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第3話:最初の壁・マナー教育と「まぁいっか」

 聖霊庁の午前10時。

 本来であれば、陽光が差し込む美しい回廊で、優雅に茶を嗜んでいるはずの時間だ。しかし、サトウ・ミナトを待ち受けていたのは、窓一つない「修練の間」と、氷の微笑を浮かべた教育係、エドナの苛烈な視線だった。


「ミナト様。その歩き方は何ですか。踵からドカドカと音を立てて……まるで、仕事帰りの酔っ払いのような下品さです。もう一度、最初からやり直しなさい」


 エドナの言葉は、鋭利な刃物のようだった。

 だが、その矛先を向けられている当の本人であるミナトは、ドレスの裾を摘み直しながら、内心で鼻を鳴らした。


(……酔っ払い? ほう、いい観察眼だわ。実際、精神的には常に金曜の夜の気分なのよ。駅の階段をよろよろ降りる時なんて、もっと重心が後ろだったぜ)


 ミナトは、エドナの叱責を「人格への攻撃」としては受け取らない。

 それは長年の社会生活で培った、生存のための防衛本能だ。

 嫌みな上司の怒鳴り声は「BGM」であり、攻撃的なメールは「解読すべきテキストデータ」に過ぎない。エドナの厳しい言葉も、ミナトの脳内では即座に「業務上の修正依頼」へと変換され、感情のフィルタを通ることなく処理されていく。


(いいか、湊。こういう時は、反論したら負けなのよ。反論は相手に『議論の余地』を与え、結果として拘束時間が延びる。ここは『誠実そうな顔』と『無内容な謝罪』で、いかに早くこの場をクローズさせるか。それが、定時退社を狙う大人の鉄則よ)


「……大変申し訳ありません、エドナ様。私の不徳の致すところです。以後、歩法の最適化を図ります」


「さ、最適化……? なんですか、その可愛げのない言い回しは」


「いえ、こちらの独り言です。さあ、続きを。時間は有限ですから、巻いていきましょう」


 ミナトは、およそ16歳の少女が浮かべるはずのない、磨き抜かれた「営業スマイル」をエドナに向けた。

 それは、相手を敬っているようでいて、その実、1ミリも心を開いていない。相手が何を言おうと「仰る通りです(早く終われ)」という、鉄壁の思考停止状態。


 エドナは、ミナトの反応に不気味さを感じたのか、さらに執拗な教育を開始した。

 頭の上に分厚い魔導書を3冊載せ、さらにその上に、なみなみと注がれた紅茶のカップを置く。一滴でも零せば、昼食抜き。そんな前時代的な圧力が、この異世界では「高貴な嗜み」としてまかり通っているらしい。


(……やれやれ。これ、新入社員研修の『名刺交換百人組み手』よりはマシね。あの時は、真夏の炎天下で一日中歩かされたっけ。それに比べりゃ、魔導冷却の効いた室内で立ってるだけなんて、実質休憩みたいなもんだろ)


 ミナトは、頭上の重みを感じながら、視線を一点に固定した。

 そして、思考を「暴走」させる。

 目の前の厳しい現実から逃避するために、意識を生活の細部へと向けるのだ。


(……この部屋の壁紙、継ぎ目が甘いわね。あそこから剥がれてきそうだわ。聖霊庁の予算はどこに消えてるのかしら? 中間搾取? それとも、あのエドナさんの高級そうなブローチ代? あのブローチの輝き、どう見ても私の給料3ヶ月分は下らないわね……。

 ……あ、腹減った。今日の昼は、あの硬いパンをどうにかしてふやかして食う方法を考えねえとな。スープに浸すのは基本として、マヨネーズ……的な、卵と油の乳化ソースがあれば最高なんだが。この世界に酢はあるのかしら? 醸造技術はどうなってるのよ。もしバルサミコ的なものがあれば、ちょっとしたドレッシングが自作できるんだが……)


「ミナト様! 集中しなさい! 体が揺れていますよ!」


 エドナの怒声。

 確かに、ミナトの体はわずかに揺れていた。

 だが、それは苦しさからではない。

 脳内で「究極のポテトサラダ」のレシピを組み立てる際の興奮による、わずかな身震いだった。


「……まぁ、いっか」


 ミナトは小さく呟いた。

 それは、彼女の座右の銘であり、最強の回避呪文だ。

 エドナがどれほど完璧を求めても、ミナトの中では「嫌われても死なないし、むしろ放っておいてくれるなら好都合」という結論がすべてを上書きする。

 お局が自分を嫌おうが、大司教が眉をひそめようが、自分の「平穏な晩酌(代わりのスープ)」の時間は奪わせない。

 この「まぁいっか」という精神的余裕こそが、若さゆえに傷つきやすい他の候補生たちとは一線を画す、おっさん女子の強みだった。


「ミナト様……あなた、なぜそんなに平然としていられるのですか? 他の候補生たちは、私の指導に涙し、救いを求めて祈るというのに」


 ついに、エドナが音を上げた。

 彼女のプライドは、「自分を恐れない少女」という未知の存在を前に、少しずつ削り取られていた。

 ミナトは、頭上の本を器用に片手で押さえながら、エドナを真っ直ぐに見据えた。


「エドナ様。……怒りっていうのは、コストがかかるんですよ。血圧も上がるし、美容にも良くない。私は、もっと生産的なことにリソースを割きたいだけです。……例えば、この後の昼休みの『質』を上げる方法とか」


「せ、生産的……? リソース……?」


 エドナには、ミナトの言葉が古代の呪文のように聞こえただろう。

 だが、ミナトは止まらない。

 彼女は、エドナの横をすり抜け、窓の外を眺めた。


「嫌われても死なないし、むしろ放っておいてくれるなら好都合。……私は聖女としての義務は果たしますが、それ以上の『感情の接待』は、契約外ですので」


 その瞬間、エドナは悟った。

 この少女を、自分の型に嵌めることは不可能だと。

 ミナトの背中は、16歳の可憐な少女のそれではなく、どんな嵐にも動じない、あるいは嵐が過ぎ去るのをただ静かに待つ、老練な社会人の哀愁と余裕を湛えていた。


 結局、その日のマナー教育は、予定より1時間早く切り上げられた。

 エドナが「頭痛がする」と席を外したからだ。


(……よし。自由時間獲得。1時間も巻けるなんて、今日は冴えてるわね)


 ミナトは、誰もいなくなった修練の間で、ドレスを脱ぎ捨てたい衝動を抑えながら、大きく伸びをした。

 彼女の戦いは、常に「いかにして何もしないか」にある。

 その鋼のメンタルは、異世界の常識を少しずつ、しかし確実に侵食し始めていた。


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