3階から見つめてる
その夏も異常に暑かった。
アパートの階段を小走りで進めば全身から汗が吹き出す。今夜も当然のように熱帯夜だろう。それでも急いでいるのは、もしかしたら、と思ったからだ。
汗だくになって、ようやくたどり着いた305号室のドアの前に立ち呼び鈴を押すと、私を呼びつけた友人が蒼白い顔で出てくる。
「ごめんね」
やっぱりいつもと様子が違う。
そう思いつつ、冷房で冷やされた空気が扉の向こうから流れ出て、汗まみれの体に涼しくて、ようやく一息つくことができた。
「どうしたの?」
息を整え、できれだけ冷静に訊ねた。時刻はもうすぐ22時を迎える。
ーーどうしても来てほしい
彼女から連絡を受けたのは仕事終わりのことだった。
「どうしても」なんて言われたことは今まで一度もない。
ただならぬ気配に、学生時代の友人である彼女の一人暮らしのアパートへと向かうことになったのだ。
玄関への招き入れられると、小さなキッチンの向こうに小綺麗に片付いた部屋が見える。夏の暑い夜。エアコンが青いカーテンを揺らしている。
「怖くて」
彼女が一人暮らしを始めたのは5年も前のことだ。私は引っ越しを手伝ったから知っている。
「怖い?」
その5年の間に「怖い」だなんて発言は聞いたことがなかった。そもそも、彼女は怖いときに頼るのは女友だちではなく男のはずだ。
(私を頼るのは彼氏と別れる時だけ)
すぐに新しい男が現れ、私とは連絡を殆ど取らなくなる。
浮気を隠すために私の名前を勝手に使うから、元彼から私に電話がかかってくるなんていうことも度々あった。厄介事が起きると私を呼んで、自分は仕事だからと逃げてしまうことすらあった。トラブルが済めば私への連絡はパタリと消え、ほとんど音信不通になる。
こちらが誘っても返事は早くて1週間後。もちろん断られて終わりだ。
2度ほど自分の彼氏だった男が彼女に乗り換えたこともあり、関係を断とうとしたこともある。
それでも、家族とは不仲で友人と言えるのは私くらいしかいない彼女と何となく縁を切れないでいた。
「何かあったの?」
私が訊ねると、ぎこちなくこちらに目線を向ける。
「いるの」
「いるって、何が?」
彼女は深い溜息をつく。そしてまた黙り込んでしまった。
(なぜ黙る)
玄関に立たされたまま、私は鞄から水筒を取り出し、ゴクゴクと飲み干す。走ってきたから喉がカラカラだったから。でも、あんまり深刻な様子に怒る気にもなれない。
「何がいるの? まさか虫?」
おおきな虫が怖くて私を呼んだのなら、笑い話で済むのだけど。
「殺虫剤ならすぐ買ってくるよ。ひとっ走り行ってくるから任せて」
何とか場の空気を変えたくて、私はわざとらしく笑って見せる。
「実はね、お風呂に」
彼女はそこまで言ってから、一度大きく深呼吸をした。
「ーー人がいる気がして」
それを聞いて、私は息を飲んだ。一大事だ。不審者がいるなんて。
「じゃあ、一緒に確かめよう」
私が靴を脱ごうとすると、
「待って」
と、彼女は私を静止した。そして、何も言わず、後退りすると、キッチンの向かいにある扉の向こうへとふらりと行ってしまった。扉の先に洗面所と浴室があるのだ。
(人がいるって、警察に通報しなきゃじゃない)
顔をしかめていると、彼女はすぐに洗面所から顔を出した。
「ごめん、気のせいだった」
「気のせい?」
「誰もいなかった。勘違いしたみたい」
そう笑う彼女の顔色は優れない。本気で誰かがいるような気がして、恐怖を感じていたのだろうか。
私は靴を脱いで上がると、小さな浴室を覗き込んだ。やはり、そこには誰もいなかった。
「うん。大丈夫。誰もいないよ」
私がそう言うと彼女はようやく安堵した顔を見せた。
「よかった」
「驚かさないでよ」
「ごめん」
二人でケラケラと笑い合う。気のせいで良かった。
「本当にいたら私なんかじゃなくてすぐに警察を呼ばないといけないことだ」
彼女の顔がこわばった。
「そうだね……折角だからなにか飲む?」
キッチンへ向かった彼女が冷蔵庫のドアを開け、缶ビールを取り出した。
「飲む飲む」
ビール派の私は喜んで誘いを受ける。彼女の家でビールは珍しい。いつも甘いお酒しか飲まないのに。
「洗面所借りるね」
私は手を洗うために洗面所へと戻った。鏡に映った自分の後ろに、誰もいないはずの浴室の扉が映った。
ふと視界に入った鏡の中に違和感がある。違和感は焦らすようにゆっくりと鮮明になっていく。正体に気づいたとき、私の心臓は瞬時に凍りついた。
(いる!)
