元本と利息は必ず取り立てる
目が覚めたとき、最初に気になったのは背中の草の感触だった。
アスファルトでも、フローリングでも、ましてや事務所のパイプ椅子でもない。やわらかく、しかしどこか湿った、紛れもない地面の感触。
俺――鮫島猛、二十八歳――はゆっくりと上体を起こした。
視界に飛び込んできたのは、見たことのない青い空だった。雲の形がおかしい。もくもくとしすぎていて、どこかCGめいている。木々の葉の色も深すぎる。緑というより翠に近い。そして何より、遠くの山の稜線に、これまた見たことのない形の城が見えた。石造りで、塔がいくつも突き出していて、ヨーロッパの城というより絵本の挿絵に出てきそうなやつだ。
俺はスーツの膝についた草を払いながら、静かに状況を整理した。
昨日の夜、俺は事務所から帰り道を歩いていた。深夜の渋谷、コンビニの袋を下げて。次の瞬間、なんか光った。それだけだ。
異世界転移、というやつらしかった。
漫画で読んだことはある。主人公が異世界に飛ばされて、チートスキルで無双するやつ。同僚の阿久津がよく休憩中に読んでいて、「鮫島さんも読みます?」と勧めてきたことがあった。俺は「いい」と断ったが、阿久津がスマホで読んでいるのが横から視界に入っていたから、なんとなく知識だけはあった。
問題はチートスキルだ。
俺には何もなかった。
試しに手を前に出してみたが、炎は出ない。空を飛ぶ気配もない。気合を入れて「ステータスオープン」とつぶやいてみたら、近くの茂みから小動物——小さな翼の生えた兎——が驚いて飛び出してきたが、目の前に数字が浮かび上がるようなことはなかった。
スキルなし。戦闘経験なし。魔法の素質、たぶんゼロ。
あるのは、闇金で三年働いて身についた知識と、転移のときに着ていたスーツ一式だけだった。
俺はしばらく空を見上げてから、立ち上がった。
とりあえず、金を作るところから始めなければならない。
一番近い街まで歩いて半日かかった。
道中、馬車に乗った商人とすれ違った。馬が普通の馬だったのでほっとしたが、御者台に座っている男の耳が少し尖っていた。エルフというやつだろうか。俺が道を歩いているのを見て、男は少し眉を上げたが何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
街に入ると、石畳の道と木造の建物が並んでいた。看板には見知らぬ文字が書かれていたが、なぜか意味がわかった。転移の際に言語だけは補正されたらしい。それだけが唯一の恩恵だった。
「質屋」という看板が目に入った。
俺は迷わずそこに入った。
店主は初老の男だった。カウンターの向こうで帳簿をめくっていたが、俺が入ってくると顔を上げ、一瞬固まった。
無理もない。黒いスーツに白いシャツ、緑のネクタイという格好の男が突然現れたのだ。この街の人間は皮革や麻の服が多い。俺は間違いなく異物だった。
「何かご用で」
「服を売りたい」
「……服ですか」
「ああ。見たことない素材だろう。珍しいものが好きな貴族にでも売れば値がつく」
男はしばらく俺を観察してから、立ち上がって近づいてきた。スーツの生地を指でつまんで確かめ、ネクタイを不思議そうに引っ張り、革靴をしゃがんでのぞき込んだ。
「確かに、見たことのない仕立てです。どこから来られた?」
「遠いところだ」
「……わかりました。全部で金貨五枚出しましょう」
「十枚だ」
「高すぎます」
「俺が今日見た商品のなかで、これより珍しいものがあるか」
男はまた少し固まって、それから苦笑した。「七枚」
「八枚。その代わり、このシャツだけ売らない。下に着るものと靴も残す」
「……八枚で」
こうして俺は、スーツとネクタイと外套代わりに買った中古の革ジャケット、それから街の地図と宿の一ヶ月分の前払い、簡単な食事を確保した。残った金は金貨三枚と銀貨いくつか。
