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The Virtual Detention  作者: 無一文
Chapter 2: The Kingdom of Flaen
9/19

見えない文字

 翌日の午前九時過ぎ。高杉は、トーマスの潜伏先を目指していた。


 フレン王国は交通の要衝であり、この世界最大の人口を誇るだけあって、広場や通りは人々の活気に満ちていた。洗練された石造りの建物と、色とりどりの花々が織りなす鮮やかな景観が目を引く。


 中でも印象的なのは、街の中心にある噴水だ。繊細な意匠に彩られた華やかな彫刻、そして朝日を浴びてきらめく水の流れ。その一瞬の輝きに、プレイヤーたちも思わず足を止め、しばらく見入っていた。


 高杉は、何度か顔を上げて道を確認する。現実世界でトーマスから送られてきたメールには、彼の潜伏先とその行き方が詳細に記されていた。だが、肝心の道順の記憶があいまいだった。


 方向音痴も手伝って、高杉はしばらく街をさまよったが、約二十分かけて、どうにか目的のパン屋にたどり着いた。


 市場や広場のような賑わいはないが、近隣の住人たちが行き交い、時折、小さな子どもがパンの香りに誘われて覗き込む――そんな生活の匂いが漂う一角に、古びた石造りの建物はひっそりと佇んでいた。


 木枠の窓には素朴なカーテンがかかり、扉の上では風化した看板が静かに揺れている。かすかに漂う焼き立てのパンの香りが、ここが美味しいパン屋であることを物語っていた。


 その穏やかな佇まいからは、とても“お尋ね者”が身を潜めているとは思えなかった。


「……ここで、いいんだよな?」


 高杉は小さく呟き、一呼吸置いてから扉を押した。かすかな鈴の音が響く。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から現れたのは、丸みを帯びた体つきの、50代前半と思しき店主だった。白いコック帽の下には柔和な顔があり、厚みのある腕と大きな手が、長年のパン作りで鍛えられてきたことを感じさせる。


 店内に他の客の姿はなかった。


「メロンパンと、明太フランスをください」


 高杉はトーマスの指示どおり、飽くまでも客を装って注文を告げた。この時代にメロンパンや明太フランスなど存在するはずもない。当然、これは暗号なのだろう。


「……今、なんと?」


 それまで穏やかな笑みを浮かべていた店主の表情が、一瞬にして訝しげなものへと変わる。高杉の背筋に緊張が走った。


「店を間違えたのか? それとも何か言い方を誤ったのか?」


 高杉は動揺を必死に抑えながら考えを巡らせたが、思い当たる誤りはない。そこで、もう一度、慎重に言葉を繰り返す。


「メロンパンと──」


 店主はしばらく高杉を見つめていた。再び緊張が高まる。しかし、やがて彼はふっと口元に笑みを戻し、静かに頷く。さりげなく店の外に目をやって周囲の様子を確認すると、「こっちだ」とだけ言って、奥へと手招きした。


 *・*・*


 部屋の中には、四十代後半と見られる男性が、古びた木製の椅子に腰掛けていた。百八十センチを超える長身に、短く整えられた髪──メールに記されていた特徴と一致する。どうやら、彼がトーマスのようだ。


「君は?」


 男性は無言のまま高杉をじっと見つめた後、低い声で問いかけた。


「あの……書物の件で、マイクさんたちから紹介されて」


 緊張気味の高杉は、深呼吸をしてから口を開いた。


 その瞬間、トーマスの表情が一変した。身を乗り出しながら、「君は……インプッターなのか?」と、食い入るように高杉を見つめる。その真剣な眼差しに、高杉は一瞬戸惑いながらも、「はい」と静かに答えた。


「まさか……本当に存在していたとは」


 トーマスは、興奮を抑えきれない様子で呟いた。それからしばらく、何かを考えるように目を伏せていたが、ふと我に返ったように立ち上がり、「ああ、申し遅れた。私はトーマスだ」と軽く会釈した。


「こちらは──」


 先ほど応対してくれたパン屋の店主のことも紹介してくれた。名前はジェームズで、通称ジム。数年来の友人であり、例の事件以来ずっとトーマスを匿ってくれているという。


 *・*・*


 その後、高杉はこれまでの経緯を簡潔に語った。黙ってそれを聞いていたトーマスは、話が終わるや否や、部屋の隅に置かれた頑丈な木箱へと歩み寄る。やがて彼は蓋を開け、中から分厚い一冊の書物を取り出した。


