第1話:開幕・おっさん女子の産声
――あー……だっる……。
意識が覚醒の淵を揺らぎ、重力という名の現実が全身に伸し掛かってきた瞬間、サトウ・ミナトの口から漏れたのは、聖女に期待されるような清らかな祈りでも、異世界に降り立った乙女の初々しい声でもなかった。それは、湿り気を帯びた重苦しい溜息。例えるなら、金曜の夜に1人で居酒屋のカウンターに陣取り、1杯目の生ビールを飲み干した後に漏れる、あの「文明への拒絶」と「生理的な解放感」が混じった、ひどく濁った音だった。
「……眩し。何この光。電気代の無駄じゃねえの。誰だよ、朝っぱらからカーテン全開にした奴は」
ミナトは、寝起きのボサボサな髪を、まるで何年も手入れされていない獣の毛を梳くようにバリバリと掻きむしり、天蓋付きのベッドの上でどっかりと胡坐をかいた。膝を立て、片手で首の裏をさすりながら、半眼で室内を眺めるその仕草は、どこからどう見ても、休日の昼過ぎにテレビの競馬中継を眺めながら、賞味期限の切れたつまみを漁る中年男性のそれだった。
だが、窓から差し込む朝日に照らされたその姿は、透き通るような白磁の肌と、夜露を孕んだ黒真珠のような瞳を持つ、紛れもない16歳の美少女である。この「サトウ・ミナト」という名の肉体は、この国において「聖女」という名の、あまりにも割に合わない役職に選ばれてしまったらしい。しかし、その内面にあるのは、美少女の皮を被っただけの、生活の合理化を何よりも優先する「おっさん女子」の魂だった。
「……いや、マジで意味わかんねえ。何だこの部屋。天井高すぎて暖房効率最悪だろ。サーキュレーターもねえのかよ。これ、冬場は底冷え確定じゃん。光熱費の請求書見たら気絶するレベルだぞ」
ミナトの視線は、部屋の隅々を「査定」するように動いた。金糸の刺繍が施されたカーテン、無駄に重厚なオーク材のチェスト、そして磨き抜かれた大理石の床。どれもこれもが「高級」を主張しているが、ミナトにとっては「掃除のしにくさ」と「維持費の高さ」を示す不吉な記号に過ぎない。
(いいか、湊。人間、身の丈に合わない贅沢は身を滅ぼすんだよ。こんな広い部屋、ルンバ……いや、魔導式の自動掃除機でもなきゃ、角のホコリまで手が回らねえだろ。っていうか、ベッドからトイレまでが遠すぎる。この動線設計した奴、1回現場に出て研修受けてこいよ)
彼女の思考は、若き乙女の夢など1ミリも掠めることなく、いかにしてこの非効率な空間を、最小限のエネルギーで管理できる「最適化された巣穴」に変貌させるかという、生活臭のする現実へと暴走していく。
「ミナト様! お目覚めですか!」
部屋の重厚な扉が、これまた仰々しい音を立てて開く。飛び込んできたのは、背筋を定規で測ったように伸ばした教育係、エドナだ。彼女は、聖女候補として選ばれた奇跡の乙女が、はだけた寝巻きの間から片膝を突き出し、半眼で欠伸をしている光景を目にして、文字通り絶句した。
「……あ、エドナさん。おはよ。っていうか、その『様』付けやめてくんね? 痒くなるからさ。それより朝飯。パンじゃなくて、なんか、こう、塩っ気のあるもんねーの? 漬物とか、昨日の残りの煮物とかさ。胃に優しいやつ」
「ミナト様……! その座り方! 言葉遣い! あなたは今や、この国を救う希望である聖女候補なのですよ! もっと凛として、可憐に、花が咲くような微笑みを……!」
「凛としてとか、可憐とか……。めんどくね? どうでもよくね?」
ミナトは、エドナの必死の訴えを、飛んできた羽虫を払うような手つきで聞き流した。彼女にとって、聖女に選ばれたことは「宝くじに当たった」ような幸運ではない。聖女候補という激務フラグを察知し、いかにサボるかに全リソースを投入することを決意した彼女にとって、それは「押し付けられた不利益な契約」でしかないのだ。
(いいか、湊。ここで『はい、頑張ります!』なんて健気な返事をした日には、一生を聖女という名のブラック企業に捧げることになる。人間、期待されすぎるとろくなことがねえ。適当に『そこそこの無能』を演じて、いかに早く自由時間を確保するか……それがこの異世界で生き残るための福利厚生だ)
ミナトの脳内では、Excelのガントチャートのような「サボり計画書」が高速で書き換えられていく。彼女の行動原理は、常に「最短距離での楽」に向かっている。
「ミナト様、聞いておられますか! 10分後には身支度を終え、大聖堂への礼拝に向かわなければならないのですよ!」
「10分? 冗談。この髪の毛の寝癖、見てよ。これを人前に出せるレベルに直すだけで15分はかかる。……っていうか、この移動の動線、最悪じゃない? この部屋から玄関まで、マラソンかよってくらい遠いんだけど。あと、このドレス。なんでボタンが背中側に30個も付いてんの。設計ミスだろ。自分で着られない服なんて、欠陥住宅と同じだよ」
ミナトはベッドから這い出すと、ペタペタと裸足で大理石の床を歩いた。足裏に伝わる冷たい感触に、思わず「ヒッ」と短い悲鳴を上げる。
「若いって、いいな。こんな冷たい床でも平気で歩ける若者の細胞が羨ましいよ。私の中の細胞は、もう温かい靴下を求めてデモを起こしてるわ」
「あなたはまだ16歳でしょうが!」
エドナの怒号が部屋に響くが、ミナトの耳には届かない。彼女の意識はすでに、どうすればこの「聖女」という名のシステムからログアウトし、誰にも邪魔されずに自堕落な生活ができる「最適化された日常」を手に入れられるか、その一点に集中していた。
「……よし。決めた。とりあえず、この朝の説教タイムを5分に短縮させる仕組み、これから作るわ。エドナさん、ペンと紙。あと、これ飲み終わったら二度寝するから」
おっさん女子、サトウ・ミナト。
彼女の、その「だるさ」を武器に、異世界の非効率な常識を次々とぶち壊し、自分にとっての「極楽」を構築するための物語が、今、ここに幕を開けた。




