残存者
ハリーの農場に来てから、早くも九日目を迎えた。目を覚ました高杉が、いつものように食堂へ入ったときのことだった。
「ショータさん。ハリー様は、ぎっくり腰になってしまわれたそうで、今日の練習はお休みです」
使用人の妻がそう告げた。ノンプレイヤーキャラクターがぎっくり腰になるとは──本当にこのゲームは、細部にまでこだわって作り込まれているのだなと、高杉は妙に感心した。
その後、使用人の妻が用意してくれた朝食を食べ終えた高杉は、特に理由もないまま、いつもの習慣に従って馬小屋へと足を向けた。
当たり前だがやはり、普段なら鞍や手綱の手入れをしながら待っているはずのハリーの姿はない。高杉が普段乗る馬の姿も見当たらない。朝の光が整えられた寝藁を淡く照らし、ほこりが静かに舞っていた。
「あれ?」
背後から女性の声がした。声に気づいて振り返ると、馬小屋の入り口にユイが立っていた。
「聞いてない? ハリーなら──」
「あ、その話なら……」
ユイの言葉を遮るように、高杉が返す。
「なんだ、知ってたのか」
そう言ってユイは、馬小屋の隅に置かれていた飼い葉袋を手に取り、そのまま出ていこうとした。が、ふと思い直したように高杉の方を振り返る。
「私は、これから街まで行くけど……」
無愛想な顔でユイが言った。「けど」の後は口にしなかったが、つまり、一緒に来ないか、ということなのだろう。
現実世界では、古ラテン語の勉強に加えて受験勉強まであり、目が回るほど忙しい高杉も、ここでは乗馬以外にやることがない。したがって、断る理由はない。高杉も街へ行くことにした。
*・*・*
しばらくして、着替えを終えたユイが戻ってきた。
リネンの肌着に、薄手のウールのチュニックを重ね、足元は素朴な革の靴。質素ながらも清潔感があり、まさに“町娘”といった雰囲気だ。とてもよく似合っていたが、シャイな高杉には、それを口にする勇気はなかった。
「じゃ、行こう」
高杉の方をちらりと見たユイは、相変わらずのポーカーフェイスで、淡々と歩き出す。高杉は少し遅れて、その斜め後ろを黙ってついていった。
土を踏みしめる音だけが、しばらくふたりのあいだを満たしていた。
歩き始めて十五分ほど経った頃、不意にユイが口を開く。
「……ショータって、十四歳だよね? 中二? 中三?」
「えっ? あ、中三だよ」
完全に油断していた高杉は、軽く咳き込みながら答えた。
「中三か。あれ、私って……」
ユイは立ち止まり、首をかしげる。やがて指を折りながら、何かを数え始めた。小さくつぶやきながら、何度か繰り返す。
「うわ、そうなんだ」
驚き混じりの声が漏れた。どうやらユイは、ここでの生活が長くなりすぎて、自分は高校一年生だと思い込んでいたようだ。だが、計算の結果、実際には高杉と同級生だったらしい。
「いつから、この世界にいるの?」
高杉の問いに、ユイはふと視線を遠くへと向けた。思い出しているというよりも、どこか懐かしんでいるような表情だった。
「七年前、かな」
そう答えると、ユイは再び高杉の方へ視線を戻した。ポーカーフェイスは崩れないが──ほんのわずかに、微笑んでいるようにも見えた。
*・*・*
街へとたどり着いた二人は、まず中央通りの東側に並ぶ穀物市へと向かった。時刻は、午前十時を少し回った頃だろうか。
澄み渡る青空の下、大麦や小麦が麻袋から天秤皿へと移されるざらついた音が市場に響いている。積み上げられた麦俵の間を、買い手たちの声が飛び交い、活気が満ちていた。
さらに通りを進むと、藁を敷いた台には、山羊や羊の乳から作られた白いチーズが並んでいる。表面を乾燥させた固形のものや、布に包まれ熟成の途上にあるものも見え、素朴で濃密な匂いがあたりに漂っていた。
やがて路地を折れると、木枠の台に粗塩を山盛りにした露店が目に入った。ユイは、迷うことなくその店へと足を向ける。
店先では、薄色のスカーフを頭に巻いた中年の女性が、木箱に入った粗塩を小ぶりな天秤で量っている。常連と思しき人々が、彼女と世間話を交わしていた。
「粗塩をください」
ユイが銀貨を一枚差し出すと、女性は慣れた手つきで塩を袋に詰め、にこりと笑みを返した。キャッシュレス決済が当たり前の高杉にとって、こうしたやりとりはかえって新鮮に感じられた。
買い物を終えた高杉とユイは、広場の脇に並ぶ露店を巡り始めた。粗く削られた木台の上には、銀細工の首飾りや、手編みの革紐で作られた腕輪、乾かした香草を詰めた小さな麻布の袋、色とりどりの花冠など、さまざまな品々が並べられている。
ユイは表情こそ変えなかったが、指先で首飾りをそっと撫でたり、花冠を優しく持ち上げて眺めたりする仕草から、その場の賑わいを楽しんでいる様子が伝わってきた。
可愛らしい小物を扱う若い女主人の露店で、ユイが小さな香草袋を手に取った──その時だった。
遠くから怒声が響いた。
「俺が何したっていうんだ!」
声のした方を振り向くと、プレイヤーと思しき二十歳前後の男性が、二人の町の衛兵に両脇を抱えられ、引きずられるようにして連行されていた。
「放せ!」と叫び、途中、露店の台に手を伸ばしてしがみつこうとするが、すぐに引きはがされ、足をばたつかせるのが精一杯だった。
「おとなしくしろ」
衛兵の一人が男性の肩を乱暴に押し、市場の中央広場へと力任せに押し出す。露店の帆布越しに差し込む陽光が、頬に引かれた黒い線を淡く浮かび上がらせた。男性の特徴は、残存者のものと一致している。
市場の喧騒はやや静まり、衛兵たちの足音と、男性の叫び声だけが響き渡った。周囲の商人たちは、果物や香油を並べる手を止め、多くの買い物客は会話を中断して様子を窺う。
もっとも、こうした光景は初めてではないのだろう。状況を察した商人たちは、ほどなく手を動かし始めた。そして、男性が通りの向こうに姿を消す頃には、売買の声が再び市場に響いていた。
*・*・*
「私も、あの人と同じなんだよ」
街からの帰り道、ユイがぽつりと呟いた。
「えっ?」
高杉は思わず聞き返した。驚いたというより、反射的に声が出た。
ユイは「あの人」としか言わなかったが、先ほど連行されていた男性のことだろうと、高杉にはすぐに察しがついた。
「さっきの?」
高杉の問いに、ユイは黙って頷いた。高杉はユイの顔をじっと見つめる。だが、ユイには先ほどの男性のような黒い線は見当たらない。
「普通に見えるでしょ? でもね……」
ユイはそう言って、そっと周囲を見渡した。
牧歌的なこの場所に、人の気配はなかった。それを確かめると、彼女は高杉に背を向け、静かに両手を顔の前へとかざした。
次の瞬間、彼女の手から、ふわりと淡い光がこぼれ出る。それは、ランタンの灯を思わせる、やわらかな輝きだった。
やがて光は消え、ユイは静かに手を下ろす。そして、ゆっくりと高杉のほうへ振り返った。
「ね?」
ユイは、はにかんだような笑顔を見せた。それは、高杉が彼女と出会って以来、初めて見る自然な笑顔だった。
彼女の言うとおり──その頬には、先ほどの男性と同じく、黒い線がくっきりと浮かび上がっていた。