浴室の扉が開いていて、そこに見知らぬ男が佇んでいた。茶色い髪の男がうつむき加減に突っ立っている。
口元がわずかに動いている。
……タ
……ロ
コ……タ
私はとっさに振り返った。でも誰もいない。慌てて友人の元へと戻る。心臓が激しく波打つ。
ーーお風呂に人がいる気がして
ーー怖くて
彼女の言葉を反芻させながら、リビングは向かい、部屋の真ん中のローテーブルを見つめた。冷えた缶ビールとグラスが2つおいてある。友人は窓際に立って電話をかけていた。どうやら仕事のことらしい。「出勤」とか「欠勤」とか、「明日は出られます」とか、そんな会話が聞こえてくる。
ふと、ベッドの下が気になった。気配を感じたのだ。
近づくと黒っぽい何かが見える。少し屈んで見ると、それは男物の靴だとわかった。
背中では汗が冷たく滲む。もしかしたら、この更に奥に気配の正体が存在するのではないだろうか。
そうよぎって、私はベッドの下を覗き込んだ。
「誰かいた?」
瞬間、背後から友人の声が突き刺さる。
「ねえ、誰かいた?」
私は体を起こすと友人に微笑みかけていた。
「いないよ」
にこやかに答える。背中は冷たい汗で濡れている。
私は何故、嘘をついたのだろう。
「やっぱり帰るね」
「待って!」
後ずさる私に彼女がにじり寄ろうとする。今にもしがみついてきそうな勢いに、一瞬怯んだけれど、私は彼女が動けないことを知っていた。見えていたからだ。
彼女の足首はベッドから伸びた男の手にしっかりと掴まれていている。
「待ってよ。いつも困り事を解決してくれたじゃない。ねえ、今回も助けてくれるよね?」
笑いながら助けを乞う彼女を置いて、私は部屋を出た。
困ったときだけ呼ぶ友人。自分が引き起こした面倒を押し付ける彼女が、今度は私に何をさせるつもりだったのだろう。
(もう助けられない)
ベッドの下に転がっていたのは、頭だけ。置き物みたいに動かない男性の頭部だった。茶色い髪の顔面がこちらを向いていた。動くはずのない唇を震わせ、何かを仕切りに呟いていた。
コ……レタ
……ロ
急いで階段を降り、汗だくなのに体は冷たく震えていた。急いでアパートを後にしなくてはいけない。なのに、私は立ち止まってしまった。振り返らずにはいられなかった。
(コロサレタ)
3階の彼女の部屋の窓を見上げる。
誰かがこちらを見下ろしていた。
彼女ではない、茶色い髪の、誰かが。
(ニゲロ)
★
これが彼女に会った最後の日の出来事だった。
彼女の罪が明らかになったのは翌日のこと。彼女が部屋の窓から転落したことで警察が入り、男の死体が発見されたという。
「あいつに落とされた」
一命を取り留めた彼女はそう言ったらしい。でも、彼女が窓から落ちたのは、男が死体になってからだ。
では、友人を窓から落としたの『あいつ』とは誰なのか。
それは、私だけが知っている。
(ニゲロ、か)
彼女は私に人殺しの後始末をさせたかったのたろうか。それとも、その罪自体を擦り付けるつもりだったのだろうか。
死体になった男が私を助けてくれただなんてきっと誰も信じない。だから誰にも言わない。
でも、本当のことだ。だって、彼女の住んでいた305号室を見上げると、今も窓に茶髪の男が立っている。私と目が合うと微笑んで手を振ってくれる。怖くなんてない。あの男は初めて彼女ではなく私を選んでくれた。私たちは今、秘密の愛を育んでいるのだから。