ギヨーム・ル・グランの屋敷
兵士の手引きで牢を抜け出した高杉たちは、城内の監視の目をかいくぐりながら、滑るような足取りで地下深くへと進んでいった。
兵士の手にした小さな松明が、石壁に揺れる影を落とし、足元をかろうじて照らしている。
やがて、先頭を行く兵士が、木樽や木箱に囲まれた空間で音もなく足を止めた。樽からは干し肉の匂いがわずかに漂い、木箱の隙間には穀物と思しき粒がこぼれている。
どうやら、ここは城の食糧庫らしい。
兵士の視線の先にあるのは、壁際に据え付けられた大きな木製の食料棚。干し魚の束や麦袋が積まれており、いかにも年季の入った保存庫の一部に見える。だが、その棚板の一枚だけ、わずかに色が違っていた。
「これを頼む」
兵士は松明をトーマスに手渡すと、棚の奥へと手を差し入れた。やがてその手が木の楔を抜き取ると、「カタン」と小さな音がして、棚全体がわずかに揺れた。
続いて兵士は棚の側面に手をかけ、ぐっと押しやる。今度は棚が横にずれ、その裏から石造りの通路が姿を現した。
「隠し通路か……?」
トーマスは、いつになく興奮した様子で呟いた。その顔は、まるで冒険を楽しむ少年のようだった。
「そうだ。先を急ぐぞ」
そう言うが早いか、兵士は迷いなく闇の中へと足を踏み入れた。高杉たちはしばし顔を見合わせたが、引き返すという選択肢はなかった。覚悟を決め、恐る恐るその後に続いた。
*・*・*
隠し通路は思いのほか広く、身長百六十五センチほどの高杉が屈まずに歩けるほどの高さがあった。
ただし空気は淀み、湿った土と古びた石の匂いが鼻をつく。
足元には乾いた土に混じって崩れた瓦礫が散らばり、踏みしめるたびに小石が音を立てた。
やがて湿気による不快感が増し、揺らめく松明の炎が壁に張りついた水滴を照らし出す。それでもひたすら進み続けると──通路は突然、斜めにせり上がるような角度へと変わった。
どうやら出口が近いらしい。高杉たちは滑りやすい石に足を取られぬよう、慎重に登っていく。
そのとき、行く手に岩の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。わずかな隙間から、仄暗い光が漏れている。
「よし……」
兵士は軽く気合を入れると、肩をその岩に押し当てた。そのまま力を込めて押してみるが、岩はわずかに軋むだけで動かない。肩の角度を変えて何度か試すが、やはり結果は同じだった。
「手を貸そうか?」
見かねたように、超短髪の囚人が声をかけた。鍛え上げられたその体つきは、まるで屈強な格闘家のようだ。
「頼む」
兵士は額の汗をぬぐいながら、短く応じた。今度は二人で肩を並べ、力を込める。
しばらくして、岩の軋む音が闇の中に響いた。
じわじわと開いていく隙間からは、湿った森の香りが流れ込んできた。漆黒の夜空に雷鳴が轟き、木々が微かにざわめくのを感じた。
*・*・*
「やった……」
隠し通路を抜けた瞬間、高杉は思わず呟いた。
しかし、兵士たちは一切喜びの色を見せず、稲光の走る方角へと黙々と歩みを進めていく。
「まだだ。油断するな」
最後尾を歩くトーマスが、高杉の肩を軽く叩いた。
高杉は、王国の外へ出られたのだと勘違いしていた。だが実際には、王国全体を囲む外壁ではなく、ただ城を囲む内壁の外に出ただけだったのだ。
先を行く兵士たちの背中を見つめながら、高杉は慌ててその後を追った。
しばらく雑木林を進むと、やがて視界が開けた。その先に広がっていた光景が、雷鳴の正体をはっきりと映し出していた。
雷光が幾度も夜空を裂く。しかし、それは天からのものではない。魔族の軍勢が放つ雷撃が、城壁の上へと次々に降り注いでいるのだ。炎に包まれた建物が崩れ、黒煙が夜空へと渦を巻いていく。
あまりにも現実離れした光景に、誰もが言葉を失っていた。
「それで……これからどうする?」
しばらくして我に返ったように、超短髪の囚人が兵士に問いかけた。険しい表情を浮かべているが、その口調はどこまでも落ち着いている。
「とりあえず、ハープを目指す」
兵士は城壁を見つめていた視線をゆっくりと超短髪の男へ向け、やや疲れた顔で答えた。
「それは結構だが、どうやって突破する気だ?」
今度は、もう一人の囚人がちらりと城壁を見やってから口を開いた。暗がりのせいか先ほどまでは気づかなかったが、その男はどこかチンピラめいた風貌をしている。
「ギヨーム・ル・グランの屋敷の地下だ」
兵士はそう答えると、一呼吸置いて続けた。
「あの屋敷の地下には──」
彼の話によれば、ギヨーム・ル・グランという豪商の屋敷の地下に、王国の外へと通じるトンネルの入口があるという。そのトンネルこそが、外に出るための唯一の手段らしい。
「先を急ぐぞ。ついて来い」
兵士は高杉たちに告げると、闇の中へと駆け出した。
*・*・*
高杉たちが草地を駆け抜けると、やがて石畳の道が姿を現した。そこにはすでに、避難しようとする人々が押し寄せていた。
荷馬車に荷を積み、必死に先を急ぐ商人。泣き叫ぶ子どもの手を引き、逃げ惑う家族。その顔には、恐怖と絶望の色が深く刻まれている。
そんな人々の姿を横目にしながらも、高杉たちは足を止めることなく進み続けた。やがて、邸宅街の入口付近まで辿り着く。そこからは、魔族の兵が放つ閃光がはっきりと見て取れた。
魔族の攻勢は激しさを増していたが、王国軍も黙ってはいない。城壁の上からは弓兵たちが絶え間なく矢を放ち、カタパルトが次々と巨大な岩を撃ち出している。
邸宅街の住人の多くはすでに避難したのか、窓から漏れる灯りもなく、ほとんど人影が見当たらない。広々とした石畳の道は月光を受けて鈍く輝き、整然と並ぶ豪奢な屋敷の輪郭が、闇の中にくっきりと浮かび上がっていた。
一方で、いくつかの屋敷の前では──数人の男たちが慌ただしく荷を抱え、手押し車に積み込んでいた。その薄汚れた身なりからして、火事場泥棒に違いない。
そうした邸宅街を駆け抜けていくうちに、先頭を走っていた兵士がふと足を止めた。彼の目の前には、炎に包まれ、今にも崩れ落ちそうな壮麗な屋敷がそびえていた。
天を焦がすような猛火に炙られ、白亜の列柱のいくつかはすでに倒れている。彫刻が施された巨大な門扉も半ば焼け落ち、炭化した梁が軋みを上げながら、かろうじて屋根を支えていた。
「そんな……!」
兵士は思わず頭を抱えた。“茫然自失”とは、まさにこのことだろう。彼は一点を見つめたまま、微動だにしない。
「まさか……ここなのか?」
超短髪の男が周囲を冷静に見回しながら、確かめるように兵士に問いかける。
「間違いない……」
兵士は頭を抱えたまま、ただ力なく項垂れた。
魔族の雷撃が火事の原因とは考えにくい。おそらく、関係者が自ら火を放ったのだろう。地下トンネルを隠すためか、それとも別の目的か──真相は定かではない。
ただ、ひとつだけ確かなのは、もはやそこに“逃げ道”は残されていないということだった。




