微かなカオリ
2026年2月。
水瀬千歳、36歳。結婚して7年目。
夫は朝早くに出勤してしまった。
実家の片付けで出てきた、小さな紙袋。
中には、2007年の夏にデパートで買ったまま、ほとんど使っていない香水。
ブルガリ ブループールオム。
蓋を開けた瞬間――
その香水の匂いが、2007年の春から夏までのあの日を、一気に連れ戻した。
2007年5月 体育祭の日
校庭でクラス対抗リレー。千歳はアンカーだったけど、ビリでゴール。
みんなに笑われて、泣きそうになってたら、3年の桐嶋先輩が水筒を差し出してくれた。
「大丈夫?」
初めてまともに話した。
汗で濡れた髪、ミントの制汗スプレー、少しだけ日焼けした首筋。
その匂いを嗅いだ瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
-この匂い、一生忘れない。-
6月 梅雨の放課後
図書館で偶然隣の席になった。
千歳が落とした消しゴムを、桐嶋先輩が拾ってくれた。
「…メアド、教えてくれない?」
突然言われて、頭真っ白。
震える指でガラケーの赤外線通信。
登録名は、「桐嶋」って入れてくれた。嬉しい。
その日の夜から始まったやり取り。
千歳は毎晩、布団の中で携帯を握り締めて打った。
「先輩、今日も練習お疲れ様です。」→返信がない。
「明日のテスト、ヤバいです…」→返信がない。
「雨、すごいですね。」→30分後に「傘、持ってる?」
たった一言で、嬉しくて死にそうになった。
桐嶋先輩からの返信を待っている間に、携帯を握り締めて眠ることもしばしば。
もはや、携帯を握り締めて眠るのが私の癖になってしまったくらいだ。
9月8日 文化祭の夜
花火が上がる中の体育館裏。千歳は勇気を出して、桐嶋先輩を呼び出す。
千歳はバイト代で買った香水を差し出す。
「先輩のことを思って…」
桐嶋先輩は少し照れ臭そうに笑って、自分の手首にシュッと一吹きした。
「メール、ちゃんと読んでるから。俺、メール打つの苦手なんだ。」
「えっ…」
「返信できなくて、ごめん。」
その言葉に千歳の胸が揺れる。
「ううん…」
「俺、来年海外に行くから…でも、やっぱり好きだわ。」
手を握られた。嬉しいけど切ない、ちょっと複雑な気持ち。
桐嶋先輩の手は熱くて、少し汗ばんでて、5月に嗅いだあの匂いと同じだった。
「そうなんですね…でも、匂いは消えないから…」
「待っててくれよ」
――2026年2月 寝室
千歳は香水を手に持ったまま、隣で寝息を立てる夫を見た。
暗い部屋の中、横顔のラインだけがぼんやり浮かぶ。
――この人の匂い、どこかで嗅いだことのある匂いだ。
そう思うのは、もう何年も前からのことだった。
千歳はそっと香水を枕元に置いた。
蓋は開けたままにして。
その微かなカオリが、ゆっくりと寝室に広がっていく。
2007年の春から夏は、
今もそっと、誰かの胸の奥で、静かに香っている。
―終わり―




