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短編読み切り

微かなカオリ

作者: 空野 翔
掲載日:2026/02/14

2026年2月。

水瀬千歳、36歳。結婚して7年目。

夫は朝早くに出勤してしまった。


実家の片付けで出てきた、小さな紙袋。

中には、2007年の夏にデパートで買ったまま、ほとんど使っていない香水。

ブルガリ ブループールオム。

蓋を開けた瞬間――


その香水の匂いが、2007年の春から夏までのあの日を、一気に連れ戻した。


2007年5月 体育祭の日

校庭でクラス対抗リレー。千歳はアンカーだったけど、ビリでゴール。

みんなに笑われて、泣きそうになってたら、3年の桐嶋先輩が水筒を差し出してくれた。

「大丈夫?」

初めてまともに話した。

汗で濡れた髪、ミントの制汗スプレー、少しだけ日焼けした首筋。

その匂いを嗅いだ瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。


-この匂い、一生忘れない。-


6月 梅雨の放課後

図書館で偶然隣の席になった。

千歳が落とした消しゴムを、桐嶋先輩が拾ってくれた。

「…メアド、教えてくれない?」

突然言われて、頭真っ白。

震える指でガラケーの赤外線通信。

登録名は、「桐嶋」って入れてくれた。嬉しい。


その日の夜から始まったやり取り。

千歳は毎晩、布団の中で携帯を握り締めて打った。


「先輩、今日も練習お疲れ様です。」→返信がない。

「明日のテスト、ヤバいです…」→返信がない。

「雨、すごいですね。」→30分後に「傘、持ってる?」

たった一言で、嬉しくて死にそうになった。

桐嶋先輩からの返信を待っている間に、携帯を握り締めて眠ることもしばしば。

もはや、携帯を握り締めて眠るのが私の癖になってしまったくらいだ。


9月8日 文化祭の夜

花火が上がる中の体育館裏。千歳は勇気を出して、桐嶋先輩を呼び出す。

千歳はバイト代で買った香水を差し出す。

「先輩のことを思って…」

桐嶋先輩は少し照れ臭そうに笑って、自分の手首にシュッと一吹きした。

「メール、ちゃんと読んでるから。俺、メール打つの苦手なんだ。」

「えっ…」

「返信できなくて、ごめん。」

その言葉に千歳の胸が揺れる。

「ううん…」

「俺、来年海外に行くから…でも、やっぱり好きだわ。」

手を握られた。嬉しいけど切ない、ちょっと複雑な気持ち。

桐嶋先輩の手は熱くて、少し汗ばんでて、5月に嗅いだあの匂いと同じだった。

「そうなんですね…でも、匂いは消えないから…」

「待っててくれよ」


――2026年2月 寝室

千歳は香水を手に持ったまま、隣で寝息を立てる夫を見た。

暗い部屋の中、横顔のラインだけがぼんやり浮かぶ。


――この人の匂い、どこかで嗅いだことのある匂いだ。

そう思うのは、もう何年も前からのことだった。


千歳はそっと香水を枕元に置いた。

蓋は開けたままにして。


その微かなカオリが、ゆっくりと寝室に広がっていく。


2007年の春から夏は、

今もそっと、誰かの胸の奥で、静かに香っている。


―終わり―


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