希望と欲望
店の入り口の鍵は、意外にもかかっていなかった。
中へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が漂い、薄暗い店内には人の気配がなかった。荒く積まれた木箱は無造作に崩れ、床には袋ごとぶちまけられた小麦粉が白く広がっている。
瓶詰めの油が割れたのか、鼻をつく匂いが辺りに充満していた。カウンターの上には半ば開いた帳簿と、書きかけの伝票が散乱している。店主は、計算の途中で逃げ出したのだろう。
トーマスは店にあった油ランプを手に取り、火を灯した。揺らめく炎が店内に長く伸びた影を落とす。兵士と囚人たちも、それぞれ油ランプを手に取った。
「どこを探せばいい?」
超短髪の男がトーマスに向かって、急かすように尋ねた。三十平方メートルにも満たない狭い店だが、地下トンネルの入口など、高杉たちには見当もつかない。
トーマスはしばし黙考したあと、カウンターと棚が怪しいと答えた。
その言葉を合図に、全員が一斉に動き出す。カウンターと商品棚を順に動かし、不自然な点がないか念入りに確認していく。だが、地下トンネルへと通じる入口らしきものは、どこにも見当たらなかった。
「くそっ!」
苛立ちを隠せないチンピラ風の男が、床に置かれた木製の果物箱を思い切り蹴り飛ばした。箱は転がり、中の乾燥リンゴが床一面に散らばる。
ここではないのか。それとも、やはりただの都市伝説だったのか──果てしない焦燥感が場を支配し始めていた。
「ドゥン、ドゥン……」
店の窓は、光が漏れぬよう布で覆われている。だがそれでも、巨兵の鈍く重い足音が、敵がじわじわと迫っていることを否応なく伝えてくる。
それに呼応するように、女性たちの悲鳴が徐々に増していった。外の様子は確認できないが、もはや一刻の猶予もないことは明らかだ。
そんな緊迫した状況の中──トーマスは神経を研ぎ澄ませるように何かを呟きながら、慎重に床を踏みしめ始めた。
どうやら彼は、木材が軋む音のわずかな違いから、何かの手がかりを探しているらしい。高杉たちはただ固唾を呑み、トーマスの動きを目で追うしかなかった。
やがてトーマスは、カウンターがあったあたりで足を止めた。そして足元に視線を落とし、何度か床を踏みしめる。
「ここだ……」
興奮を押し殺した低い声が響いた。その声には、確かな手応えが滲んでいた。トーマスは、床下に地下トンネルの存在を感じ取ったようだった。
「何か床板を剥がす物を……」
トーマスがそう言うと、囚人たちは店にあったナイフを手に取った。
「ここか?」
トーマスに確認しながら、二人は力任せに床板を剥がし始める。
木材が軋み、釘が悲鳴を上げるように抜けていく。数枚を剥がしたところで、油ランプの灯りを近づけると──そこには、ぽっかりと空いた床下の空洞が現れていた。
「おい、やったぞ!」
囚人たちは思わずグータッチを交わす。外を警戒していた兵士も、その声に思わず振り返った。
さらに作業を進め、人ひとりが通れるほどの幅を確保すると、地下へと続く梯子がはっきりと姿を現す。
作業の様子を心配そうに見守っていたトーマスの顔にも、ようやく安堵の色が浮かんだ。
「さてと……」
表情を引き締めたトーマスは、低く呟くと一度周囲を見渡した。
もし、ここが地下トンネルではなく、ただの貯蔵庫の跡だったとしたら──。
最悪の事態を理解した上で、全員が無言で頷いた。
トーマスは静かに息を吐き、油ランプを手に取った。そして慎重に梯子を降りていく。高杉たちは、祈るような思いでその背中を見守った。
「みんな、やったぞ! 地下トンネルだ!」
しばらくして、抑えきれない興奮の声が、闇の底からかすかに響いてきた──その時だった。
*・*・*
突然、鈍い衝撃音が店内を襲った。
「ドン……ドン……!」
何者かが、鍵のかかった萬屋の扉を力任せに押し開けようとしている。重厚な木製の扉が軋み、ぐらりと揺れた。
魔族の巨兵だろうか。全員の視線が一斉に扉へと注がれる。高杉たちの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
ドアの近くにいた兵士が、音を立てぬよう静かに剣に手を伸ばす。まさにその瞬間──
「お願い……やめて……!」
外から、若い女性の悲痛な叫び声が響いた。
逃げ遅れた女性が、魔族の巨兵に捕らえられたのだろう。その様子から察するに、巨兵は己の欲望を満たすための“場所”を求めて、萬屋へ踏み込もうとしているのかもしれない。
「おい、何をやっているんだ!」
やや離れた場所から、男性の声が響いた。魔族の兵士だろうか。
「いや、別に……」
地の底から這い出たような重低音の声が、どこか歯切れ悪く応じる。おそらく、扉を開けようとしていた巨兵だ。
やがて、女性と思しき細い足音が、逃げるように遠ざかっていく。
「ドンッ!!」
しばらくして再び鈍い衝撃音が響き、扉が震えた。どうやら目的を果たせなかった巨兵が、苛立ち紛れに叩きつけたのだろう。
そして、彼の重い足音も次第に遠ざかっていった。扉の前には、戦場の喧騒だけが残った。