元手は、これだけだ。
宿の一室で、俺はベッドに座ってその金を眺めた。
日本円に換算する方法はわからないが、街の物価を見る限り、金貨一枚で食事が数十回できる程度の価値はあるらしい。決して多くはない。しかし少なくもない。
問題は、これをどう運用するかだ。
俺に剣は使えない。魔法も使えない。体格はそこそこあるが、モンスターと戦える鍛え方はしていない。商売をするにしても、商品を仕入れて売る元手としては心細い。
じゃあ何ができるか。
答えはすぐに出た。
金を貸す。
それだけが、俺にできることだった。
翌朝、俺は街で一番にぎやかな場所を探した。
それはすぐに見つかった。冒険者ギルド、という看板の建物だ。朝から人が出入りしていて、筋骨隆々の男や、ローブを着た女や、耳の長いエルフや、小柄なドワーフが、思い思いに歩いている。
俺は入口の柱に背を預けて、しばらく観察した。
冒険者というのは、ようするにフリーランスの何でも屋だ。モンスターを倒したり、薬草を採取したり、荷物の護衛をしたりして報酬をもらう。安定はしないが、腕一本で稼げる仕事だ。
そして、安定しない仕事をしている人間には、共通の悩みがある。
金回りが悪くなる瞬間、というやつだ。
いい依頼が来るまでの空白期間。怪我で動けない時期。装備が壊れて次の依頼に出られないとき。そういうタイミングで、手元の金が尽きる。
俺はギルドの掲示板の隅に、書いてもらった紙を一枚貼った。
街の商店で墨と紙を買って、文字を書いてもらうのに多少手間取ったが、できあがった内容はこうだ。
『急ぎの金、貸します。担保不要。即日。鮫島商会。宿「眠れる猫亭」三号室』
それだけだ。屋号は適当につけた。
貼り終えてから、俺はギルドの受付嬢に話しかけた。受付嬢は赤毛の女で、愛想のいい顔をしていたが、俺の顔を見て一瞬笑顔が固まった。
「なんか怖い人が変な紙を貼ってる、という話はしないでくれ。合法的な商売をするつもりだ」
受付嬢は少し考えてから言った。「……ギルドは関係のない商売には関与しません」
「わかってる。ただ、金に困ってる冒険者がいたら、そういう選択肢があると教えてやってくれればいい。それだけだ」
俺はそれだけ言って、背を向けた。
あとは待つだけだった。
三日間、誰も来なかった。
四日目も来なかった。
五日目の夕方、宿の扉をノックする音がした。
「開いてる」
扉を開けたのは、若い男だった。二十歳前後だろうか。革鎧を着ているが、あちこち傷んでいる。顔には青あざがあった。目が充血している。おそらく、ここ数日まともに眠れていない。
男は部屋に入るなり、俺の顔を見て少し怯んだ。
無理もない。俺は顔が怖い。昔から損をしてきた顔だ。闇金で働くようになってからは、むしろ意識してその怖さを使うようにしてきた。目つきを鋭くして、表情を動かさないようにして。
「鮫島商会、ってここで合ってますか」
「ああ」
「あの、掲示板に……」
「金が要るんだろう」
男はびくっとしてから、こくりとうなずいた。
「座れ」
椅子を示すと、男は恐る恐る腰を下ろした。俺はベッドの縁に座って、男を見た。
「名前」
「ルーク、といいます。ルーク・ハービスです」
「冒険者か」
「……一応、です。まだEランクで」
「いくら要る」
ルークは少し迷ってから、「金貨二枚、です」と言った。「それだけあれば、盾を修理できます。盾が使えなくて、依頼に出られなくて……」
「担保は」
「持ってないです。だから……」
「わかってる。担保不要と書いた」
ルークはまた少し固まった。「本当に、担保なしで貸してくれるんですか」
「条件による」
