犬上御田鍬
〇 最期の遣隋使
中華を統一した隋王朝に対して推古天皇は遣隋使を派遣しました。
四度目の遣隋使の大使として隋に向かったのは犬上御田鍬です。
しかし、当時の隋は各地で反乱が起きていて国が乱れていました。
犬上御田鍬は皇帝の煬帝に挨拶をすると帰国します。その数年後に隋は滅びました。
□ 推古22年(614年) 第四回遣隋使
□ 推古26年(618年) 隋が滅亡する
□ 推古26年(618年) 唐が建国される
――遣唐使の皆様へのインタビューする「シリーズ遣唐使」、第一回のゲストは犬上御田鍬となります。
犬上御田鍬「第一回は小野妹子殿では?」
――あれはプロローグで遣隋使の話ですので。話のメインは今回からです。
犬上御田鍬「そうですか。第一回目のゲストとして頑張ります」
――では遣隋使の話からとなります。推古朝において中華の大帝国の隋と国交を樹立して文明を取り入れ近代化するといのうが国是でした。その為に遣隋使が派遣されます。対等外交を目指したというのは大げさですが、冊封体制下には入らず周辺国の一つとして外交することには成功します。
犬上御田鍬「それが第二回遣隋使で小野妹子殿が成したことです」
――先進的な文化の導入については留学生を派遣して学ばせています。第三回遣隋使で高向玄理、僧旻、南淵請安など八人が隋に渡りました。彼らが帰ってくるのはかなり後になりますが………。第二回と第三回でおおよその目的は達したわけです。それでは第四回遣隋使の意図とはなんでしょう?
犬上御田鍬「私にも良く分かりません。隋のご機嫌伺い?」
――新たに留学生を連れて行ったわけでも連れて帰ったわけでもないですしね。
犬上御田鍬「隋がどのような状況なのかは推古天皇も聖徳太子も理解していたでしょう。様子を確認してくる任務もあったと思います」
――当時の隋は大運河の建設で莫大な予算と労力を消費して、同時に高句麗遠征で行っていました。その為に各地で反乱が起きています。
犬上御田鍬「情勢が不安定で危険でしたのですぐに帰国しました」
――隋の二代皇帝煬帝は第三次高句麗遠征から帰国した後に各地の反乱から逃亡して引きこもります。そしてクーデターで殺されました。新たに中華を統一したのは唐となります。
犬上御田鍬「隋が滅亡したので遣隋使は終了したということです」
――日本では聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇が相次いで亡くなります。
〇 最初の遣唐使
舒明天皇が即位すると最初の遣唐使が派遣されました。
遣唐大使には犬上御田鍬が任命されます。
□ 舒明元年(629年) 舒明天皇が即位する
□ 舒明 2年(630年) 第一回遣唐使
□ 舒明 4年(632年) 犬上御田鍬が帰国する
――推古天皇の次の天皇は舒明天皇です。舒明天皇は遣唐使の派遣を決めます。
犬上御田鍬「政治の主導権を握っていたのは蘇我蝦夷でしょうね」
――第一回遣唐使は朝鮮半島経由の北路を使用して唐へと到着しました。犬上御田鍬は唐の皇帝太宗に謁見します。ところで中華王朝には太宗は何人もいるので太宗(李世民)と表記します。
犬上御田鍬「太宗というのは中華王朝で太祖に次いで功績があった帝王の廟号です」
――軽く唐の建国と太宗(李世民)について紹介しましょう。父の太祖(李淵)が隋末期の混乱の中で挙兵して長安を占拠すると、禅譲を受けて唐を建国する。そして他の群雄を一掃して中華を統一しました。その時に活躍した太宗(李世民)が兄弟間の皇位継承争いを制して皇帝になりました。
犬上御田鍬「太宗(李世民)の即位は626年で遣唐使の四年前です。推古朝末期は聖徳太子や蘇我馬子が亡くなって政治的主導者の空白という事情もありましたが、唐がまだ安定していなかったということもあります」
――舒明天皇が即位して蘇我蝦夷が大臣として権力を掌握したので、遣唐使を派遣する余裕が出来たのは大きいけれど、そもそも唐が安定していなければ遣唐使を送る理由がありません。
犬上御田鍬「私は太宗(李世民)に謁見しました」
――遠くの大和から来たことを伝えると太宗(李世民)は「毎年は来なくて良い」と犬上御田鍬に言います。
犬上御田鍬「遣隋使も毎年行っていたわけではないので、遣唐使が毎年行く予定はそもそもないのですけど。十年に一度ほどで良いと言質が取れたのは良かったです」
――犬上御田鍬は632年に唐使・高表仁を伴って帰国します。
犬上御田鍬「第三回遣隋使で隋に留学していた僧旻らを連れて帰りました」
――この後の犬上御田鍬の動向は分かりません。ということで今回のインタビューはこれで終わりです。ありがとうございました。
犬上御田鍬「記念すべき第一回遣隋使の大使なのにエピソード少なくてすみません。ありがとうございました」
――遣唐使は帰還率が低いことが話題になります。今回は往復成功しましたので帰還率100%(1/1)です。