龍の扉前、つかの間の夢路
(よし…レベルも上がって全快か。称号は増えなかったが、十分だ)
試しに、自分の腕に軽く傷をつけてから「ヒール」と唱えてみる。掌から柔らかな光が溢れ出し、傷が癒えていくのが分かった。HPも表示通り回復している。
「ふぅ…」
俺は立ち上がり、リッチが消滅した広大な玉座の間で、改めて深く息を吐いた。リッチとの死闘は、これまでのどの戦いよりも消耗が激しかった。〈エクソルシウム〉を握る手はまだ微かに震え、全身の筋肉が軋むように悲鳴を上げている。レベルアップで体力と魔力こそ全快したが、神経のすり減りや、魂が削られたかのような疲労感はそう簡単には消えない。
今こそ全てを投げ出して逃げ出したいという弱い自分と、それでも前に進まなければならないという使命感に近い何かが、胸中で激しくせめぎ合っていた。
俺は〈第二十階層神域への鍵〉を確かめ、次なる領域への挑戦を決意しつつも、まずは万全の状態に戻すことを優先し、リッチの玉座の間から続く階段をゆっくりと降り始めた。階段の壁面には、リッチの玉座の間にあったものと同じ、禍々しくもどこか退廃的な美しさを秘めた骸骨のレリーフが続いており、先程までの死闘の記憶を否応なく呼び覚ます。
神聖さすら感じる石の階段を数十分降り続けると、やがて開けた場所に出た。
そこは、これまでの階層とは全く異なっていた。薄暗い通路や小部屋が複雑に入り組んでいるわけではなく、まるで巨大な神殿の参道のように、荘厳な一本道が奥へと続いている。そして、その道の突き当たりには、これまでのどの扉よりも巨大で、精緻な龍の彫刻が施された白亜の大扉がそびえ立っていた。扉そのものから、清浄かつ強大な気配が放たれている。
(これが…第二十階層、青龍の神域への入り口か)
〈セレスティアルルーンマップ〉を確認するも、この階層はほぼこの参道と大扉、そしてその奥に広がるであろう空間しか示していない。
俺はゴクリと喉を鳴らす。リッチとの戦いの疲労が、今更ながら全身に重くのしかかってくる。
(さすがにこのまま挑むのは無謀すぎる…)
俺は周囲の安全を〈鑑定〉スキルと五感を研ぎ澄ませて確認する。幸い、この参道には他の魔物の気配は一切なく、扉自体も何らかの結界で守られているのか、不浄なものを寄せ付けない清浄な空気に満ちていた。
「よし、ここで少し長めに休もう。次の戦いに備えて、万全を期す必要がある」
俺は扉から少し離れた壁際に陣取り、無限インベントリから枯れ木を取り出して火をおこし、小さな焚火を作った。パチパチと火の粉が舞い、暖かな光が周囲を照らす。燃える薪から、時折白い灰がはらりと静かに落ち、燻る煙の匂いが鋭く鼻を刺した。食事は相変わらず〈グレイウルフジャーキー〉しかないが、それでも今はありがたい。ジャーキーをよく噛み締めながら、揺らめく炎を見つめていると、心地よい疲労感と共に、ゆっくりと瞼が重くなってきた。
火の揺らぎにまどろみながら、意識の淵でまだリッチとの戦闘の鼓動を感じつつも、その緊張が焚火の暖かさに徐々に解きほぐされていくのを感じる。やがて、その意識も焚火の暖かさに溶けるように薄れていく。
そして、また夢を見た。
だが、それはこれまでの悪夢とは違う、温かく、そして酷く懐かしい光景だった。
僕は、父さんと母さんと一緒に、森の中のキャンプ場に来ていた。夏の終わりの、空気が澄んだ、よく晴れた日だった。病弱であまり外で遊べなかった僕にとって、それは本当に特別な一日だった。
