老神父
教会の一室で目を覚ました高杉。こちらの世界では、時刻は朝の四時過ぎ。現実世界とはちょうど十二時間の時差がある。夜型のゲーマーたちに合わせた設計なのかもしれない。
あの事件から、すでに二週間ほど経過していた。木下と上野も、中世ヨーロッパ風のチュニック姿に、ようやく違和感を覚えなくなってきたようだ。
この日も、パンと野菜スープを食べ終えた三人は、いつものように雑談をしていた。ただ、普段と異なるのは、前日に期末テストとサッカーW杯の日本代表戦があったことだ。
普段は業務連絡のように現実の話題をぼそぼそと二人に伝えるだけの高杉だが、この日は珍しく二人と話が弾んでいた。
それは、高杉が試合結果を伝えている時だった。部屋の入口から、老神父が突然声をかけてきたのだ。
「お話中失礼いたします。タカスギ様、その試合は、最近の出来事でしょうか?」
「え?今日です。あ、でも現地時間では、昨日なのかな」
高杉が少し戸惑いながら答えた。老神父は静かに頷き、こう尋ねる。
「タカスギ様は、メールアドレスか、SMSを受信できる電話番号をお持ちでしょうか?」
「えっ……?」
高杉は思わず怪訝な表情を浮かべた。上野と木下も同様の反応を見せる。無理もない。中世ヨーロッパのようなこの世界で、電話番号の有無を問われる理由など、見当もつかない。
間髪入れず、上野が素朴な疑問を口にした。
「ここって、ネット使えるの?」
「この世界では使用できません。必要なのはここではなく、あなた方の世界です」
老神父が静かにそう告げると、上野は「ああ、なんだ」と落胆の色を見せる。しかし、老神父はそれには目もくれず、高杉へと視線を移し、真摯な眼差しで続けた。
「ある方々が、タカスギ様のような方を探しておられます」
「なんで?」
今度は木下が問いかける。高杉も同じ疑問を抱いていたが、先を越された。
「詳しくは伺っておりませんので、私からは何とも申し上げられませんが」
老神父はそう前置きしたうえで、そちらの世界の記憶をこちらへ持ち込める者──高杉のような存在がいれば、高杉たちを含むすべてのプレイヤーが、無事に現実世界へ帰還できる可能性があると説明した。
老神父の答えに、高杉は心の中で苦笑する。今までの人生で、そんなふうに特別視された経験などなかった。どう考えても怪しい話ではあるが、興味をそそられる。しかし、それを悟られないよう、高杉は飽くまで自嘲気味に答えた。
「他にもいるでしょ。そんな奴」
老神父は一切表情を変えない。まるでポーカーでもやっているかのような鉄仮面ぶりだ。そのまま真っ直ぐ高杉を見据え、こう断言した。
「少なくとも私は、タカスギ様以外そのような方を存じ上げません」
その言葉に、高杉は一瞬視線を落とし、考え込むような素振りを見せる。しかし、腹はすでに決まっていた。詐欺や闇バイトといった怪しい話に巻き込まれる不安よりも、結局のところ、好奇心が勝ったのだ。
「……携帯の番号でいいんですよね?」
「左様でございます」
老神父は、わずかに安堵したような表情を浮かべると、紙とインクを取りに部屋を出た。ほどなく戻ってきた老神父の手には、羊皮紙の切れ端と、硫酸鉄とタンニンで作られた黒ずんだインクがあった。それは、高杉の想像とは異なり、時代の重みを感じさせるものだった。
「それじゃあ、言いますね」
高杉がそう言うと、老神父は細かな皺の刻まれた指で羊皮紙の端をそっと押さえ、重厚な木製の机へと身を寄せた。そして、羽根ペンを慎重にインク壺へ浸し、静かに筆先を整える。
「080-XXXX-YYYY」
高杉の声に合わせ、老神父は静かに頷きながら、羽根ペンを滑らせた。ゆっくりと告げられる数字を、一つひとつ確かめるように記していく。蝋燭の灯が揺れ、小さな紙片に淡い影を落とした。
*・*・*
翌朝、ゲームの世界で目を覚ました高杉は、現実世界でアリスを名乗る人物から受け取ったSMSの内容を、老神父に伝えていた。
「81XX」
たった四桁の数字。特に意味があるとは思えない。高杉がインプッターかどうかを確認するための、一種のワンタイムパスワードのようなものか。
「ありがとうございます。確認いたしました」
紙を見つめながら黙って耳を傾けていた老神父が、静かに頷く。そして一呼吸置き、真摯な眼差しで三人を見渡した。
「明日ですが、昨日お話ししたタカスギ様をお探しの方々と、お会いいただくことは可能でしょうか?」
「……その人たちに会えば、このゲームから解放されるんですよね?」
高杉が答えるより先に、上野が口を開く。問いというより詰問に近いやや強い口調だった。
「無事に戻れる可能性がある、とは聞いております」
老神父の口調は、いつになく歯切れが悪い。どうやら確証は持てないようだ。その答えに、上野と木下はどこか納得のいかない表情を浮かべる。しかし、高杉はすでに決めていた。
「俺は、会います」
そう言いながら、上野と木下の方をちらりと見やる。二人も黙って頷き、同意の意思を示した。
「かしこまりました。それでは明日も、本日と同じ時刻にお越しください。確か、十六時でございましたね」
そう言って一礼すると、老神父は静かに部屋を後にした。