悪夢の残滓と第二階層の洗礼
(…寒い…痛い…)
意識が浮上する。背中に感じるのは、硬く冷たい床の感触。鼻をつくのは埃と黴の臭い。目は開けているはずなのに、何も見えない。絶対的な暗闇。手足に力が入らない。最後に何か口にしたのはいつだったか…思い出せない。
「……き…」
(…声…?)
暗闇の向こうで、重い扉が開く音がする。わずかに光が差し込み、目が眩む。
「…おい、こっちを見ろ、クソガキが!」
濁った声。叔父だ。
ガッ!
返事をする間もなく、腹部に鋭い衝撃。息が詰まり、胃液が込み上げてくる。
(痛い…なんで…?)
「てめぇのその、死んだ親父そっくりの、生意気な目が気に入らねぇんだよ!」
再び、衝撃。今度は脇腹だ。折れた肋骨が軋むような激痛が走る。
「いいか!? てめぇは疫病神だ! お前さえいなければ、うちは…! 母さん(叔母)が寝込んだのも、店の客が減ったのも、全部、全部てめぇのせいだ!!」
叔父の唾が顔にかかる。その罵声が、まるで呪いのように頭に響く。
(俺は…生きていて、いいのか…?)
「少しはありがたく思えよ? 他に行き場のないゴミ蟲を、この俺様が慈悲で生かしてやってるんだ! 感謝しろ!」
体中を蹴られ、殴られ、なす術もなく痛みに耐える。
どれくらいここに閉じ込められているのだろう。壁に爪でつけた傷の数を数えようとしても、もう指先に力が入らない。一週間か? いや、もっとか…? 十日は経ったかもしれない。その間、与えられたのは数回の水と、パンの耳だけ。飢餓感が常に内臓を締め付け、思考を鈍らせる。
もう、何も感じたくない。何も考えたくない。
(いっそ、このまま…)
意識が遠のきかけた、その時。
パチッ、パチッ…
小さな、しかし連続する破裂音。そして、焦げ臭い匂い。それはすぐに、髪の毛や布が焼けるような、もっと生々しい悪臭へと変わっていく。
(なんだ…?)
暗闇だったはずの物置の隙間から、ゆらゆらと不気味な赤い光が差し込んでいる。熱い。空気が急速に熱を帯びていく。
(火事…!?)
ゴォォォ…という低い唸りのような音と共に、熱波が襲ってくる。肌を刺すようだ。息をするたびに喉が焼けるように熱い。煙が目に染みて、涙が止まらない。
(叔父は…? いや、どうでもいい…)
壁が、天井が、ミシミシと軋み、焼け落ちる音がすぐ近くで響く。床が熱い。もう逃げられない。
(ああ…やっと、これで…終わる…疫病神に、ふさわしい…)
全身を焼かれる激痛と、窒息しそうな苦しみの中で、俺は全ての感覚を手放そうとしていた。
「…が…! …きろ!」
(…うるさい…)
「…だか! 生きているか! 返事をしろ!」
(…誰だ…?)
燃え盛る炎と黒煙の向こうから、必死な声が聞こえる。熱風の中、何かが瓦礫を掻き分ける音。
「いたぞ! 生存者発見! まだ息がある! 急げ!」
焼け爛れた腕が、力強く掴まれる。煙の中で咳き込みながら、誰かに抱きかかえられ、灼熱地獄から引きずり出される。担架に乗せられ、遠ざかる意識の中、聞こえてきたのは、野次馬たちの囁きと、駆け付けた親戚たちの冷たい声だった。
「…だから言わんこっちゃない、あんな疫病神を引き取るから…」
「…うちじゃ無理よ、あんな呪われた子…」
そこで意識が急速に覚醒し、俺は隠し部屋の硬い床の上で跳ね起きた。全身にびっしょりと嫌な汗をかいている。
「はぁっ…はぁっ…!」
心臓が激しく波打ち、呼吸が整わない。頬に伝う涙を、怒りに任せて乱暴に拭う。
(また…あの夢か…! クソッ…!)
