荘厳な扉
「現在地はここ。そして、ここがベイルだ」
トーマスは地図を指しながら静かに言った。高杉がその指先をたどって地図に視線を落とすと、今いる場所からベイル王国までは、かなりの距離があることがわかった。
「そこに行けば、この世界から離れられるんですか?」
高杉が声を落として率直に尋ねると、トーマスは少し困ったような顔をして高杉を見た。店のカウンターではジムが接客中らしく、楽しげな声が漏れ聞こえてくる。
「確実とは言えないが」
しばらく沈黙したあと、トーマスはそう前置きして語り始めた。
彼の話によれば──
インプッターが指定された場所で特定の行動をとることで、ゲームの世界は本来の正常な状態に修復される。その結果、プレイヤーは記憶障害などの深刻な副作用を負うことなく、ゲームの世界から完全に離脱できるという。
つまり、インプッターとは修正プログラムのような役割を持つ存在であり、そのプログラムを適用する場所が「ベイルの神殿」だというのだ。
「それで、ベイルの神殿だが──」
トーマスの説明は続く。
これから目指すベイル王国は、現在地から北へおよそ六百キロの場所にある。毎日、馬で十時間進んだとしても、到着までに十日前後はかかる計算だ。
さらに現在のベイル王国は、魔族の軍勢が拠点とする要塞と化しており、トーマス自身もまだ足を踏み入れたことがないという。
そのため、道案内役と護衛の確保は不可欠であり、それがなければ到底たどり着けないほど危険な場所らしい。
「そんな所まで行ってくれる人なんて──」
高杉が言いかけたところで、トーマスが頷き、「見つからないかもしれないな」と短く答えた。
その後、彼はしばらく腕を組んで黙考していたが、やがて顔を上げ、「まぁ、何とかしよう……」と静かに言葉を継いだ。
*・*・*
それから数日後。現実世界の高杉のもとに、トーマスから一通のメールが届いた。
メールには、「仲介役の商人を通じてベイル王国の複数の関係者と交渉を重ねた結果、支援に応じる意思を示す人物が現れた。ただし、その条件として“インプッター”の同席が求められている」と記されていた。
ゲームの世界へ戻った高杉は、さっそくトーマスが身を潜めているジムのパン屋を訪れる。
時刻は午前十時を少し過ぎた頃。この日も空は抜けるように青く、雲ひとつない快晴だった。
扉を押し開けると、香ばしいパンの匂いとともに、小さな鈴の音が店内に柔らかく響く。ジムはカウンターで客の応対をしており、入ってきたのが高杉だとは気づいていないようだった。
「トーマスさんに呼ばれて」
高杉は、先客がパンを抱えて店を出ていくのを見届けてから、ジムに声をかけた。しかしその瞬間、ジムは渋い表情を浮かべ、かすかに首を横に振った。
──何かがおかしい。
映画で見たような光景だ、と高杉は思った。洋画だったか邦画だったかは思い出せないが、この先の展開は容易に想像できた。
今すぐ立ち去るべきだ。
そう判断した高杉は踵を返し、店の扉を開けて一歩踏み出した──まさに、そのときだった。
ノンプレイヤーキャラクターと思しき兵士風の男たちが、突如として視界に飛び込んできた。
「ついてきてもらおうか」
男の一人が低く響く声で告げると、無言のまま高杉の腕を強引に掴んだ。気づけば、屈強な男たちに四方を囲まれており、逃げ道はどこにもなかった。
抵抗する間もなく高杉は力任せに引きずられ、馬車の中へ押し込まれた。扉が音を立てて閉じられると、車輪が地面を軋ませながら動き出す。
底知れぬ不安のせいか、心臓の鼓動が耳の奥でやけに大きく響く。馬車は速度を上げ、窓の外の景色が流れるように後方へと遠ざかっていった。
状況を飲み込めないまま、高杉はただ、無情に揺れる馬車の振動に身を委ねるしかなかった。
外の景色は徐々に変化していく。街の喧騒は次第に遠のき、馬車は静かな丘陵地帯へと入った。道の脇には広大な庭園が広がり、手入れの行き届いた芝生や噴水が整然と並んでいる。
だが、高杉にその美しさを味わう余裕はない。胸を締めつけるような不安だけが、馬車の揺れとともにじわじわと募っていく。
やがて、馬車は丘の上で止まり、目の前に壮麗な城が姿を現した。
それは圧倒的な存在感を放っていた。石造りの壁は、何世紀もの風雨に耐えてきたことを物語る。無数の尖塔は空に突き刺さるようにそびえ立ち、威圧的な影を地面に落としていた。
「降りろ」
冷たい声が耳を打つ。高杉は馬車を降りながら、反射的に後ろを振り返った。すると、別の馬車から無理やり引きずり降ろされるトーマスの姿が目に入った。彼もまた、捕らえられていたのだ。
目の前には、堀にかかった跳ね橋と、その向こうにそびえる重厚な城門。門前には、門兵と思しき二人の兵士が待ち構えていた。
高杉たちは無言のまま、兵士に押されて跳ね橋を渡る。幅はおよそ4メートル、長さは12メートルほどだろうか。踏みしめるたび、板がぎしりと音を立てた。
「両手を頭の上に。足を開け。そのまま動くな」
門楼の直下、鉄の落とし格子の手前で命じられる。どうやら、身体検査が始まるようだ。高杉は従うほかなかった。
門兵は無遠慮な手つきで、服の隅々まで探っていく。ふと横を見ると、トーマスも同じように検査を受けていた。トーマスの険しい表情が、この状況の深刻さを物語っていた。
*・*・*
検査が終わると、門兵の一人が門楼の上層──格子を引き上げる仕掛けのある方へ向き、指をくるくると回して合図を送った。
それに応じて、鉄の格子が軋む音を立てながら、ゆっくりと引き上げられる。続いて、奥の木扉も重々しい音を響かせて開いた。
城門をくぐった高杉たちが、そこから五分ほど進んだ頃のことだった。
黄金の装飾がひときわ目を引く、他のどの扉よりも威厳を湛えた扉の前で、先導していた兵士が足を止めた。両脇には近衛兵と思しき男たちが、無言のまま直立している。
「謁見の許しは得ているか?」
右手側の近衛兵が、先導の兵士に問いかけた。どうやらここは、玉座の間へと通じる場所のようだ。
「あの者が──」
兵士が高杉を指さし、何事かを答える。すべてを聞き取ることはできなかったが、“インプッター”について話しているのは明らかだった。
説明を受けた近衛兵たちは小さく頷き、納得した様子を見せる。やがて、左手側に立っていた近衛兵が、静かに扉の奥へと姿を消した。
「お目通りが叶うとのことだ」
しばらくして戻ってきた近衛兵が、そう告げる。そして、荘厳な扉がゆっくりと開かれた。




