見ていた。


 それから、静かに言った。



「婚約披露を中止します」



 広間に、低いざわめきが広がった。


 王妃殿下はそれを気にしなかった。



「エルディア公爵家からの婚約解消申し立てについては、王妃宮が受理の立会いを行います。レナート侯爵家には、正式な説明を求めます」


「ありがとうございます」


「それから」



 王妃殿下の声が、少しだけ柔らかくなる。



「今夜は、あなたの二十歳の誕生日でもありましたね」


「はい」


「ならば、今夜を待たされた夜だけで終わらせてはいけません」



 その言葉に、胸が少し詰まった。


 王妃殿下は女官長へ視線を向ける。



「エレノアの席を、私の近くへ」


「承知いたしました」


「婚約披露ではなく、二十歳を迎えた公爵令嬢として紹介します」


 広間のざわめきが変わった。


 婚約者に待たされた哀れな令嬢。


 そう見られる前に、王妃殿下が場の意味を変えたのだ。


 私は深く一礼した。



「ご厚情に感謝いたします」


「感謝は後でよいわ」



 王妃殿下は、かすかに微笑んだ。



「まずは、あなたの夜を取り戻しなさい」




 夜会が進むにつれ、私は少しずつ息がしやすくなっていった。


 ルーカスはいない。


 だから待たなくていい。


 それだけで、こんなに楽なのだと初めて知った。


 王妃殿下の近くの席で、私は来賓の挨拶を受けた。


 父は横で静かに控えている。


 誰も、私に同情の言葉だけを向けなかった。


 王妃殿下がそういう場に変えてくれたからだ。



「エレノア嬢」


 低い声がして、私は顔を上げた。


 深い藍色の礼装をまとった男性が立っている。


 オスカー・レーヴェルト大公子。


 王妃殿下の甥であり、王宮儀礼の監督補佐を務める方だ。


 年は私より少し上。


 穏やかな顔立ちだが、目はよく動く。


 王宮で何度か顔を合わせたことはあるが、ゆっくり話したことはなかった。



「レーヴェルト大公子殿下」


「今夜の進行変更は、王妃宮の記録に残ります」


「はい」


「あなたに瑕疵はありません」


「ありがとうございます」


「そして、あなたは捨てられたわけでも、置き去りにされたわけでもない」


 私は少しだけ目を瞬いた。


 オスカー様は、静かに続ける。



「十九度目で、待つことをやめたのです」


 その言葉は、胸の奥へまっすぐ届いた。


 慰めではない。


 事実を正しく呼ばれた気がした。



「そう見えましたか」


「はい」


「私は、もう少し早くやめるべきだったかもしれません」


「それを決められるのは、あなたです」



 オスカー様は、広間の中央を見る。


 音楽が始まっていた。


 春星夜会の最初の舞曲。


 私が本来なら、ルーカスと踊るはずだった曲。



「踊りますか、と言うべき場面かもしれませんが」


 オスカー様はそう言って、私を見る。



「今夜は、踊りたいですか」


 その問いに、私は少し驚いた。


 多くの人なら、ここで私を救うように手を差し出したかもしれない。


 婚約者に置いていかれた令嬢を、別の男性が踊らせる。


 絵としては、きっと美しい。


 けれど、オスカー様は先に訊いた。


 私が踊りたいかどうかを。



「……少し、疲れています」


「では、踊らない方がいい」


「よろしいのですか」


「あなたの夜です」



 彼は、当たり前のように言った。



「あなたが踊るかどうかを、私が決めるものではありません」


 私は思わず小さく笑った。


 今夜初めて、自然に笑えた気がした。



「では、踊りません」


「承知しました」


「でも、お茶ならいただけます」


「それは良い提案です」


 オスカー様が女官へ合図すると、王妃宮の小さな茶席が用意された。


 広間の端で、音楽を聞きながら、私は温かい紅茶を飲んだ。


 誰かを待つためではなく。


 自分が飲みたいから。


 たったそれだけのことが、妙に贅沢だった。




 ルーカスが戻ってきたのは、夜会が半ばを過ぎた頃だった。


 広間の扉が開き、乱れた礼装の彼が入ってくる。


 額には汗。


 息は上がっている。


 その背後には、白いショールをまとったリリア・メルヴィル男爵令嬢がいた。


 侍女に支えられてはいるが、自分の足で歩いている。


 少なくとも、命に関わる発作の直後には見えなかった。



「エレノア!」



 ルーカスが私を見つけて、まっすぐ近づいてきた。


 その途中で、父と王妃宮の護衛が一歩前へ出る。


 ルーカスは足を止めた。



「なぜ、婚約披露が中止されたんだ」


「あなたがいなかったからです」


「少し遅れただけだ」


「いいえ」



 私は静かに首を振った。