俺は立ち上がって、窓際の棚から紙を取り出した。昨日、念のために作っておいた書類だ。契約書と呼べるほどのものではないが、貸付金額と返済期日と利率を書く欄を作ってある。
「金貨二枚を貸す。返済期日は一ヶ月後。利息は二割だ」
「に、二割……」
「高いと思うか」
「少し……」
「担保なし、即日、Eランクの駆け出しに貸すリスクを考えろ。銀行があるなら銀行に行け。俺は銀行より速く、うるさく聞かず、担保なしで貸す。その代わり利息を取る。嫌なら帰っていい」
ルークは黙った。しばらく手の甲を見つめていた。
「……依頼が上手くいったら、一ヶ月で返せますか」
「俺に聞くな。お前が判断することだ。ただ、返せなかった場合の話もしておく」
俺はルークの目を見た。
「返せない場合、利息は翌月も発生する。雪だるまになる前に相談に来い。相談だけなら金は取らない。ただし、踏み倒しは許さない。この街で俺のことを悪く言いふらすことも許さない。それだけ守れるなら、金を貸す」
ルークは俺の顔を、じっと見ていた。怖がっているのはわかる。それでも、逃げ出さなかった。
「……わかりました」
「サインしろ」
ルークは震える手で書類に名前を書いた。俺も書いた。
それから俺は棚から金貨を二枚取り出して、ルークの手に置いた。
冷たい金属の感触。ルークの手が、少し震えた。安堵なのか緊張なのか、あるいはその両方なのか。
「一ヶ月後、ここに来い。金貨二枚と銀貨四枚を持って」
「……はい」
「依頼、うまくやれ」
ルークは立ち上がって、深く頭を下げた。それから部屋を出ていった。足音が廊下を遠ざかっていく。
俺は椅子に座って、契約書を眺めた。
手元の金貨は一枚になった。あとは銀貨が少し。生活費を引けば、ほとんど手持ちはない。
これで、もし踏み倒されたら終わりだ。
俺は契約書を畳んで、シャツの胸ポケットに入れた。
日本にいたころ、上司の加藤さんによく言われた言葉がある。
「鮫島、金貸しってのはな、人となりを見る商売だ。数字じゃない。目を見ろ。逃げるやつかどうか、顔に出る」
ルークの目には、逃げる色はなかった。
意地と、恥と、なんとかしなければという焦りが混ざったような目だった。あの目をした人間は、たいてい返しにくる。闇金で三年、そういう目を見てきた。
もっとも、俺が闇金をしていたのは、そういう理由だけじゃない。
俺の妹、鮫島薫は今、日本で心臓の手術を待っている。手術費用は三百万円。親父が死んで、親戚に頭を下げて、それでも足りなくて、俺は闇金に就職した。
薫はたぶん、今も待っている。
俺がいなくなったことを、今頃どう思っているだろう。
俺は天井を見上げた。
この世界に、元の世界に帰る方法があるかどうかもわからない。帰れるとしたら、どのくらいかかるかもわからない。
ただ一つわかるのは、呆然としていても何も始まらないということだ。
金を稼ぎ、生き延びる。それから帰る方法を探す。
その順番でいくしかない。
俺は契約書をもう一度だけ取り出して眺めてから、また胸ポケットに戻した。
明日、もう少し大きな紙に広告を書こう。今度はギルドだけでなく、市場の掲示板にも貼る。宿の主人にも話を通しておく。口コミというのは、どの世界でも最初の足がかりだ。最初の客がつけば、次は少し楽になる。
ルーク・ハービスは、俺の最初の顧客だ。
ここから始める。
闇金で培った知識と、一枚の契約書と、金貨八枚。
元手はそれだけだが、それだけあれば十分だ。
俺は窓から夜の街を見下ろした。
石畳の道に、魔法の光らしき淡いランプが灯っている。馬車が一台、石畳の上をゆっくり走っている。どこかの酒場から、陽気な歌声が聞こえてくる。
異世界だ、と今さら思う。
だが金が必要なのはどの世界も同じで、金に困る人間がいる限り、俺の仕事はなくならない。
――鮫島商会、本日より営業中。