 それは古い羊皮紙で作られており、指三本ほどの厚みを持っていた。表紙には褪せた金箔の装飾が施され、長い年月を経てもなお威厳を漂わせている。


「これが、例の書物だ」


 トーマスは静かに言い、それを高杉に差し出した。


 高杉はその重厚な書物を恐る恐る受け取り、そっと最初のページを開いた。羊皮紙特有のしっとりとした手触りが指先に伝わり、微かに古びた香りが鼻をくすぐる。


 そして、目の前に現れたのは、びっしりと記された手書きの文字──それは、高杉がインターネットで見た古ラテン語に酷似していた。


「読めるか?」


 トーマスが問いかける。その声には、期待と不安が入り混じっていた。


 高杉は必死に文字を追い、頭の中の知識を総動員して、何とか意味を読み解こうとした。しばらくして全ページに目を通し終えたものの──やはり、二週間の準備では到底歯が立たなかった。


「すみません」


 高杉は肩を落とした。その返答に、トーマスはひどく動揺した様子で、「そんなはずはない。もう一度よく見てくれ」と食い下がった。


 高杉は再び書物に視線を落とし、懸命に読もうとしたが、やはりまったく意味が分からない。高杉が再び首を横に振ると、トーマスは頭を抱えて天を仰ぎ、「そんなはずは……」と呟いて言葉を詰まらせた。


「本当にすみません。俺の、勉強不足で」


 高杉は困惑した表情を浮かべながら、深々と頭を下げた。トーマスはしばし沈黙し、やがて首を振った。


「いや、君のせいではない。だが……なぜだ?」


 そう呟きながら、彼は深く息をついた。その目には、期待が崩れ去った失望の色が濃く滲んでいた。


 *・*・*


「ちょっと、いいかい?」


 書物を抱えたまま呆然と立ち尽くしていた高杉に、パン屋の店主ジムが声をかけた。どうやらジムも、古ラテン語が読めるかどうか、試してみたくなったようだ。


 書物を受け取ったジムは、「どれどれ」と目を細めながら、おもむろにページを開いた。しばらく無言でページをめくっていたが、やがて「すまん、まったく読めない」と苦笑して肩をすくめた。


 ジムが書物を閉じかけたそのとき──高杉の視線が、ふと挟まれていた栞に留まった。


「ん? ちょっと待って。栞に、何か書いてある気が」


 高杉の声に、ジムは手を止めたまま目を丸くする。先ほどまで意気消沈していたトーマスも、思わず身を起こした。


 高杉は書物から栞を抜き取り、手に取って眺める。羊皮紙の栞には、うっすらと日本語の文字が浮かび上がっていた。


「ベイルの神殿?」


 高杉は目を凝らしながら、栞に記された文字を読み上げる。見覚えのある地名ではあったが、正確な場所までは思い出せなかった。


「ちょっと見せてくれ」


 興味深そうに様子をうかがっていたトーマスが、身を乗り出して言った。彼は高杉から栞を受け取ると、それを光にかざし、角度を変えたり裏返したりしながら丹念に調べた。だが、やがて小さく首をかしげる。


「君には、これが見えるのか?」


 そう言って、トーマスは栞を高杉の方へ差し出した。高杉は戸惑いながらも、それをもう一度じっと見つめる。やはり、そこには日本語の文字がうっすらと浮かんでいた。


「見えますよね……?」


 高杉は、隣で栞を見つめていたジムに同意を求めた。だが、彼は静かに首を横に振り、「何も書かれていないよ」と答える。


「えっ?」


 高杉は思わず声を上げた。インプッターなら、勉強しなくても古ラテン語の書物を読める──そんな話はマイクたちから聞いていたが、「見えない文字」が見えるとは思ってもいなかった。


「それで……何て書かれていたのか、もう一度聞かせてくれないか?」


 高杉の反応をよそに、黙って栞を眺めていたトーマスが口を開いた。高杉は改めて栞を受け取り、視線を落とす。


「ベイルの神殿、です」


 その言葉を聞いたトーマスは、「ベイルの神殿か」と呟き、すぐさま立ち上がった。そして棚から年季の入った地図を引っ張り出し、テーブルの上に広げる。

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