「十九度目です」


 ルーカスの顔が強張る。



「何を」


「約束を破られた回数です」


「そんなふうに数えていたのか」


「数えなければ、自分が何度待たされたのか分からなくなりました」


「リリアは、本当に不安だったんだ」


「医師は?」


「え?」


「メルヴィル男爵家の主治医は、あなたがいなければ命に関わると診断なさいましたか」


「いや、そういうことでは」


「では、神殿医師は?」


「リリアは、私に来てほしいと言った」


「そうですか」



 私は頷いた。



「なら、それは看病ではなく、選択です」


 ルーカスの唇が止まる。


 リリア様が、彼の背後から小さく声を上げた。



「エレノア様、わたくしのせいなのです」


「リリア様」


 私は彼女を見る。


 白いショール。


 か弱げな顔。


 潤んだ瞳。


 彼女は確かに病弱なのだろう。


 それを疑うつもりはない。



「あなたのお体が弱いことは、あなたの罪ではありません」


「では」


「ですが、自分の不安を理由に、正式な婚約披露の夜に他家の婚約者を呼び出したことは、別の話です」


 リリア様の顔が白くなる。



「わたくし、そんなつもりでは」


「つもりがなくても、私は待たされました」


「でも、ルーカス様は幼なじみで」


「私は婚約者でした」


 その言葉で、広間が静まった。


 私は続ける。



「幼なじみであることは、婚約者の時間を奪う許可ではありません」


 リリア様は何も言えなかった。


 ルーカスが、ようやく声を絞る。



「エレノア。君なら待っていてくれると思った」


 その言葉。


 何度も聞いた言葉。


 けれど、今夜はもう痛くなかった。



「ええ」



 私は微笑んだ。



「だから、十九度待ちました」


「エレノア」


「二十度目はありません」


 ルーカスの顔から血の気が引く。



「婚約を、本当に解消するのか」


「はい」


「私は、君を嫌っていたわけではない」


「存じております」


「なら、なぜ」


「嫌われていないことと、大切にされていることは違います」


 ルーカスは黙った。


 その後ろで、リリア様が泣き出しそうな顔をしている。


 でも、私はもうその涙へ手を伸ばさなかった。



 王妃殿下が、静かに口を開いた。



「ルーカス・レナート」


 広間の空気が、また変わる。



「はい、王妃殿下」


「今夜の婚約披露は中止しました。エルディア公爵家からの婚約解消申し立ては、王妃宮が立会人として受理します」


「王妃殿下、私は」


「説明は後日、正式な場で聞きます」


 ルーカスは唇を噛む。


 王妃殿下は次に、リリア様へ視線を向けた。



「リリア・メルヴィル」


「は、はい」


「病弱であることを責めるつもりはありません。ですが、正式な王宮儀礼当日に、医師を通さず他家の婚約者を呼び出すことは、今後控えなさい」


「……はい」


「メルヴィル男爵家へも、王妃宮より注意書を送ります」


 リリア様はうつむいた。


 ルーカスは何か言おうとしたが、父であるレナート侯爵が彼の肩を掴んだ。


 いつの間にか、侯爵夫妻も広間へ来ていたらしい。



「ルーカス」



 侯爵の声は低かった。



「黙れ」


「父上」


「今夜、我が家は公爵家との婚約披露を欠席したのだ。弁明はここでするものではない」


 ルーカスは、そこでようやく自分がどこにいるのかを理解したようだった。


 ここはリリア様の寝室ではない。


 私一人が待っていた小さな控え室でもない。


 王妃主催の夜会であり、王妃宮の記録が残る場だった。



「エルディア公爵」



 レナート侯爵は父へ深く頭を下げた。



「後日、正式にお詫び申し上げる」


「受けるかどうかは、娘の判断を聞いてからだ」


 父の声は、静かだった。



「ただし、婚約解消については進める」


「……承知した」


 ルーカスが私を見る。


 青い目に、ようやく焦りではない痛みが浮かんでいた。



「エレノア」


「さようなら、ルーカス様」


「私は」


「どうか、これからは待たせない方をお選びください」


 彼は何も返せなかった。




 その夜、私は最後まで夜会に残った。


 婚約披露は中止された。


 けれど、私の誕生日の紹介は行われた。


 王妃殿下がそう決めたからだ。



 私は踊らなかった。


 でも、お茶を飲んだ。


 何人かの令嬢と話し、王妃殿下へ礼をし、父と一緒に馬車へ乗った。


 帰りの馬車の中で、父が言った。



「よくやった」


「婚約を壊した娘に言う言葉でしょうか」


「自分を壊す婚約を続けるより、よほどいい」


 私は窓の外を見た。


 王宮の灯りが遠ざかっていく。