父さんが大きなテントを立てようと四苦八苦している。僕はそれを一生懸命手伝おうとするけれど、ポールを支えるだけでふらついてしまって、結局は母さんと一緒に父さんの奮闘を笑って見ていた。「ほら、ここをこうするんだ」父さんが汗を拭いながら、僕にペグの打ち方を教えてくれる。不格好だったけれど、自分で打ち込めたペグを見て、すごく嬉しかったのを覚えている。母さんはそんな僕たちの様子を、ずっと優しい笑顔で見守ってくれていた。
夕食は、父さんが教えてくれながら一緒に飯盒で炊いたご飯と、母さん特製のカレー。煙が目に染みて涙ぐみながらも、火の番をするのは楽しかった。野菜を切る母さんのトントンという小気味よい音と、カレーのいい匂いが、森の澄んだ空気と混じり合って、えもいわれぬ幸福感で胸がいっぱいになった。外で、みんなで食べるご飯はどうしてこんなに美味しいんだろう、と思った。
夜には、満天の星空の下で焚火を囲んだ。父さんが薪をくべるたびに、パチパチと火の粉が星屑みたいに舞い上がって、夜空に吸い込まれていく。僕は両親の間に座って、普段は話せないような学校でのほんの些細な出来事や、好きなアニメのヒーローの話をした。父さんも母さんも、どんなにつまらない話でも、「うん、うん」って、僕の目を見て、本当に楽しそうに聞いてくれた。あの時、僕の話を遮るものは何もなかった。ただ、優しい時間と、焚火の暖かさと、父さんと母さんの愛情だけがそこにあった。
自分の不幸吸引体質のせいで、このキャンプだって、きっと何か小さなトラブルはあったはずだ。でも、不思議と思い出せない。両親と一緒なら、どんな失敗も、どんな不運も、最後にはみんなで笑い飛ばせる、そんな魔法みたいな時間だったから。
短い人生の中で、あれほど満たされた、輝かしいひと時は、後にも先にもなかった。
ふと、焚火の熱が遠のいたような気がして、俺は目を覚ました。いつの間にか、焚火の前で横になって眠り込んでいたらしい。火はまだ熾火となって、静かに熱を放っている。
(…そうか、夢か)
頬に冷たいものが伝うのを感じ、そっと手で触れると、涙の跡だった。温かい夢の余韻が、まだ胸の中に鮮明に残っている。それと同時に、もう二度とあの温もりには触れられないのだという、どうしようもない物悲しさが込み上げてきた。
だが、俺はもう一人じゃない。いや、一人ではあるが、無力ではない。
新たな生を受け、こうして未知の世界で冒険をしている。
俺は静かに立ち上がり、目の前にそびえ立つ白亜の大扉を見据えた。大扉に複雑に刻まれた巨大な龍のレリーフ、その翡翠のようにも見える瞳が、まるで俺の覚悟を試すかのように、鋭い眼光を放っている気がした。
(父さん、母さん…俺は今、こんな世界で生きている。辛いことも、怖いこともたくさんあるけど、でも、こうして自分の足で立って、自分の力で未来を切り開こうとしている。見ていてほしい。俺が、今度こそ幸せになるために、精一杯生きる姿を)
心の中で、今は亡き両親にそう報告する。それは誓いにも似ていた。
十分に休息を取り、体力も気力も完全に回復した。手に入れた回復魔法〈ヒール〉で、これまでの戦いで負った細かな傷も、今はもうない。
聖剣〈エクソルシウム〉を抜き放ち、その清浄な輝きを確かめる。
(よし、行こう)
次なる神獣、青龍が待つであろう扉の前に、俺は静かな決意を胸に、再び歩みを進めた。
足元の石畳が、ゴウン…と微かに振動したような気がした。
…この扉の奥からは、まるで龍の吐息のような、荘厳で、それでいて肌を粟立たせる強大な気配が、絶えず漏れ聞こえてくるようだ。俺の心臓の鼓動が、その気配に呼応するかのように、早鐘を打ち始める。
(玄武、そしてリッチ…強敵が続いたな。次は青龍か。どんな化け物が出てくるんだか。だが、今の俺なら…!)
俺は、白亜の大扉に、ゆっくりと手をかけた。