「不屈の精神」は、困難に立ち向かう意志を与えてくれたかもしれない。だが、魂の奥深くに刻まれたおぞましい記憶とトラウマは、そう簡単には消えてくれないらしい。あのどうしようもない無力感、絶望感、そして、自分自身を汚物のように感じてしまう自己嫌悪。それらはまだ、俺の中に醜く渦巻いている。
…だが、今は違う。俺には力がある。二度と、あんな思いはしない。誰にも、あんな風に扱わせはしない。あの時の無力な俺ではないのだ。
俺は過去を、悪夢の残滓を振り払うように立ち上がり、固く拳を握りしめた。感傷に浸っている暇はない。前に進むしかないのだ。
俺は隠し部屋を出て、冒険を再開した。
頭の中で記憶を頼りにマッピングを開始する。もう一度探索してみたが、やはりこの階層にはもうめぼしいものはなさそうだ。モンスターもスライムとゴブリンばかりで、レベル5になってからはレベルアップの気配もない。どうやら、この階層で得られる経験値は頭打ちになったらしい。探索中、下へと続く新たな階段を発見していた。次の階層へ進む時が来たようだ。
再び、永遠に続くのではないかと思えるような石の階段を数十分かけて降りていく。そして、新たな階層の平坦な通路へとたどり着いた。
雰囲気は上の階と似ている。壁や天井がぼんやりと光り、視界は確保されている。しかし、すぐに異変に気づいた。
通路の先から現れたのは、「スライム」と「ゴブリン」。それは上の階と同じだったが、問題はその両方が同時に出現したことだ。上の階では、スライムの群れ、あるいはゴブリンの群れ、という形でしか遭遇しなかった。
さらに、モンスター自体にも変化が見られる。
スライムの色が、上の階の青みがかった透明ではなく、明らかに紫色を帯びているのだ。
(アシッド系か? それとも毒持ちか? とにかく、違う種類のスライムだな…)
そしてゴブリン。こちらも上の階で見た個体よりも一回り体格が大きく、がっしりしている。持っている武器も違う。上の階では錆びたナイフや粗末なこん棒が主だったが、ここのゴブリンは使い込まれてはいるが、まともな形状の剣や、さらにはクロスボウのような遠距離武器まで持っていた。
(明らかに難易度が上がっている…!)
モンスターを観察している間に、向こうもこちらを完全に認識したようだった。ゴブリンが奇声を発し、スライムが蠢きながら距離を詰めてくる。
(まずは遠距離攻撃を潰す!)
俺は「敏捷(DEX):S」の能力を活かし、一気に駆け出す。クロスボウを構えようとしていたゴブリンの懐に潜り込み、反応される前に剣で一閃し、沈黙させた。
次は厄介そうな紫色のスライムだ。毒や酸の類だったら、食らうわけにはいかない。スライムの核を狙って動こうとした瞬間、横から鋭い風切り音がした。剣を持ったゴブリンが、俺の胴を狙って剣を横薙ぎに振るってきたのだ!
「!?」
咄嗟に剣で受け止める。キィン!と甲高い金属音が響き、衝撃で体勢を崩され、通路の壁に叩きつけられた。
「くっ!」
肺から空気が押し出され、一瞬、息ができない。その隙を見逃さず、ゴブリンが剣を振りかざして追撃してくる!
(まずい!)
何とか体を捻って致命傷を避け、すれ違いざまに剣でゴブリンの胴を切り裂く。手応えあり!
ゴブリンが動きを止めたのを確認し、すぐに紫スライムへと意識を切り替える。酸や毒を飛ばしてくる様子は今のところない。慎重に距離を取りながら、一体ずつ核を確実に破壊していく。
数分後、全てのモンスターを何とか倒し終えた時には、俺の息は上がっていた。
(危なかった…)
ステータス画面を確認すると、HPが「2650/2700」と表示されている。少しだが、初めてダメージを受けた。壁に叩きつけられた時の衝撃だろうか。
(そうだ、あのポーションを試してみよう)
俺は袋から、上の階で拾った青い液体の小瓶を取り出し、蓋を開けて飲んでみた。口の中に広がったのは、どこか懐かしい、ポカリスエットのようなスポーツ飲料によく似た味だった。
(普通に美味しいな…)
再びステータスを確認すると、HPは「2700/2700」に全快していた。
(よし、やっぱりHP回復ポーションで間違いないようだ)
倒した紫色のスライムが消えた場所を見ると、今度は紫色の液体が入った小瓶が落ちていた。
(これもポーションか? 色が違うということは、効果も違うんだろうな)
これもありがたく回収する。毒消しか、あるいは別の効果か…今は不明だが、いずれ役に立つ時が来るかもしれない。
ふと、手に持った剣に目をやると、先ほどゴブリンの剣を受け止めた際に、刃の一部が小さく欠けていることに気づいた。
(まだ大丈夫そうだが…上の階ではこんなことはなかった。ここの敵は攻撃力も上がっているんだな)
気を引き締めなければ、いつか致命的なミスを犯すかもしれない。俺は改めて兜の緒を締め直し、ダンジョンの探索を再開した。