 十九度目の夜。


 それは、私が待つのをやめた夜になった。



「お父様」


「何だ」


「もっと早く、相談すればよかったです」


「そうだな」


「怒っていますか」


「少し」


「私に?」


「自分にだ」



 父は、苦い声で言った。



「お前が十九度も数える前に、気づくべきだった」


 私は何も言えなかった。


 ただ、馬車の揺れに合わせて、手袋の上から自分の指を握った。


 今夜、私は失った。


 でも、取り戻したものもあった。


 自分の時間。


 自分の夜。


 自分が、もう待たなくてよいのだという感覚。


 それは、思っていたよりずっと大きかった。




 婚約解消は、十日後に正式に成立した。


 レナート侯爵家からは、謝罪状と違約金が届いた。


 ルーカスはしばらく王都の社交から離され、侯爵家の代理業務も停止されたと聞いた。


 リリア様のメルヴィル男爵家には、王妃宮から注意書が送られた。


 今後、正式な王宮儀礼当日の呼び出しについては、医師または神殿を通すこと。


 私的な不安を理由に、他家の婚約者や式典関係者を呼び出さないこと。


 それは罰というより、線引きだった。


 病弱であることは責めない。


 だが、誰かの人生を自分の不安の支えにしてよいわけではない。


 その線が、ようやく文書になった。



 私には、いろいろな噂がついた。


 十九度も待った哀れな令嬢。


 婚約者を夜会で切った冷たい公爵令嬢。


 王妃殿下のお気に入り。


 大公子と茶を飲んだらしい。


 人々は好きなように話した。


 以前の私なら、気にしていたかもしれない。


 でも今は、あまり気にならなかった。


 噂は、私の予定を決めない。


 そう知ったからだ。



 春星夜会から一月後、オスカー様から招待状が届いた。


 王宮の小庭での茶会。


 同席者は王妃宮の女官長。


 時刻は午後三時。


 所要時間は一刻程度。


 都合が悪ければ、別日程を三つ提示する。


 そこまで丁寧に書かれていて、私は思わず笑ってしまった。



 招待状というより、予定確認に近い。


 けれど、それがとても心地よかった。


 急に呼び出されない。


 待たされない。


 私の予定を、私のものとして扱ってくれる。



 私は返書を書いた。


 午後三時に伺います、と。


 ただし、二刻以上は滞在できないこと。


 その日の夕方には、父との約束があること。



 翌日、オスカー様から短い返事が届いた。



 承知しました。


 二刻以内に終えます。


 お父上とのお約束を優先してください。



 私はその文を、しばらく見つめていた。


 優先してください。


 その言葉が、こんなに温かいものだとは知らなかった。



 茶会の日、オスカー様は開始時刻の少し前に庭にいた。


 早すぎず、遅れず。


 私が到着すると、彼は立ち上がって一礼した。



「お時間どおりですね」


「あなたも」


「待たせたくありませんでした」


「待つかどうかは、私が決めます」


「そうでした」



 オスカー様は、少しだけ笑った。



「では、今日はあなたが来てくださると信じて、時間どおりに来ました」


「それなら、悪くありません」


「光栄です」


 茶は穏やかだった。


 王宮の噂話ではなく、今読んでいる本の話をした。


 王妃宮の花壇の話。


 最近、王都の孤児院で始まった読み書き教室の話。


 父との約束の話。


 オスカー様は、私が話す時に急かさなかった。


 自分の話へ無理に戻さなかった。


 ただ聞き、必要なところで答えた。



「エレノア嬢」



 茶会の終わりに、彼は言った。



「次も、お誘いしてよろしいでしょうか」


「予定を確認してからなら」


「もちろん」


「急な呼び出しは困ります」


「しません」


「もし、やむを得ず遅れる場合は」


「事前に知らせます。理由も伝えます。代替日も出します」


 あまりにも真面目な返事に、私は笑ってしまった。



「完璧ですね」


「努力しています」


「なぜ、そこまで」


 オスカー様は、少しだけ考えた。



「あなたに、また待たされた夜を思い出させたくありません」


 胸の奥が、静かに揺れた。


 甘い言葉ではない。


 けれど、私には十分だった。



「私はもう、ただ待つ女ではありません」


「存じています」


「私の時間を軽んじる方とは、お付き合いしません」


「当然です」


「あなたは、それでよろしいのですか」


「むしろ、安心します」



 私は首を傾げた。


 オスカー様は、穏やかに言った。



「ご自分を軽んじる相手から離れられる方なら、私も軽んじないよう努力すればよいだけです」


