狼の群れ
それから数日が過ぎ、ついにフレン王国へ旅立つ日がやってきた。
時刻はまだ朝の七時前。ひんやりと澄んだ空気が周囲を包み、静寂が辺りに満ちている。高杉は朝食を済ませ、旅支度を整えて外へ向かった。
馬小屋の前では、すでに旅装を整えた馬が待機している。その中を覗くと、ハリー、老神父、そしてユイの姿があった。
「来たか」
老神父と談笑していたハリーが、高杉に気づいて顔を上げる。ユイは手元の作業を止め、何かを渡そうと、ためらいがちに近づいてきた。
「これ……よかったら」
ユイがそっと差し出したのは、手彫りの木製ペンダントだった。高杉は照れくさそうに微笑みながら、それを大切そうに受け取る。手のひらに載せてしばらく眺めたあと、静かに首にかけた。
ユイの顔には微かな照れ笑いが浮かんでいたが、その笑みにはどこか寂しさも滲んでいた。
「俺たちからも餞別だ。必要だろ?」
ハリーがにやりと笑い、小さな袋を差し出す。高杉が中を覗くと、銀貨が十数枚入っていた。アルフレッドとサミュエルも、少しずつ出し合ってくれたのだという。
「ありがとうございます」
高杉が頭を下げると、ハリーは無言で高杉の肩をポンと叩いた。その一拍に込められた想いは、言葉以上に雄弁だった。
*・*・*
集合場所には、すでに二十五人ほどの「護衛付き遊行」の参加者が集まっていた。ノンプレイヤーキャラクターと思しき護衛たちの姿も目立ち、その数は十人ほど。いずれも屈強な体格をしている。
「それでは、くれぐれもお気をつけください」
ここまで同行してくれた老神父が、別れの言葉をかけた。高杉が笑みを浮かべて手を振ると、老神父は丁寧に一礼し、静かにその場を離れていった。
一人になった高杉は、手綱を握りながらその場の様子を静かに見渡していた。参加者は全員プレイヤーで、その多くは三十代以上と思われる。彼らの目的は定かではないが、いずれもそこそこの富裕層であることは間違いないだろう。
──トントン。
不意に誰かが高杉の肩を軽く叩いた。振り返ると、五十代と思しき女性が立っていた。その背後には、二頭の馬の手綱を握った男性の姿が見える。おそらく、彼女の夫なのだろう。
「すみません。息子かと思いまして……」
女性は申し訳なさそうに頭を下げ、静かに謝った。
話を聞けば、夫妻は数年前に一人息子を事故で亡くしていた。だが、このゲームを熱心にプレイしていた彼なら、“残存者”としてこの世界のどこかで生きているのではないか──。そんな希望を胸に、二人はこの地を旅しているのだという。
女性は目を伏せ、小さな声で呟いた。
「もし生きていれば、ちょうどあなたと同じくらいの歳なんです……」
高杉は言葉を失い、ただ静かに頷くだけだった。
そんなやり取りの最中、護衛たちが参加者の人数を確認し始めた。やがて集計が終わると、一人の護衛が前へと進み出る。
「いいか。我々の指示には、絶対に従うこと──」
低く落ち着いた声で、護衛は注意事項を伝え始めた。
どんよりと曇った空の下、鳥のさえずりと護衛の声だけが、静寂を切り裂くように響いていた。
*・*・*
出発から約三時間、鬱蒼とした森を抜けた隊列は、地平線の向こうまで続く草原を進んでいた。馬の蹄が地面を叩く規則的な音がリズムを刻み、他には風が草を揺らす音だけが響いている。
先頭では護衛隊長が厳しい目つきで進路を見定め、後方には弓を携えた護衛たちが警戒を怠らず隊列を固めている。左右に配置された護衛たちは、草むらの揺れや、遠くで飛び立つ鳥の気配さえも見逃さないよう注意を払っていた。
参加者の中には、不安そうに護衛を見上げる者もいれば、旅の景色を楽しむように辺りを見渡す者もいた。やがて、小高い丘に差しかかったところで、護衛隊長が手を挙げ、声を張り上げる。
「全員止まれ! 十五分休憩だ!」
号令とともに隊列はぴたりと止まり、護衛たちが馬を下りてまわりに目を配る。続いて参加者たちも馬を下り、それぞれ馬に水を与えたり言葉を交わしたりしながら、束の間の休息に入った。
高杉も周囲に倣って馬を降り、手綱を握りながらぼんやりと風景を眺めていた。心地よい草原の風が、疲れた体を優しく包む。しばらく自然に身を委ねていると──突然、護衛の低く鋭い声が静寂を裂いた。
「全員、静かに。動くな」
護衛たちは口元に指を当て、厳しい表情で静粛を促している。
突如として空気が張り詰め、参加者たちは言葉を飲み込み、動きを止めた。護衛たちの視線の先には、十頭ほどの狼の群れが、丘の下を静かに横切っているのが見えた。
「周囲、異常なし!」
しばらくして護衛の一人が告げた。幸いにも、群れは一行に気づくことなく、そのまま去っていったようだ。
護衛の報告を受けて、護衛隊長が号令を飛ばす。
「よし、全員準備に入れ! 三分後に出発する!」
隊長の指示に従い、参加者たちは慌ただしく馬に乗る準備を始めた。
*・*・*
午後の日差しが傾き始める頃、一行は目的地であるフレン王国の近くまで辿り着いた。遠くからでも、街を囲む高い城壁と、天を突くような尖塔を備えた城の姿がはっきりと見える。
さらに歩を進めると、大きな城門の前に到着した。門の前には、番兵が四人ほど立っていた。護衛隊長がそのうちの一人に書状を差し出す。どうやら顔見知りのようで、冗談を交わしながら書状を確認している。
「問題ないな」
番兵は頷いてから、「大丈夫だと思うが、決まりだからな」と続けた。どうやら、残存者が紛れていないかの検査を行うつもりらしい。
「当然だ。好きに調べてくれ」
護衛隊長もこれに同意し、参加者たちに馬から降りて一列に並ぶよう指示を出す。参加者たちは素直に従った。
やがて、番兵の中からプレイヤーと思しき一人が歩み出て、参加者の列へと向かう。そして、先頭の参加者の前で立ち止まり、そっとその顔のあたりに手をかざした。すると、以前ユイが見せたような柔らかな光が、その手のひらからふわりと放たれる。
番兵は、顔に黒い線が浮かばないことを確認すると、同じ動作を他の参加者たちにも順に繰り返していった。
「オールクリア!」
しばらくして、最後尾の検査を終えた番兵が声を張り上げた。
「フレン王国へ、ようこそ」
門を守る番兵たちは笑みを浮かべながら、門を開け始める。まもなく、一行はゆっくりと街の中へと足を踏み入れていった。