「簡単におっしゃいますね」


「難しいことですか」


「人によっては」


「私には、難しくありません」


 その返事が、あまりにもまっすぐだった。


 私は目を伏せ、紅茶の残りを見た。


 琥珀色の水面に、小庭の春の光が揺れている。



「では、次の招待状をお待ちしています」


「はい」


「でも、私が返事をしない限り、予定は決まりません」


「もちろん」


「それから、私もお誘いすることがあります」


 オスカー様の目が、少しだけ明るくなった。



「それは、ぜひ」


「待っていてくださいますか」


「待つと決めたなら、待ちます」


 私は笑った。


 待つことそのものが悪いのではない。


 自分の意思を奪われたまま、当然のように待たされることが苦しかったのだ。


 待ちたい時に待つ。


 待ちたくない時には離れる。


 その選択を、私はようやく取り戻した。



 茶会は、予定どおり二刻以内で終わった。


 オスカー様は、私を父との約束へ遅れさせなかった。


 それだけのことが、ひどく信頼できることに思えた。




 半年後。


 私は王宮の秋星夜会に出席していた。


 春星夜会と同じ広間。


 けれど、今夜の私は誰かを待っていなかった。


 ルーカスは、別の地方領へ移されたと聞いた。


 リリア様は療養を続けているらしい。


 彼らがどうなったのか、詳しくは知らない。


 もう、私の予定に関わる人たちではなかった。



 オスカー様は、約束の時刻に来た。


 早すぎず、遅れず。


 私の前で一礼し、手を差し出す。



「今夜は、踊りたいですか」


 その問いに、私は微笑んだ。


 半年前、彼は同じように訊いた。


 あの時、私は踊らなかった。


 今夜は違う。



「はい」


「では、一曲いただいても?」


「喜んで」



 私は彼の手を取った。


 広間の中央へ進む。


 かつて、私はこの場所で空いた隣を見られるのが怖かった。


 今は違う。


 隣に立つ人はいる。


 けれど、もし彼がいなかったとしても、私は自分の足で立てる。


 それを知っているから、手を取れる。



 音楽が始まる。


 オスカー様は私の歩幅に合わせた。


 急がせない。


 置いていかない。


 ただ、同じ音に合わせて進む。


 それが心地よかった。



「エレノア嬢」


「はい」


「私は、あなたに待っていてほしいとは言いません」


「はい」


「ただ、あなたが選んでくださるなら、これからも予定を重ねたいと思っています」


 私は少しだけ笑った。



「それは、求婚に近いお話でしょうか」


「今は、正式な交際の申し込みです」


「段階を踏まれるのですね」


「あなたの時間を勝手に進めたくありません」


 その言葉に、胸の奥が温かくなる。


 私は半年前の自分を思い出した。


 控え室で席札を裏返した私。


 十九枚の招待状を見つめていた私。


 もう待たないと決めた私。


 あの夜があったから、今この手を選べる。



「では、正式な交際をお受けします」


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「予定は、二人で決めます」


 オスカー様は、少しだけ笑った。



「もちろんです」


 音楽が続く。


 秋星夜会の灯りが、広間を柔らかく照らしている。


 私はもう、誰かの不安のために、自分の夜を差し出すだけの令嬢ではない。


 待つかどうかは、私が決める。


 約束をするかどうかも、私が決める。


 そして今、私はこの人と次の約束をしてもよいと思っている。



 十九度目の約束破りは、私の終わりではなかった。


 二十度目を作らなかったから、ここへ来られた。



 私はオスカー様の手を、ほんの少しだけ握り返した。


 待たされるためではなく。


 選んで歩くために。

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― 新着の感想 ―
6度目って、公爵夫人の葬儀をドタキャンしたってことなのに公爵家として抗議もしなかったのかな 侯爵家もなにしとんねん
これって王妃を軽んじる行為だからもっと重たい罪に問われても可笑しくない。 嫌っていた訳じゃないって言うけど、19回も繰り返せば逆に嫌われると思わないところが凄いですよね。 それでも、ルーカスは地方で後…
医師免許もなく看護師でもないのに行ってなにすんだか。。 ベッドでお手手つないでいちゃいちゃすると元気になんのか?? 余命いくばくもなく最後の挨拶かもしれない……とかならわかるけどさ……。一緒に婚約式会…
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